とある科学の存在証明   作:かさねtyann

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無能力者の定義と脳容量の定量

 

 古い室外機が小うるさいベランダ。

 木寺一桁は、ぬるい缶コーヒーを頭に乗せ、ペンキの浮いた手すりに背中を預けていた。

 ガラス戸の向こう、六畳一間の部屋では、上条とインデックスがテレビのバラエティ番組を見て笑い合っている。

 小萌先生はキッチンで夕食の支度──という名の、レトルト食品の湯煎──をしている。

 

 日常的光景だ。

 上条のダメージは驚異的な速度で回復し、インデックスも元気を取り戻した。

 だが、その平穏は、時間制限という薄氷の上に成り立っている。

 あと一日か、二日。それでおしまい。

 

 それが上条が瀕死になってまで掴み取った時間だった。

 

 インデックスの記憶は消去される。上条はその事実を知りながら、彼女の前では笑顔を貼り付け、ピエロを演じている。

 

 

(……どういう、精神力だあいつ)

 

 

 木寺はガラス越しに友人を見る。自分なら耐えられない。好きな女の子の記憶が消えるとわかっていて、あんな風にバカ笑いなんてできない。

 泣き喚くか、現実逃避するかだ。

 

「──木寺ちゃん? そんなところで黄昏れてると、熱中症になりますよー?」

 

 からり、とサッシが開き、月詠小萌が顔を出した。

 身長一三五センチの教師は、自分の背丈ほどもある物干し竿を器用にかわして、木寺の隣に立った。

 

「……先生。手伝いましょうか」

「いいえー。男子厨房に入らず、です。それより、悩み事ですか? 眉間のシワが凄いです」

 

 小萌先生は、ビールのプルタブをプシュッと開けながら、大人びた仕草で夜風に当たった。

 その無邪気な横顔を見ていると、木寺の胸の内に溜まっていた黒い(おり)が、ふいに溢れ出しそうになった。

 

 

「……先生。俺って、なんでレベル0なんですかね」

 

 

 唐突な問い。だが、小萌先生は笑わなかった。じっと木寺の顔を見上げる。

 

「俺、頑張ったつもりなんです。カリキュラムも真面目に受けたし、薬も飲んだ。でも、身体検査(システムスキャン)の結果はいつも『反応なし』。

 俺の脳みそは、自分だけの現実(パーソナルリアリティ)なんて高度な計算式、一行も書き込めないポンコツらしい」

 

 木寺は自嘲気味に笑い、缶コーヒーを呷った。苦すぎる。

 

「上条は違います。あいつはレベル0だけど、あの右手がある。世界と戦えるとんでもない武器がある。……俺には何もない。神裂って女が来た時、俺はただビビって、石ころ拾うのが精一杯でした」

 

「木寺ちゃん……」

 

「悔しいんです。怖くて動けなかった自分が。上条が血まみれになってるのに、『助かった』と安堵しちまった自分が……吐き気がするほど嫌いです」

 

 吐き出してしまった。教師に言うべきことじゃない。ただの八つ当たりで、甘えだ。木寺は唇を噛み、顔を伏せた。

 彼女には入学してから泣き言ばかり言っている。

 

 小萌先生はしばらく無言でビールを啜っていたが、やがて静かに口を開いた。

 

「……能力開発は、脳の構造を変えることです。あえて脳に『歪み』を作り、観測する世界をズラす。それが能力者の正体です」

 

 先生の声は、いつもの甘ったるいものではなく、研究者としての透徹さと、教育者としての温かさが混じっていた。

 

「木寺ちゃんの脳は、ポンコツなんかじゃありません。むしろ、強固すぎるんです。『常識』という名の強固な基盤があって、世界をありのままに認識してしまう。だから、現実を歪める計算式(能力)が宿らない」

「……それ、ただの凡人ってことじゃ」

「凡人こそが、科学の基礎(ベース)ですよ。それにね」

 

 小萌先生は、部屋の中にいる上条とインデックスを指差した。

 

「上条ちゃんの右手は、確かに特別です。でも、彼が傷つきながら戦うのは、右手があるからじゃありません。彼自身の『心』がそうさせるんです。木寺ちゃんが自分の弱さを知って、それでも悔しいと思えるなら……貴方もまだ、戦う資格を捨てていないと思いますよー?」

 

「……戦う資格、ですか」

 

 木寺は自分の右手を見つめる。何もない手。

 だが、この数日間、彼はこの手で図書館の端末を叩き続け、専門書を読み漁ってきた。自分の弱さを埋めるために。上条の隣に立つために。

 

 ふと、木寺の脳裏に、調べてきた知識(データ)と、今の会話がリンクした。

 

「……あの、先生。脳の話、ついでに聞いてもいいですか」

「ん? 補習の続きですかー? 熱心ですねー」

 

「俺みたいなレベル0の脳みそでも、一生分の記憶くらいは入りますよね?」

 

 木寺の問いに、小萌先生はきょとんとした顔をした。

 

「もちろんです。人間の脳細胞は一〇〇〇億個以上。シナプス結合の組み合わせを考えれば、その記憶容量は事実上無限です。一〇〇年生きようが二〇〇年生きようが、パンクするなんてありえませんよー」

 

 

 その言葉を聞いた瞬間。木寺一桁の中で、バラバラだったパズルのピースが、カチリと音を立てて嵌まった。

 

 

(……だよな。やっぱ、そうだよな?)

 

 

 インデックスは言った。

『一〇万三〇〇〇冊の魔道書を記憶しているから、脳の容量が残り一五パーセントしかない』『毎年記憶を消さないと、脳がパンクして死ぬ』

 

 だが、学園都市の先端科学(小萌先生)は断言している。『記憶で脳がパンクすることはありえない』と。

 

「……あいつら、嘘をついてやがったのか……?」

 

「木寺ちゃん? どうしました? 顔色が悪いですよー」

 

 木寺の背筋に、冷たい戦慄が走る。

 魔術サイドの人間──ステイルや神裂。彼らはインデックスを救おうとしていた。

 それは本心に見えた。

 だとしたら、彼ら自身も「騙されている」のではないか? 教会という巨大な組織が、一人の少女を繋ぎ止めるために作った、残酷でくだらない「嘘の設定」に。

 

「……はは、傑作だ」

 

 木寺の手が震える。それは恐怖ではない。怒りだ。

 無能力者(レベル0)の自分ですら、少し調べればわかる矛盾。そんなもののために、あの少女は毎年記憶を奪われ、上条当麻は命を懸けて戦い、ステイルたちは罪悪感に苦しんでいたのか。

 

 

「先生、ありがとう。……俺、自分が無能力者でよかったかもしれない」

 

「え? ど、どういうことですか?」

 

「俺が『常識』に縛られた凡人だからこそ……この『非常識な嘘』に気づけたんだ」

 

 

 木寺は空になった缶コーヒーを握り潰した。パキッ、という音が、開戦の合図のように響く。

 

 自分の無力さを嘆いている場合じゃない。上条に嫉妬している場合じゃない。俺には「幻想殺し」はないが、「条理(ロジック)の矛盾」を暴く執拗さはある。

 

「上条……」

 

 部屋の中で、何も知らずに笑っている友人を見る。

 教えてやらなきゃいけない。

 お前が守ろうとしている少女の運命は、変えられるかもしれないと。この、期限というルールそのものが、インチキなゲームだったんだと。

 

「先生、ちょっと考えをまとめます……ああくそ、どう、なんて言えばいいんだ……」

 

 木寺が冷や汗を流す。

 しかし、木寺一桁の目に、初めて確かな灯火が宿っていた。

 それはヒーローの輝きではないかもしれない。

 

 だが、舞台の袖から脚本を書き換える、場違いな演出家のような鋭い光だった。

 

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