空間が、物理法則が、悲鳴を上げる異界と化していく。
「……圧縮だ」
彼の皮膚に触れる大気のベクトルが、瞬時に書き換えられる。半径数百メートル以内の空気が、彼の手のひら一点に向かって、強制的に吸引され始めたのだ。
ヒュオオオオオオォオオオオッ!!
風の唸りが、轟音へと変わる。断熱圧縮。気体を急速に圧縮することで、内部エネルギーを熱へと変換する現象。
ディーゼルエンジンの着火原理と同じだが、そのスケールが桁外れだ。何トンもの空気が、ゴルフボールほどのサイズに押し込められる。
行き場を失った運動エネルギーは、熱と光に姿を変え、物質の相転移を引き起こす。
バチッ、バジチチッ!!
紫電が奔る。空気の絶縁が破壊され、電子が剥ぎ取られる。彼の手の上に生まれたのは、摂氏一万度を超える高エネルギーの球体。
『プラズマ』。それは、地上の太陽だ。コンクリが熱で白く変色し、鉄のコンテナが飴のように溶け出す。
「……あ、あ……」
木寺一桁は、その圧倒的な光を見上げていた。目が焼ける。数十メートル離れているのに、皮膚の水分が一瞬で蒸発するような熱気。
これは「戦い」ではない。災害だ。
あんなものが放たれれば、避けるとか防ぐとか、そんな次元の話ではない。この区画ごと、俺という存在が、原子レベルで分解される。
「……終わりだ、虫けら。テメェの安っぽい小細工も、その減らず口も、なにもかもなァ」
一方通行の白い髪が、逆立つようなエネルギーの余波で揺らめく。彼の赤い瞳は、もう木寺を見ていない。ただ、自身の生み出した破壊の美しさに、陶酔しているようにさえ見えた。
「塵も残さず……消え失せな」
彼が腕を振り下ろそうとした、その時。
操車場に、
轟ッ!!!!
突風。
いや、そんな生易しいものではない。右から、左から、上から、下から。デタラメな方向から、断続的に叩きつけるような暴風が、一方通行を襲った。
「……あァ?」
一方通行の手元が狂った。彼の手の上で輝いていたプラズマ球が、ブ、ウンと不気味な音を立てて歪んだのだ。
完全な球体を保っていたエネルギーの塊が、アメーバのように形を変え、不安定に明滅する。
「……なンだ、この風は……!?」
彼は空を見上げた。彼の「反射」は自動だ。だが、「プラズマの生成」は能動的な演算だ。
周囲の風のベクトルを読み取り、それを一点に集中させる計算式。その式に代入される「風向き」と「風速」が、コンマ一秒ごとに乱数のように変動している。
Aだと思えばBになり、Bだと思えばCになる。予測不能。カオス理論そのもの。バタフライ・エフェクト。
この場所の空気の流れが、複雑怪奇なスパゲッティのように絡ませられていく。
(……誰だ? 何をしやがった?)
一方通行の脳内で、執拗に数字の羅列が塗りつぶされる。演算リソースが、風の計算の補正処理に食われていく。
プラズマを維持するだけで、脳の容量の半分以上、いや、八割近くを持っていかれる。このままでは暴発する。自分の手の中で、太陽が爆発するようなものだ。
風とは、空気の移動。
彼は、周囲の気圧差や風向を計算し、膨大な量の空気を一点に留め置くために、毎秒数億回のベクトル補正を行っている。
つまり、あの太陽の燃料は「風」であり、その制御装置は彼の「脳」。
もし、その入力データが狂ったら? 「1秒後に東から吹くはずの風」が、突然「西からの暴風」に変わったら? 計算の
彼は──木寺一桁でさえ知る由もない。木寺の行動に、一○○三二号の選択に、呼応した10000体近いクローンたちが、自分の意志で選択した、運命を変える為の行動を。
彼女たちの意識が、電子の海を駆け巡り、風を作る。それも、自然界にはあり得ない、デタラメで、無秩序な風を。
学園都市中の数千、数万の巨大プロペラが、一斉に悲鳴のような駆動音を上げている。あるものは限界を超えて高速回転し、あるものは急ブレーキをかけ、あるものは逆回転を始めている。
プロペラの角度が滅茶苦茶に変更され、風を受け流すのではなく、空気を叩き、かき混ぜていく。
整然と流れていた夜風が、散り散りに引き裂かれる。
乱気流。渦。逆風。人工的なカオスが、第十七学区の大気を
「……チッ、ふざけやがって……!」
一方通行は、苦渋の決断を迫られた。攻撃か、防御か。この不安定な爆弾を投げつければ、この「透明な男」は殺せるかもしれない。だが、力が暴走して自分に跳ね返ってくるリスクもある。
何より、この「わけのわからない現象」への対処が先だ。最強の怪物は、自らの安全マージンを確保するために、リスクを回避した。
「……ケッ。シラけたぜ」
彼は、手を開いた。拘束を解かれた空気が、爆発的に拡散する。プラズマが、霧散していく。
超高熱のエネルギーが、大気中に薄まり、ただの熱風となって周囲を薙ぎ払う。一万度の死が、ぬるいドライヤーの風へと変わった。
「……運のいい野郎だ」
一方通行は、木寺の方を向き直った。プラズマは消えたが、まだ殺意は消えていない。
風の計算に脳のリソースを割きながら、反射の設定を「対・広域破壊」から「対・
そう思って、彼は木寺がいた場所を見た。
──
さっきまでそこにへたり込んでいたはずの、木寺一桁の姿が消えていた。瓦礫の山だけが残されている。
「……あ?」
一方通行の思考が一瞬、空白になる。どこへ行った? 逃げたのか? この、風が荒れ狂うタイミングで? プラズマの閃光に目が眩んでいる隙に?
(……いや、違う…………)
逃げたのなら、背中が見えるはずだ。足音が聞こえるはずだ。だが、殺気がない。足音がない。AIM拡散力場がどこにも、ない。
視界には何も映っていない。なのに、何かが迫っている気配がする。本能が、第六感が、警鐘を鳴らしている。「無」が、こちらに向かって走ってきていると。
風の音にかき消され。乱気流に紛れ。存在を消した何かが。
「……ッ!!」
一方通行は、視線を下げた。正面。低い姿勢。地面を這うような、動物的なダッシュ。
いた。木寺一桁だ。逃げていなかった。彼は、突っ込んできていたのだ。
プラズマが霧散したその瞬間、熱風を正面から受けながら、目を見開いて。叫びもせず、吠えもせず。ただ無言で。
泥だらけの顔。血走った目。手には何も持っていない。ただ、固く握り締めた右の拳だけがある。
カオスの風が、彼の足音と気配を完全に隠蔽していた。
そして何より、一方通行の脳が「風の計算」と「プラズマの処理」にリソースを奪われていた今、AIM拡散力場を持たない木寺の存在は、彼の認識フィルター、優先順位の最下層に追いやられていたのだ。
プロペラによる攪乱。木寺の「希薄さ」。そして、一方通行の「最強ゆえの慢心」。
全ての要素が奇跡的に噛み合い、最強の盾に、針の穴ほどの一瞬の隙を穿つ。
「……懲りねェなァ!!」
一方通行は笑った。余裕だ。反射の設定を戻す。
一瞬未満の時間で風の計算をバックグラウンドに回し、目の前の敵を迎撃する態勢へ。
間に合う。
念には念を。
何か策があるようだが、いくら不意を突かれようと、俺の演算速度なら、拳が届く前に「完全なる反射」を展開できる。指一本触れさせずに、その腕をねじ切ってやる。ベクトルを逆流させて、心臓まで破壊してやる。
俺の反射は絶対無敵の防御壁だ。希望なんて簡単に打ち砕ける。
「……!?」
だが。その切り替えに、コンマ数秒のラグが生じた。
一○○三二号達が作り出した風のノイズが、皮膚直上の計算式に絶え間なく
『風向き変更』『気圧低下』『乱気流発生』。脳内のポップアップウィンドウが無限に開くような状態。
システムが「敵」として認識するより早く、物理的な肉体が迫る。
その一瞬が。木寺にとっては、永遠にも等しい「勝機」だった。
(……
木寺一桁は確信した。風が荒れ狂う中、砂塵が舞うカオスの中心で、彼の感覚は研ぎ澄まされ、彼は目の前の「白」を捉えていた。
あいつの目が、俺を捉えきれていない。
焦点が合っていない。
赤い瞳孔が、一○○三二号が引き起こした乱気流の計算と、突如として懐に飛び込んできた「希薄な異物」との間で、激しく揺らいでいる。
反射の膜が、まだ完全に展開されていない。
最強の盾に、針の穴ほどの隙間が空いている。「反応なし」が「すり抜けてしまう」程の、確かな隙間が。
「………………!」
心臓が破裂しそうだ。恐怖? いや、これこそが武者震いだ。
人生で初めて、自分が世界の中心にいるような感覚。
誰の影でもない。誰のモブでもない。今、この瞬間だけは、俺が世界の主役だ。
右手を握り締める。
ボロボロのゴム手袋の中。ブラックジャックみたいに握り込むのは、汗ばんだ120円分の硬貨。俺の全財産。俺の意地。俺の命。
ジュース一本買ってお終い程度の、ちっぽけな価値。
能力を持たない俺が、物理法則に抗うために用意した、ちっぽけな質量の加算。
(……歯ァ食いしばれよ、
木寺一桁は、最後の一歩を踏み込んだ。泥と血の足底が、硬い地面を噛む。脚の骨が悲鳴を上げる。筋肉が断裂しそうなほど収縮する。
構わない。砕けろ。千切れろ。
この一歩のために、俺は今日まで生きてきたのかもしれない。逃げて、隠れて、卑屈に笑って。そうやって守ってきた「何もない自分」を、全部、この拳に乗せる。
お前が計算できない「バグ」を。お前が見下してきた「雑魚」の重みを。その涼しい顔面に、叩き込んでやる。
「……ッ!!」
一方通行の脳内で、かつてない警報が鳴り渡った。遅い。「完全なる反射」の再構築が間に合わない。風と小細工の計算にリソースを食われすぎたからか?
そして何より、目の前の少年──木寺一桁という存在が、あまりにも「虚無」。
殺気がない。敵意がない。英雄的な威容もない。ただの、石ころ。ただの、背景。そんなものが、自分に牙を剥くなどという事象を、彼の最高峰の頭脳は想定していなかった。
『こいつは……何だ!?』
初めて抱く、正体不明の焦燥。
彼は本能的に首を捻り、回避行動を取ろうとした。だが、体勢が悪い。風に煽られ、重心が浮いている。
(……俺の
木寺は、拳を振りかぶった。ボクシングのような綺麗なフォームじゃない。喧嘩慣れした不良のパンチでもない。
上条当麻のような「
あるのは、ただの質量と、速度と、そして泥臭い執念だけ。
今まで飲み込んできた理不尽への怒りを、そのまま突き出すだけの、子供の喧嘩。
「……ちょっとばかし、痛ぇぞ!!」
鈍い、しかし重い音が、暴風の音を切り裂いて響いた。木寺の拳が、一方通行の顎を捉えた。反射が完全な強度を取り戻す、ほんの刹那コンマ数秒前。
生身の拳が、反射膜をすり抜け、最強の肉体に深々と突き刺さったのだ。
「……が、ッ!?」
一方通行の顔が、くの字に歪んだ。想定外の衝撃。
硬貨を固め込んだ拳の硬度が、彼の白い肌を食い破る。脳が揺れる。顎が砕ける。視界が明滅し、白い閃光が弾ける。
意識がブラックアウトする寸前、彼が感じたのは「痛み」だった。生まれて初めて感じる、生の「痛み」。
反射を通さず、直接神経を逆撫でする、暴力の味。それが、彼自身の演算をさらに混乱させ、反射の制御を完全に失わせる。
バキバキバリイイイッ!!
同時に、木寺の右腕から、嫌な音が響いた。
インパクトの瞬間、遅れて発動した反射の一部が、制御を失ったまま暴走し、木寺の拳へのベクトルをランダムに逆流させたのだ。
自分のパンチの威力が、数倍になって、あるいはデタラメな方向から返ってくる。指の骨が粉々に砕ける。手首が折れる。衝撃が腕を伝い、肘の関節を外し、肩の筋肉を引きちぎって──
「……ぐ、あああああああッ!!」
木寺もまた、吹き飛ばされた。右腕が、ありえない方向に曲がっている。激痛。神経系を焼き切るような、経験したことのない激痛。
だが、その痛みさえも、今は……彼には、他人事の、ようだった。
届いた。触れた。殴った。あの怪物に、俺の拳が、確かに届いたんだ。
二人の体が、地面に転がる。ズザザザザ……と、砂利を巻き上げ、泥にまみれ、数メートル転がって、ようやく静止する。
風が、止んだ。一方通行の意識が途切れたことで、彼と干渉していた大気の制御が解けたのだ。
あれほど荒れ狂っていた暴風が、すべて、嘘のように静まる。舞い上がっていた砂煙が、ゆっくりと、雪のように降り注いでいく。
静寂が、世界に戻ってくる。
木寺は、仰向けに倒れたまま、空を見上げた。曇り空の隙間から、月が見えた。本当に綺麗な、満月だった。
こんなに綺麗な月を、今まで見たことがあっただろうか。
「ぁ、………………」
木寺の意識が、遠のいていく。痛みで麻痺しているのか、それとも出血のせいか。体が冷たい。指先の感覚がない。
全身の感覚が、ない。
(ちゃんと……倒、した、よな……?)
首を動かそうとしたが、動かない。視界の端だけで、周囲を探る。数メートル先に、白い塊が倒れているのが、見える。
一方通行。手足が投げ出され、泥に汚れ、ピクリとも動いていない。気絶している。
あの最強が。核兵器すら通用しないはずの怪物が、ただのパンチ一発で、地面に這いつくばっている。
(……く、っ…………)
木寺の口元が、わずかに緩んだ。引きつった、血まみれの笑み。
勝った。いや、相打ちか。俺ももう動けない。でも、あいつは倒れた。実験は、止まるはずだ。
レベル0が、レベル5を、殴り倒したんだ、なあ。
ざまあみろ。見ただろ、御坂。見ただろ、一○○三二号。俺は逃げなかったぞ。最後まで、立っていたぞ。
じわりと、目頭が熱くなる。零れるように、涙が出た。でも、それはいつもの悔し涙ではなかった。
安堵と、達成感と、そして自分が生きてここにいる事の実感。自分の中に、空っぽだった場所に、何かが満ちていく感覚。
(……御坂……)
あいつは、大丈夫だろうか。まだ、あそこで眠ってるのかな。俺が、あいつの絶望を殴り飛ばしたことを知ったら、どう、思うだろうか。
(……一○○三二号……)
あいつは、無事だろうか。この後、ちゃんとここから逃げてくれるだろうか。いや……、あいつなら大丈夫だ。最後に流れを変えてくれたのは、きっとあいつだ。俺たちは、二人で勝ったんだ。
(一○○三、一号……)
助けられなくて、ごめん。あの時、逃げて……本当に、ごめん。
でも……俺は、やったぞ。お前の仇を、とったんだ。
多分、お前はそんなこと、望んじゃいないだろうけど……それでも、あのクソ野郎を……俺が、ぶん殴ったから。
みんな……俺は、約束を守れたか?
ダサくて弱い臆病者は、ダサいなりに、少しでも……ほんのちょっとでも、足掻けたか?
視界が暗くなる。音も遠くなる。木寺一桁の意識は、深い闇へと落ちていく。
それは、死の闇だった。
彼の心臓は、反射によって引き裂かれて、鼓動を停止していた。