「あ、あああアアアアアあああ……!!!」
もはや実験場というより、一方的な処刑場だった。
粉塵爆発の煤と、焦げた小麦粉の臭いが漂う中、木寺一桁は走る。いや、走るなどという上等なものではない。足はもつれ、何度も地面に手をつき、泥と血にまみれながら、這うようにして逃げ回っていた。
「……ひッ、はぁ、げほっ……!」
喉の奥から、濃い血の味がする。即席の靴はとっくに四散し、足の裏は笑えるほどにズタズタになって、それでも走る。
痛い。一歩踏み出すたびに、血管を焼き切るような激痛が走る。
それでも止まれない。背後から、死神の足音が近づいてくるからだ。
「……ハッ、ハハハ! いいザマだなァ、おい! 愉快に尻振って誘ってんのかあ? そっちの趣味はねえんだがなあ!!」
「ほら、右だぜェ?」
指先が振られる。鉄片の弾丸が放たれる。
ドォ、ガ!!
木寺の進行方向、右側のコンテナがひしゃげて吹き飛ぶ。退路が塞がれる。
「……う、ガアアアアッ!」
木寺は悲鳴を上げ、逆方向へ転がった。顔面から水たまりに突っ込む。汚水が口に入る。泥の味が血の味に混じる。
「……ケッ。無様すぎて涙が出るぜ」
一方通行は、その様子を心底楽しそうに眺めていた。彼は、木寺をすぐに殺そうとはしていなかった。今の彼は、ただこの奇妙な「鬼ごっこ」に、得体のしれない興奮を覚えていた。
「なぁ、三下。……テメェ、結局なんで当たらねェんだ?」
一方通行が首を傾げる。彼が放つ攻撃。小石の散弾や、風の衝撃波。それらは全て、木寺を「殺さない程度に痛めつける」軌道で計算されているはずだ。足を潰す、腕を折る、肋骨を砕く。精密な計算に基づく拷問。
だが。やはり当たらない。
いや、当たるのだが、急所を外れる。骨を折るはずの一撃が、皮を削ぐだけで終わる。足を吹き飛ばすはずの風が、転ばせるだけで終わる。
一方通行は、木寺が普通の、例えば認識阻害系の能力者等ではない事を、徐々に感覚として理解しつつあった。
「……となると、不思議だなァ。俺の演算に狂いはねェはずなんだがなァ」
一方通行は、指先で空気を弄びながら、眼下の木寺を見つめた。
(……薄いんだよ)
彼が感じている違和感の正体。それは、木寺一桁という存在の希薄さだった。
能力者なら誰でも持っている、無意識のAIM拡散力場。生命が発する敵意や殺気。それらが、この少年からは一切感じられない。
まるで、そこには虚無しかないかのように。あるいは、風に舞うただのゴミ袋であるかのように。
一方通行の能力は、皮膚に触れるベクトルを自動で反射する。
その際、彼の脳は無意識に「自分」と「外界」の境界線を認識している。
だが、木寺の存在があまりに希薄であるため、その境界線が曖昧になるのか。
「敵」としてロックオンしようとしても、照準が滑る。意識して目で追い、手動で補正しなければ、攻撃が掠めることもしない。
(……ハッ。透明人間か?)
一方通行は嗤った。
「面白いじゃねェか。……どこまで逃げられるか、もうちょっと試してやろうか?」
彼は、コンテナから飛び降りた。
ドォォ、ン……と着地の衝撃で地面が揺れる。
「ひぃッ……!?」
木寺は、這いつくばったまま後ずさった。涙と鼻血で顔はひどいことになっている。怖い。ただひたすらに怖い。
啖呵を切ったが策なんて、本当はもう尽きた。罠も使い果たした。残っているのは、ボロボロの体と、すり減った心だけだ。
「……助け、て……」
思わず、本音が漏れた。誰にともなく。神様でも、悪魔でも、通りすがりの警備員でもいい。この恐怖からはやく俺を解放してくれ。
「……助けてくれよぉ……!」
木寺は、無様に泣き叫びながら、瓦礫の山を乗り越えた。
逃げる。逃げても意味がないとわかっていても、体が勝手に動く。
その姿は、ヒーローとは程遠い。ただの、死にたくなくて暴れる虫けらだ。
:
その「虫けら」の姿を、暗闇の中から彼女は見つめている。
御坂一○○三二号。彼女は木寺の戦いを、ひたすらにただ観測し続けていた。
コンテナの隙間から、彼女は戦場を見て、思考し続けていた。一方的な虐殺。最強の怪物に弄ばれ、泥水をすすり、悲鳴を上げて逃げ回る少年の姿。
「…………、」
一○○三二号は、自分の胸に手を当てた。彼女の中の何かが、さっきから五月蠅いほどにおかしなモノを吐き続けている。
合理的に考えれば、彼はもう死んでいるべきだ。あるいは、降伏して殺されるのを待つべきだ。なのに、なぜ彼は動き続けるのか。なぜ、あんなに怯えながら、それでも一方通行という絶対的な死の象徴から、目を逸らさずに、惑えるのか。
『……そういう奴が、モノ扱いされて死ぬのが、俺は気に入らねえんだよ』
彼の言葉が、リフレインする。
気に入らない。たったそれだけの理由。そのエゴのために、彼は今、地獄の釜の底を這いずり回っているのか。
「……あ」
一○○三二号の視界の中で、木寺が転んだ。何度も転んで、もう起き上がる力もなさそうなのに、それでも泥だらけの手で地面を掻いて、前に進もうとしている。
震えている。体中が、小刻みに震えている。その姿が。彼女の記憶の残留にある、ある映像と重なった。
昨日の黄昏時。段ボール箱の中で、震えていた、あの子猫。親からはぐれ、空腹で、喉が渇いて、ただ怯えることしかできなかった、小さな命。
「……同じ、です」
一○○三二号は呟いた。今の木寺は、あの時の猫と同じだ。無力で。弱くて。誰かに守られなければ、すぐに消えてしまいそうな、儚い命。
「……ミサカは、あの時……」
彼女は情報を、反芻した。一○○三一号が、そして自分が、あの猫を見た時、胸の奥に生じた、名状しがたい感覚を、想像する。
『可哀想』とも違う。『守らなければ』という義務感とも違う。もっと根源的な……『壊れてほしくない』という、切実な痛み。
今、彼女の胸に、あの時と同じ痛みが走っていた。あの猫と同じように無様な木寺を見て、胸が張り裂けそうになっていた。
「……嫌です」
一○○三二号の口から、言葉が漏れた。それは、命令でも報告でもない。彼女自身の、感情の吐露。
「彼が死ぬのは……絶対に、嫌です」
ミサカは実験動物だ。死ぬことに意味がある。でも、彼は違う。彼は人間だ。あの日、猫の飼い主を一緒に探してくれ、自分のために、怒り、泣いてくれた人間だ。そんな彼が、あんな風に壊されるのは、すごく、すごく、嫌だ。
「……助けなきゃ、いけません」
一○○三二号は、もう一度、アサルトライフルを握り締めた。だが、銃では一方通行には通じない。弾丸は反射される。爆発も効かない。どうすればいい? どうすれば、あの「最強」に一矢報いることができる?
その時。戦場に変化が起きた。
「……ここらでいいかァ」
潮時だ。
残ったのは、祭りの後のような殺意と、自身の最強性が「バグ」によって汚されていることへの、得体の知れない感覚だった。
彼は学習していた。この数分間の、泥沼のような「鬼ごっこ」を通じて。学園都市第一位の頭脳は、木寺一桁という存在の特異性を、感覚的かつ論理的に解析し終えていたのだ。
(狙えば外れる。意識すればぼやける。……まるで、脳のオートフォーカスが機能不全を起こしているみてェな感覚だ)
小石を投げても、風をぶつけても、決定打にならない。それは木寺が避けているのではない。一方通行の無意識下の演算領域が、対象を「無害な空気」や「背景ノイズ」と誤認し、出力や軌道を勝手に
最強の反射能力が、皮肉にも「敵と認識できないほど希薄な相手」に対しては、ただのザルと化している。
目の前の男は、存在値が限りなくゼロに近い『Null』だ。数式に組み込めばエラーを吐き、座標を指定すれば計算外の挙動を示す。
「……ふん」
一方通行は、自身の計算ミスを認める代わりに、相手の性質を再定義した。認識阻害。ステルス。あるいは、存在希薄化。
そんな代物ではないのは間違いない。そして、それ以上を考える事も、もはや無意味だろう。
どんなタネがあるかは知らないが……個別のポイントとして木寺を狙う限り、このイタチごっこは続く。脳のリソースを無駄に食い潰すだけだ。
彼は、ゆっくりと右足を持ち上げた。その動作は緩慢だったが、纏う空気は張り詰めていた。
彼の脳内で、新しい計算式が組み立てられていく。ターゲットの座標が特定できないなら、変数を変えればいい。
対象物ではなく、環境、フィールドそのものを凶器に変える。
「テメェがどこにいようが、見えていようがいまいが……。『この場所』に立ってることは間違いねェんだろ?」
ドンッ。
彼が足を踏み下ろした瞬間。世界が、酔ったようにぐらりと揺れた。
地響き。
いや、それは自然現象としての地震ではない。もっと人工的で、数学的な振動の波及。
一方通行は、足元の硬い地面に特定のパターンのベクトルを流し込んだのだ。
──波動の干渉と共振。
コンクリ、砂利、鉄筋、土壌。地面を構成するあらゆる物質には、それぞれ「固有振動数」が存在する。
一方通行は、接触点から地中深くに探査ベクトルを走らせ、このエリア一帯の地盤構造を瞬時にスキャンした。
そして、その結合を最も効率よく破壊し、流動化させるための共振周波数を逆算し、叩き込んだのだ。
固体が、液体の挙動を見せ始める。物理学で言うところの『液状化現象』を、ベクトル操作によって強制的に、かつ大規模に引き起こす。
『地殻共振』
「な、んだ……!!?」
木寺は悲鳴を上げた。立っていられない。地面が、まるで沼のように波打ち始めたのだ。
硬いはずの地面が飴のようにたわみ、亀裂が走り、隆起する。視覚情報と平衡感覚が乖離し、強烈な吐き気が襲う。
「う、アアアアアあああッ!!」
木寺の足元の地面が、突如として槍のように突き出した。鋭利なコンクリの棘。
木寺は無様に転がり、間一髪でそれを避ける。だが、転がった先もまた、波打つ大地の上だ。逃げ場がない。
これは攻撃ではない。環境の改変だ。木寺が認識されようがされまいが関係ない。彼が重力に縛られ、地面の上に存在している限り、この攻撃は必中となる。
「ハッ! 踊れよ三下ァ!!」
一方通行が笑う。彼は、この混沌とした波の中心で、唯一静止していた。自分に向かってくる振動ベクトルだけをキャンセルし、周囲の世界だけを崩壊させていく。その姿は、荒れ狂う海を統べる神のようだった。
「……が、はあっ……!」
木寺は、四つん這いになって吐血した。振動が、肉体を通り越して内臓を直接叩く。胃が裏返りそうだ。骨がきしむ。
罠? 目くらまし? そんなものが何になる。地面が裏切った今、立っていることさえできないのに。
わずかに残ったガラクタの武器も、波打つコンクリの海に飲み込まれていく。
(……詰んだ、か……?)
視界が揺れる。一方通行が、五指を振っていく。それに呼応して、周囲のコンクリ片が浮き上がり、巨大な津波となって木寺の頭上に覆いかぶさろうとしていた。
質量による圧殺。これなら、「認識」など関係ない。ただ、そこにある空間ごと押し潰すだけだ。
「……潰れろ」
一方通行が無慈悲に宣告する。数十トンの土砂と瓦礫の波が、物理法則を無視した軌道で、崩落を開始する。
「…………!!」
御坂一○○三二号。
彼女の電子的な装備が高速でそれを処理していた。電子線、低照度補正、振動感知。眼下の惨状をデータとして拾い上げる。
(……状況確認。一方通行による広域地殻操作。地盤の固有振動数への干渉を確認。キデラの生存確率は、現時点で極限まで低下)
淡々とした思考。
彼女は、実験動物だ。製造単価18万円。寿命短縮されているクローン体。ここで木寺が死ぬのは、実験における部外者の排除というアクシデントに過ぎない。
ミサカは動く必要はない。動いてはいけない。それが、製造された時からの絶対命令。
だが。
彼女の指が、アサルトライフルのグリップに、ミシミシと音がするほど食い込んでいた。
先ほど、木寺が漏らした情けない悲鳴が、耳の奥にこびりついている。
彼は怖がっていた。誰よりも死を恐れていた。なのに、彼はミサカを逃がすために、自ら囮になった。
自分よりも価値の低い、替えの利く人形のために。
(……胸部における原因不明の圧迫感が…………)
彼女の頭脳が、コンクラクトを起こす。実験の遂行という最優先事項と、目の前の事象に対する衝動が矛盾し、熱暴走を起こしかけている。
それらが、彼女の中の「何か」を──初期設定にはなかった未知の領域を、不可逆的に書き換えていた。
一○○三二号は、アサルトライフルを背中に回した。
一方通行は今、地面を支配している。あの振動を止めなければ、キデラは十秒弱後に圧死する。
(……干渉します。これは、ミサカ自身の意志による選択です)
言葉には出さない。誰にも許可を求めない。彼女はただ、その瞳を鋭く細めた。拒絶という言葉すら飲み込み、行動だけで示す。彼を助けたいという、たった一つの衝動を。
一○○三二号は、戦場をスキャンした。揺れる大地。崩壊するコンテナ。その地下に眠る、インフラの鼓動。
彼女は「エレクトロマスター」のクローンだ。オリジナルである御坂美琴には遠く及ばないが、微弱ながら電磁波や磁力線を感知し、操作することができる。
(……地下3メートル。高圧送電ケーブルの反応を確認。電流密度、高)
高速で彼女は思考する。
この第十七学区貨物操車場付近は、学園都市の物流拠点の一つだ。大型のクレーンや、リニアモーター駆動の搬送ラインを動かすために、地下には極太の電力パイプラインが張り巡らされている。
一方通行の振動波は、地盤だけでなく、そのパイプラインをも揺さぶっているはずだ。
一方通行の演算は完璧だ。だが、完璧であるがゆえに、「精密」でなければならない。
地面を液状化させるための共振。それは、ナノ秒単位のベクトルの制御の上に成り立っている。
もし、その足元から、計算外の巨大なエネルギーが暴走したら? 地下から強力な電磁干渉や、物理的な爆発が発生したら? 繊細で高級な指揮棒を、横からへし折るような衝撃を与えれば?
(……計算式を、壊します)
一○○三二号は、動いた。音もなくコンテナから飛び降り、近くにあったマンホールの蓋を蹴り飛ばす。
暗い穴。そこには、太いケーブルが束になって走り、鈍い唸りを上げている。
彼女は、懐から手榴弾を取り出した。対人用の破片手榴弾ではない。高熱を発する焼夷手榴弾。
ピンを抜く。だが、投げるのではない。彼女は、マンホールの中に身を乗り出し、手榴弾をケーブルの束に直接押し当てた。
ケーブルの被覆を焼き切り、中の導体を露出させる。そこに、自身の掌から、限界出力の電流を流し込む。起爆の衝撃と同時に、電気的なショートを誘発する。
自爆に近い行為。爆風と電撃が、彼女自身の腕を焼くだろう。だが、恐怖はなかった。あるのは、明確な「意志」だけ。
(……食らってください)
カッ!!!!
地下道で、爆音と閃光が弾けた。焼夷弾の高熱が、強化プラスチックの被覆を一瞬で溶解させる。
露出した導線同士が接触し、
行き場を失った熱エネルギーは、地下水脈を沸騰させ、水蒸気爆発を誘発する。さらに、その急激なエネルギー放出は、強烈な磁気嵐となって地上へ噴出した。
フレミングの左手の法則。
暴走する電流と磁場は、物理的な力──ローレンツ力を生み出し、一方通行が支配していた「振動のベクトル」に、デタラメなノイズとして干渉する。
ズド、ガアアアアアァァァアッ!!!!!!
地面が、悲鳴を上げた。一方通行の計算通りに波打っていた硬い地面が、下からの突き上げによって粉砕される。
そして、木寺を押し潰そうとしていた土砂の波が、空中でぴた……と静止した。
「……あァ!?」
一方通行が、不快げに声を上げた。足元の感覚が狂う。地面に流し込んでいたベクトルが、地下からの爆発と電磁波によって乱されたのだ。
計算式に計算外が走る。共振の周波数がズレる。
「1」だと思っていた入力値が、磁場の干渉で「1.0001」になり、それが数億回の振動の果てに決定的な誤差となる。
液状化していた地面が、急激に硬化し、あるいは不規則に破裂する。
「チッ、なんだ……!?」
一方通行は舌打ちし、バランスを崩しかけた体をベクトル操作で支えた。地面の制御が外れる。
木寺の頭上に迫っていた瓦礫の波が、支えを失ってバラバラと崩れ落ちた。統率を失った土塊は、直撃コースから逸れ、木寺の周囲に無秩序な山を作るだけに終わる。
「……げほッ、はぁ、はぁ……」
木寺は、瓦礫の隙間で丸まり、荒い息を吐いていた。助かった。なぜだかわからないが、地面の揺れが収まった。空から降ってくるはずの死が、霧散した。
彼は、霞む目で周囲を見た。少し離れたマンホールから、黒煙が上がっている。そして、その煙の向こうから、よろめきながら現れる人影。
「……ミサカ……?」
一○○三二号だ。彼女の右手は、爆発の余波で袖が吹き飛び、皮膚が赤く焼け焦げている。制服も煤け、ボロボロだ。
痛いはずだ。立っているのもやっとのはずだ。だが、彼女は立っていた。木寺と一方通行の間に、割って入るように。
彼女は何も言わない。「助けました」とも、「逃げてください」とも言わない。ただ、茶髪の奥から覗く瞳だけが、雄弁に語っていた。
一方通行を射抜くような、強い敵意。そして、木寺を守ろうとする、断固たる決意。
(……お、前……)
木寺は、胸が熱くなるのを感じた。彼女は、逃げろという命令に背いた。人形としての役割を捨て、自分の意志で戻ってきた。
ボロボロになりながら、それでも木寺の視線の先に立つその姿は、どんなヒーローよりも頼もしく、そして切なく見えた。
「……テメェか」
一方通行の視線が、木寺から一○○三二号へと移る。地面の制御を乱された原因。地下からの電磁干渉。ただの人形だと思っていたクローンが、あろうことか実験の主導者である自分の邪魔をした。
「……おいおい、壊れたかァ? 実験動物が飼い主に噛み付くなんてよォ」
一方通行の声は、怒りよりも呆れを含んでいた。彼にとって、クローンの反乱など想定外のバグでしかない。プログラムのエラー。不良品。そう処理しようとした。
だが、一○○三二号は一歩も引かなかった。彼女は無言のまま、焼け焦げた右腕を握り締め、一方通行を睨み返す。
その瞳には、恐怖も、服従の色もなかった。あるのは、一人の人間としての「怒り」。
一方通行は、その視線に一瞬だけ気圧されたように眉をひそめた。人形が、人間のような目をしている。それが、彼にとって最大の違和感だった。
「……上等だ」
一方通行は、つまらなそうに首を鳴らした。地面の制御はもう使えない。地下のインフラがズタズタになり、精緻な振動計算が面倒くさくなったからだ。足場は信用できない。
なら、どうする? 小細工は終わりだ。個別の攻撃も、環境利用も、このイレギュラーな二人組には通用しにくい。
ならば、もっと単純で、もっと圧倒的な力でねじ伏せるしかない。
「地面がダメなら、空か」
彼は、木寺と一○○三二号、二人をまとめて視界に収めた。その瞳に、より深く、より暗い闇が宿る。
それは、科学的な探究心でも、実験への義務感でもない。単なる、破壊衝動。
「どいつもこいつも、チョロチョロと……。面倒くせェ」
一方通行は、両手を広げた。地面がダメなら、風がある。空気がある。
彼は。
木寺一桁という奇妙な「的」を通して、かつてなかった奇妙な感覚を掴みかけていた。
それは全能感か、あるいは、これまで空欄だった場所にチェックマークが入るような、能力の歯車が、かつてない場所で回転を始めるような。
どこかへと、近づいていく心地よい感覚。
大気が、彼の意思に呼応して唸りを上げ始める。地面の振動など比較にならない、圧倒的な破壊の予兆。
「くかき」
一方通行が口角を歪める。
彼が選んだ次なる手段。それは、空気そのものを兵器と化す、広範囲殲滅攻撃──プラズマ生成への移行だった。