「ふあ~、あ………………」
茜色に染まり始めた教室で、木寺一桁は一人、全力であくびをしていた。
「……はぁ。なんで俺が……」
手には、使い古された雑巾と、水の入ったプラスチックのバケツ。
新学期早々、日直の当番が回ってきたのだ。しかも、運の悪いことに相方は風邪で早退してしまった。
クラスメイトたちは、「カミジョーさんがまた補習だー!」「ふきよせー! 俺の宿題も見逃してくれー!」などと騒がしく、疾風のように去っていった。
上条当麻。青髪ピアス。土御門元春。吹寄制理。
主観だが、このクラスは、どうもキャラの濃い連中が集まりすぎている気がする……まるで、漫画やアニメの主人公たちを詰め込んだようなカオスな空間だ。
その中で、
教室の隅にある観葉植物よりも存在感が薄い自信がある。
「ま、いいけどさ。慣れてるし、こういう役回りには」
木寺は独りごちて、黒板を拭き始めた。
黒板消しクリーナーが吸い込みきれなかったチョークの粉が、微粒子となって舞う。
日が差し込む教室は、黄金色の光で満たされ、舞い散る粉塵がきらきらと輝いて見えた。
……静かだ。
誰もいない放課後の教室というのは、どこか世界の裏側に迷い込んだような、不思議な非現実感を伴う。
「……手伝おうか?」
不意に。本当に、足音ひとつなく。背後から、平たいテンションで声がかかった。
「うわっツァ!?」
木寺は過剰に反応して振り返った。誰もいないと確信していた閉鎖空間に、いつの間にか「誰か」が侵入していた驚き。心臓が嫌~な音を立てて、暴れる。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
「あ、ごめん。驚かせちゃった?」
少女は、小首をかしげて微笑んでいた。茶髪のショートヘア。この高校の制服。そして、髪を留める白いカチューシャが、夕日を受けて淡く光っている。
「あー……」
見覚えがある。確かに、クラスにいたはずだ。
始業式の時も、ホームルームの時も、休み時間も。
上条当麻が不幸な目に遭って騒いでいる時、その斜め後ろあたりで、楽しそうに苦笑いしていたような気がする。あるいは、体育の授業でグラウンドの隅に立っていたような気もする。
だが、名前が出てこない。
顔立ちは整っている。クラスにいたら「可愛い」と評判になってもおかしくないレベルだ。なのに、記憶の中の彼女は、常にピントがずれているかのように曖昧だった。まるで、意識のフィルターをすり抜けるように存在している。
「いや……俺の方こそ、過剰反応して悪かった。……えっと、君は?」
「私も日直。……の、手伝い係かな」
彼女は曖昧に笑った。手には、どこから持ってきたのか、竹箒が握られている。
「手伝い係?」
「うん。先生に頼まれちゃって。校内の見回りと、戸締まりの確認。……一人じゃ大変でしょ? この校舎、無駄に広いし」
彼女の声には、不思議な響きがあった。特徴がないのが特徴というか、ラジオから流れる環境音楽のように、意識しなければ聞き流してしまいそうな、透明な声。
けれど、耳には心地よく残る。
「あ、ああ。助かるわ。相方が早退しちまってさ」
「知ってる。……風邪だよね、お大事に」
彼女は当然のように言った。知っている。クラスメイトなのだから当たり前かもしれないが、木寺にはその言葉が、妙に引っかかった。まるで、あらかじめ知っていたかのような、予見めいた口ぶり。
「じゃあ、行こっか。……ひとけた君」
彼女は先に立って歩き出した。木寺は、雑巾を置いてその後を追う。
(……え、えええ~?)
まさかの、下の名前。
いきなり下の名前を呼ばれた。
この女子、清楚に見えて、実は距離感がすごい近い感じの子なのだろうか。
というか、一回も話したことのない男子の下の名前を憶えているなんて……この子、逆に律儀なのだろうか?
(いや……まあ)
名札を見ればわかるか……って、いや、今の俺はジャージ姿で、名札はつけていないはずだが。
まあ、クラスメイトなら名前くらい知っていてもおかしくはない。俺が彼女の名前を思い出せないだけで。
微妙にドギマギさせられた木寺は自分を納得させ、彼女とともに廊下へと足を踏み出した。白カチューシャの少女についていく。
:
「まずは特別教室棟からだね。あっち、鍵閉め忘れが多いから」
彼女は、慣れた足取りで廊下を進む。人気のない放課後の学校。ワックスの匂いと、微かな埃の匂い。二人の足音だけが反響する。
だが不思議なことに、彼女の足音は、木寺のそれと完全に重なったり、あるいは無音になったりして、耳に残らない。
「悪い……君、名前なんだっけ?」
木寺は、意を決して尋ねた。一緒に作業をするのに、名前も呼ばないのは不自然だ。
申し訳なさそうにしつつ問う。
だが、彼女は歩みを止めずに、背中で意外な反応を返した。
「あはは。今はいいよ、そんなこと」
「え?」
「私の名前なんて……今はただの『当番』とか『手伝い』でよくない?」
「…………、」
はぐらかされた。だが、嫌味な感じはしない。むしろ、「名前をつけることで、存在が固定されるのを避けている」かのような、奇妙な哲学を感じさせる。
(ま、いっか)
そういうお年頃なのだろう。適当に考えて、木寺は特にツッコミもしなかった。
そして、二人は物理実験室の前で立ち止まった。重厚な木の扉。鍵がかかっているか確認するのが仕事だ。
「……ここ、出るらしいよ」
彼女が唐突に言った。
「は? 何が?」
「幽霊。……あるいは、実験に失敗して次元の狭間に落ちた生徒の成れの果て」
彼女はクスクスと笑う。冗談なのか本気なのか、判別がつかない。
「この学園都市だぞ? オカルトなんて……」
「科学で説明できないものをオカルトと呼ぶなら、この街はオカルトだらけだよ」
彼女は扉の小窓から中を覗き込んだ。実験器具が整然と並ぶ、無機質な空間。そこにも、AIM拡散力場という目に見えない力が満ちているはずだ。
「……例えば、あの上条くん」
彼女の口から出た名前に、木寺は反応した。
「彼なんて、歩くオカルトみたいなものでしょ? 不幸が服を着て歩いてるし、どんな異能も打ち消しちゃう」
「まあ、否定はしねえけど……あいつは特別だからな」
「でもね、思うんだ」
彼女は、窓ガラスに指を這わせた。明かりが反射して、彼女の顔が逆光で暗くなる。その指先がなぞった軌跡が、一瞬だけ木寺の顔も写し込む。
「彼が中心にいるから、周りの世界が歪むのか。……それとも、世界があまりにも歪んでいるから、彼のような人が必要とされて生まれたのか」
「……何の話だ?」
「ただの独り言。……でもね、ひとけた君」
彼女は振り返った。その瞳が、暗がりの中で、観察者のように冷徹に、かつ優しさに満ちて光ったように見えた。
「中心が派手に動けば動くほど、その余波は周辺に及ぶ。……今私たちが立っているこの場所も、いつ崩れるかわからない舞台の端っこなのかもね」
彼女の言葉は、予言のように響いた。木寺は背筋に底冷えしたものが走るのを感じた。自分はただのモブだ。あらゆる厄介ごとの外側にいる安全な存在だと思っていた。だが、彼女は言外に告げている。
『同じ舞台の上にいる限り、安全地帯などない』と。
「いや……なにいってんだ? さっきから」
「うーん、まあ、世迷言かな」
彼女は再び、能天気な笑顔に戻った。先ほどの妖しい雰囲気は霧散し、ただの女子高生に戻っている。
「よし、施錠よし! 次行こっか!」
彼女はスキップするように歩き出した。後に残された木寺は、実験室の扉の奥に、何か得体の知れない視線を感じて、慌てて彼女を追いかけた。
:
本校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下。窓の外には、部活動に励む生徒たちの姿が見える。野球部の掛け声。吹奏楽部の音合わせ。青春の縮図のような光景だ。
だが、それらはガラス一枚隔てた向こう側の出来事であり、こちらの静寂とは断絶されている。
「……平和だねぇ」
彼女は手すりに寄りかかり、グラウンドを眺めた。
「ああ。……まあ、俺には縁のない世界だけどな」
木寺は無気力に言った。帰宅部で、特に才能もなく、友達もほぼいな…少ない。あのグラウンドで汗を流し、能力を使い、輝いている連中とは、住む世界が違う。
「そうかな?」
彼女は小首をかしげた。
「私は好きだよ。……こういう、『何でもない風景』を見るのが」
「見るのが?」
「うん。……主役がいて、脇役がいて、背景がある。……誰かがホームランを打つ瞬間も素晴らしいけど、そのボールを拾いに行く補欠の子や、ベンチでスコアをつけるマネージャー、あるいは観客席で欠伸をしてる人……。そういう全部が集まって、初めて世界は完成するんだよ」
彼女の視線は、グラウンドの中心選手ではなく、その隅でライン引きをしている生徒や、校舎の陰で休憩している生徒に向けられていた。まるで、カメラのピントを全体に合わせているかのように。
「ひとけた君は、自分が『背景』だと思ってる?」
図星を突かれて、木寺は言葉に詰まる。
「……思ってるよ。上条とか見てると、特に。あいつは主人公で、俺はその他大勢で……」
「ふふ。……でもね、背景がなきゃ、主役はどこに立ってるかわからないでしょ?」
彼女は、指で四角いフレームを作って、木寺の顔を覗き込んだ。
「真っ白な空間で叫んでも、誰も気づかないし、距離感もわからない。……君がいるから、上条くんの『異常さ』が際立つ。君が普通に驚いて、普通に引いて、普通に日常を過ごしてくれるから、この世界の『非日常』が形を成すの」
「……慰めか?」
「ううん、事実。……そして、役割分担」
彼女はフレームを下ろした。
「記録員って、知ってる?」
「……いや」
「スポーツとかで、試合の記録をつける人のこと。……彼らは、試合には参加しない。ボールも打たないし、ゴールも決めない。ただ、そこで起きたことを淡々と記述する」
彼女は、空を見上げた。学園都市の夕空に、飛行船が悠々と泳いでいる。ニュース映像を流すモニターが、音もなく明滅している。
「でもね。彼らがいないと、その試合が『あったこと』は証明されないの。……記憶は薄れるし、記録は消える。誰かが観測して、書き留めておかないと、どんな劇的な逆転ホームランも、なかったことと同じになっちゃう」
彼女の声は、どこか遠くから響いているようだった。
「つまり、君は大事な『証人』ってこと。……自信持っていいよ。君がいないと、上条くんも世界を救えないかもしれないんだから。……まあ逆に、
「……?? 割とマジで意味わかんねえけど、ありがとな」
後半はよく聞こえなかったが、木寺は、少しだけ救われたような気がした。自分は無力だ。無価値だ。そう思っていた日常に、彼女は役割があると言っていてくれているらしい。
それは、ただの屁理屈かもしれない。けれど、この不思議な少女に言われると、妙に説得力があった。
「さて、と。……そろそろ日が暮れるね」
彼女は窓から身を乗り出した。白いカチューシャが映える。その姿は、あまりにも絵になりすぎていて。
「……君は、何者なんだ?」
思わず、問いかけていた。クラスメイトにしては、哲学的すぎる。ただの女子高生にしては、達観しすぎている。そういう説得力がある。
彼女は振り返り、人差し指を唇に当てた。
「さ、最後は屋上! 鍵閉めて終わり!」
スルーされた。
そして彼女は軽やかに走り出した。その背中は、掴もうとしても掴めない、蜃気楼のように揺らめいていた。
:
屋上への階段を上る。扉を開けると、強風が吹き込んできた。少し肌寒い、春の匂いである。
屋上は立ち入り禁止だが、点検のために鍵を開ける必要がある。フェンス越しに見えるのは、学園都市の全景だ。林立する高層ビル。風力発電のプロペラ。張り巡らされた高架道路。二三〇万人が暮らす、科学の最先端。
そのすべてが、夕焼けの中で赤く燃えている。
「……絶景だね」
彼女はフェンスに指をかけ、街を見下ろした。
「ここから見ると、人間なんて虫さんみたい……じゃなくて、アリさんみたいだね」
「なんで言い直したんだよ」
「あはは。……でも、本当にそう思う時があるの」
彼女の指先にかかる力が少しだけ強くなり、フェンスがたわむ。
「みんな、アリさんみたいに必死に生きてる。……能力開発に悩み、人間関係に苦しみ、明日のお金に困りながら。……その一つ一つの営みが、膨大なデータとなって蓄積されていく。滑稽だよね」
彼女は、空中に見えない文字を書くような仕草をした。世界という書物に、落書きをするように。
「悲劇も、喜劇も。……成功も、失敗も。全ては等価値な情報。……でもさ、そのシナリオを書いてる奴らが、
「…………、?」
何言ってんだ、こいつ?
首をかしげる木寺に、彼女はゆっくり振り向いた。逆光で見えないはずの瞳が、深淵の闇の中でらんらんと、燐光のように輝いている。
「……ねえ、ひとけた君。不公平だと思わない?」
彼女の声が、鼓膜ではなく、脳髄を直接震わせた。
「罪と罰の天秤の話だよ。……悪いことをしたら罰を受ける。因果応報。それが世界の
彼女は、白く細い指を三本立てた。
「例えば……『オティヌス』」
「……誰だ、それ」
聞いたこともない名前だ。いや……確か、北欧神話の神様か何かか? だが、その名前を聞いた瞬間、心臓が握り潰されたような圧迫感を覚えた。
「魔神だよ。……彼女はね、世界を何度も壊したの。何億回も、何兆回も。彼女は君の事が大嫌いだから……ひとけた君の大事な日常も、君の家族も、君の心も、何度も何度も踏みにじって、すり潰して、飽きるまで弄んだ」
彼女はクスクスと笑った。嘲弄を孕んだ、壊れた蓄音機のような笑い声。
「大虐殺なんてレベルじゃない。存在そのものの冒涜。……万死に値する罪だよね? 地獄の最下層で永遠に焼かれるべきだよね? でも、今はどうなってると思う?」
彼女は、愛おしそうに目を細めた。
「体が小さくなって、一番の理解者のポケットの中で、ぬくぬくと幸せそうに暮らしてるんだって。……世界を壊した張本人が、なんやかんやと罪滅ぼしをし終えたみたいな雰囲気を出して、誰よりも守られて、生き生きとした余生を送ってる。……被害者たちは何も知らずに死んでいったのに、彼女に夢を賭けた人たちは全て軽んじられたのに、加害者だけが救済されてる。……ズルいよねぇ、許せないよねぇ」
木寺は後ずさった。何を言っているんだ、こいつは。空想の話か? それにしては、言葉の質量が重すぎる。憎悪の純度が高すぎる。
「次は、『アレイスター』。……この学園都市を作った、偉い偉ーい理事長様」
彼女は二本目の指を折った。ぽきり、と小枝を折るような音がした。
「彼は昔、自分の娘を理不尽な出来事で失った。それで『位相の生み出す悲劇に振り回されることのない、まっさらな世界を作る』なんて立派な理想を掲げて、世界に喧嘩を売ったの。……でもさ、そのために何をしたと思う?」
彼女は、舞台女優のように大袈裟に手を広げた。
「娘の死を『免罪符』にして、世界中を巻き込んで大暴れ! 魔術を滅ぼすために、たくさんの悲劇を生み出して、たくさんの人を巻き込んで、利用して、使い捨てて! ……挙句の果てには、死んだ娘と再会までしちゃってさ。全部をぐっちゃぐちゃにして、そのくせに自分は全部を手に入れちゃった!!」
彼女の声に、唾棄すべきものを見るような嫌悪が混じる。
「憂いてるごっこしてりゃなんかいい事してると思った? なんか葛藤してりゃあ大義のために小義を殺してもいいの? そんなんさあ、みんなみんな苦しんでんだよ、力を持ってるだけでさも自分が一番この世界と真摯に向き合ってますみたいな面してんじゃねえよ、実際は踏みつけてるだけのくせにさ」
「…………………………………………………………、…………………………………………………………………………………………………………………………………………」
木寺には。
彼女の言っていることはほとんど何もわからなかったが。
何かが。
心臓を洗ってない手で掴まれるような、かつてないほどの嫌な予感が、彼の全身をじわじわと満たしていく。
「…………、」
そんな木寺を知ってか知らずか。でね、といっそ無邪気に、彼女は続けた。
「散々好き勝手やって、世界中を敵に回して……それで、彼は最後にどうなったと思う?」
「……知らねえよ……」
「可愛い女の子の姿になって、新しい冒険を楽しんでるんだよ。……『人間やめました』……いや、『誰よりも自分は人間です』かな。まあ、そんなドヤ顔をしてたのに……最後は人間臭く足掻いて、あちこち旅して、満足して……また、あろうことか新たな人生をやりなおしはじめてる。いやあ楽しそうで何よりだよね。彼のご家族さんやお仲間も、利用されて死んじゃった人たちも、草葉の陰で喜んでるのかなあ」
彼女が一歩近づく。空間が歪む。屋上のフェンスが、この世界が、ドロドロに溶けて混ざり合っていく、錯覚。
「そして……『
最後の一本。その名前が出た瞬間、木寺の全身が粟立った。知っている。骨の髄まで、恐怖と共に刻み込まれている名前。
「彼は一万回以上も人を殺した。……実験だからって、罪のない少女たちを肉塊に変えた。……君が見た、あの路地裏の死体みたいにね。挽き肉にして、踏みつけて、笑いながら殺した」
彼女の顔が近づく。整った顔立ちが、歪んで見える。
「でも、彼は許されちゃった」
彼女は、残酷な事実を、まるでプレゼントの箱を開けるように嬉々として告げた。
「殺された本人たちが『それでもいい』って言っちゃったから。……そして彼は、小さな女の子を守る『ヒーロー』として、新しい居場所を手に入れた。本当は彼、本心では10031人を殺したくなかったんだってさ……だから『強く』なりたかったんだって。あは。あはは。だから、あんなに血に塗れているのに、ロリとよろしくやって、家族ごっこをして、幸せになる権利をもらっちゃった」
彼女の指先が、木寺の胸板に触れる。心臓の上。
「ああ可哀そうに。猟犬部隊のお姉さん。女の子なのに、顔面吹っ飛ばされて一生障害者。あーあ可哀そうな御坂美琴。実験の事なんて想像もしやしなかったのに、同じ地平線で一方通行に加害者扱いされちゃった。ああ可哀そうだね泣けてくる。本当に泣けてくるよ。この世界の残酷さにさあ」
「お、まえは…………」
「あーいいよね、救いたい形をしてる奴を救うのはすっごく楽しいよねえ、私もそうやって生きていきたいなあ……チャンスも無限に与えられてさ、こいつらに殺された人達はチャンスなんか一切与えられずやられちゃったのに。ああ、
木寺が、一歩、後ずさる。
それに、まるで、影のように、幽霊のように、ついてくる。
白カチューシャの少女の皮を被った、ナニカ。
「……おかしいよね?」
彼女が顔を寄せて囁いた。吐息が耳にかかる。それは甘い毒のように、思考を麻痺させていく。
「なんで、あんなにたくさん殺したあいつらが、許されてるの? なんで、のうのうと生きて笑って、贖罪ごっこなんかしてるの? ……罪と罰が、ぜんぜん釣り合って、ないよねぇ」
木寺は動けない。金縛りにあったように、体が言うことを聞かない。
「……私たちばかり、貧乏くじだよね」
私たち? 彼女は、誰と誰を指して言っているんだ? 俺と……誰だ?
「……許しちゃいけないよ」
彼女の声が、脳に直接侵入してくる。血管を通って、全身に毒が回っていくような感覚。
「……ひとけた君。君にはその才能がある。……『許さない』という才能が。……『なかったことにさせない』という才能が」
「……俺、は……」
木寺は何かを言い返そうとした。
否定しなければ。
何か、とてつもなく危険な契約を結ばされようとしている。だが、声が出ない。喉が焼けるように、ひりつく。
風景が崩壊していく。燃えるような夕焼けが、黒いタールのように溶け落ち、世界を塗りつぶしていく。
「……期待してるよ、ひとけた君」
最後に見た彼女の笑顔は、慈愛に満ちた聖母のようでもあり、破滅を唆す悪魔のようでもあった。
彼女の手が、木寺の頬を包み込む。冷たくて、気持ちの悪い、この世の物質とは思えないような、奇妙な感触。
「君が、この歪んだ天秤を……どうやって均してくれるのか」
彼女の指先が、木寺の頬を、額を、愛おしそうにつう……と指先で撫でた。そこから、冷たい何かが喉を通って臓腑に纏わりついてくる。
「……さあ、目覚めの時間だよ」
:
(………………、あ………………)
意識の浮上は、泥のように重く暗い深海から、肺の中の空気が尽きる寸前で水面へと押し上げられるような、長く苦しい道のりだった。
最初に認識したのは、鼻腔をツンと刺激する無機質な消毒液の匂い。
次に、全身を粘土で固められたような鈍重な圧迫感と、体の芯から湧き上がってくる、リアルで質感のある痛みだった。
そして、耳元で規則正しく刻まれる、電子音の律動。
「……ッ、ぁ……」
木寺一桁は、砂利を飲み込んだようにざらつく喉から呻き声を漏らし、接着剤で貼り付けられたかのように重い瞼を、意思の力で無理やり押し上げた。
無意識に酸素マスクを勢いよく外す。
白い天井。
蛍光灯の光が、網膜を刺すように眩しい。視界がぼやけている。
(……ここ、は……?)
思考が、油の切れた歯車のように軋みながら回り出す。
俺は、どうなった?
最後の一撃。
死んだはずだ。あんなデタラメなエネルギーの奔流に飲み込まれて、五体満足でいられるわけがない。
(……生きて、る……?)
信じられなかった。
自分の心臓が動いている音が、ひどく嘘くさく聞こえる。
「おや、気がついたかな?」
と。
横合いから、穏やかで、深く落ち着いた声が掛かった。
木寺が痛みに脂汗を滲ませながら、軋む首をゆっくりと巡らせると、ベッドの脇のパイプ椅子に座っていた白衣の人物が、点滴の調整をしながらこちらを覗き込んでいた。
カエルのような愛嬌のある顔立ち。だがその瞳は、あらゆる修羅場をくぐり抜けてきた者だけが持つ、底知れない理知と包容力を湛えている。
「……あ、なたは……」
木寺の記憶の引き出しが開く。
この顔には見覚えがある。夏休みに入った頃、あの不幸体質の少年──上条当麻が入院した時、世話になった医者だ。
「……君はあの時の、もう一人の方の少年だね?」
医者──
「まったく、類は友を呼ぶと言うけれどね? あのツンツン頭の彼といい、君といい……どうして私の患者になる子たちは、こうも自分の命を好き勝手に使って無茶ばかりするのかな?」
医者は、木寺の額に手を当てて熱を確かめた。その手は温かく、現実に引き戻されるような安心感があった。
「……ふむ。峠は越えたようだね。運び込まれた時は、正直、私の腕をもってしても中々大変だったよ?」
医者は、改めて天井から吊り下げられた木寺の脚と、ミイラのように包帯で覆われた上半身を見やった。
「……中々の怪我だね。全身打撲に、広範囲の熱傷。全身の骨は折れてたりヒビが入っていたり、衝撃で内臓も揺さぶられて傷ついている。……それに、この足の裏」
医者は、布団の裾から少しだけ見えている木寺の足を指差した。
「皮が捲れて、肉がえぐれてボロボロだ。まるで、剣山の上でフルマラソンでもしてきたかのような惨状だよ。……痛かったろうに」
「……はは、アドレナリンが出てたんで……」
木寺は乾いた笑いを漏らそうとして、頬の筋肉が引きつるのを感じた。
そうだ。あの時、俺は必死で走った。砕けた瓦礫の上を、泥と血にまみれて、たったの一撃を入れるためだけに。
「例えるなら、電子レンジの中に放り込まれて、さらに巨大台風の中でダンプカーと正面衝突したような状態だよ。……よく生きていたものだ」
医者の言葉に、木寺は自嘲した。
ダンプカーどころか、相手は地面すら好き勝手に掘り返す怪物だった。それに生身で突っ込んで、生きている。確かに、これは笑えるジョークだ。
「それで? 一体、何をすればこんなことになるんだい? ……君のような
医者は、カルテにペンを走らせながら、試すように尋ねた。
木寺は口を閉ざした。
一方通行との戦闘。クローンの実験。学園都市の闇。
そんな話を、この温厚そうな医者に話していいはずがない。巻き込むわけにはいかない。
「……、」
「……ふむ。黙秘権を行使、かな?」
医者は、木寺の沈黙に眉を下げたが、すぐに「まあ」と優しげに続けた。
「何があったかは、粗方聞いているがね? ……君が守ろうとした『彼女』たちから」
「……!」
ドキリとした。
美琴か。それとも一○○三二号か。彼女たちが、ここまで運んでくれたのか。
「まったく、命は大事にしなさい。……他人の命ばかりじゃなく、自分の命もね? 君が壊れたら、悲しむ人がいるんだよ」
医者の言葉が、木寺の胸に刺さる。
説教臭い口調ではない。ただ、無数の「助からなかった命」を見てきた者としての、重みのある言葉だった。
(……そんなつもりは、なかったんだけどな…………)
木寺は心の中で言い訳をした。
別に英雄になりたかったわけでも、自己犠牲に酔いたかったわけでもない。多分、俺は、あの時……
「安心しなさい。君の体は私が完璧に治そう。……リハビリは少々辛いかもしれないが、一週間もすれば自分の足で歩けるようにして見せよう」
「……って、ええ!?」
一週間。
この全身バラバラになりそうな重傷で、たった一週間で歩けるようになる?
やはりこの医者は、上条が頼るだけあって常識外れの名医らしい。
「……ありがとうございます。助かります、マジで……二か月前も大怪我したばかりですし」
「礼には及ばないよ。……ただ」
医者は、ベッドに横たえられた木寺の右腕を、ふと不思議そうに見つめた。
その瞳に、純粋な医学的疑問の色が浮かぶ。
「不思議なこともあるものだね?」
「……え?」
「君の全身の、まんべんない怪我の状態からすれば、この右腕だけは、
「……無傷、ですか?」
木寺は、思わず聞き返していた。
何を言っているんだ、この人は。
「ああ、そうだよ。見させて貰ったが打ち身程度だ。……他の部位が相当搔きまわされていたことを考えれば、奇跡的に『綺麗』に残っている」
医者は首を傾げた。
「何か、覚えているのかな?」
医者の鋭い視線に、木寺は言葉を詰まらせた。
覚えているも何も。
(え……嘘だろ?)
ここで、木寺は初めて自分の右腕をちゃんと見つめた。
記憶が、徐々に鮮明にフラッシュバックする。
最後の一撃。拳が一方通行の顎を捉えた瞬間。
遅れて発動した『反射』。倍加された衝撃が、拳から腕を伝わり、肩を抜け、心臓へと向かって逆流してきた、あの感覚。
「……無茶苦茶に、折れた気がしたんです」
木寺は、はりついた喉で絞り出した。
「……粉々になって、弾け飛んだような……腕の中で爆竹が破裂したような……」
あの時、確かに右腕が破壊され、その衝撃波で心臓が圧迫されるような、明確な「死」の感触があった。腕の骨が砕ける音も、肉が裂ける音も聞いたはずだ。
なのに、無傷に近い?
自分の感覚と、現実の肉体の状態が決定的にズレている。
夢を見ていたのだろうか。それとも、何かが俺の中で起きたのか。
言いようのない不安が、胸の奥に澱のように沈殿する。
自分の体が、自分のものではないような、薄気味悪い違和感。
「……ふむ。極限状態での幻痛みたいなものかもしれないね? 脳が衝撃を過大に処理して、幻覚を見せたのかも」
医者は、木寺の困惑を見て取ったのか、明るい口調で話を切り上げた。パタン、とカルテを閉じる。
「……まあ、生きていればこそだ。細かいことは気にしないことだよ」
彼は立ち上がり、病室のドアの方を指差した。
「さて。……君のお見舞いに、お客さんが来ているよ」
「……客?」
「ああ。君が運び込まれてから、たびたび時間を縫って待っていたんだ。……まるで、判決を与える裁判官のような顔をしてね? 中に入れようか?」
木寺の心臓が、思いっきり跳ねた。
裁判官。
待っている人物が誰か、想像がついたからだ。
「……はい」
木寺が短く答えると、医者は頷き、静かに病室を出て行った。
静寂が戻る。
不自然に生き残った自分の鼓動だけが、時限爆弾のカウントダウンのように響いていた。
そして、体の中に残る微かな違和感を飲み込みながら、木寺はドアを見つめた。
数秒後。
ドアがゆっくりとスライドした。引きずるような音を立てて、ドアが開いていく。
姿を現したのは、一人の少女だった。常盤台中学の制服。茶色のショートヘア。
御坂美琴だった。