とある科学の存在証明   作:かさねtyann

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欠陥電気の少女の結末

 

 

 

「………………」

「…………………………………………、」

 

 

 

 ……沈黙。

 ()()()()()、沈黙だった。

 

 病室の空気が、質量を持ってのしかかってくるようだった。

 

 

 美琴は喋らない。入り口で立ち止まったまま、一歩も動かない。

 

 ただ、じっと木寺一桁を見ている。

 

 包帯だらけの体を。天井から吊るされた脚を。そして、酸素マスクが外されたばかりの蒼白な顔を。

 

 

 あの夜とは違う。

 泥にまみれた服も、煤で汚れた肌も、今はもうない。クリーニングされた清潔なブラウス。手入れされた髪。膝の擦り傷も治療され、絆創膏すら残っていない。

 

 外見だけを見れば、深窓の令嬢が友人のお見舞いに来た、という絵に描いたような光景だ。

 

 だが、その表情だけが、周囲の空気を凍りつかせていた。

 

 一切の感情を削ぎ落とした能面のような顔。

 

 

 

 

 

 

 

「………………………………………………………………………………………………………………………………………………、」

 

 

 

 

 

 

 

 その視線は、怪我人を気遣う慈愛に満ちたものではなかった。

 

 値踏みするように。解剖するように。

 

 そして何より、理解できない地球外生命体でも見るような、底知れない不気味さを湛えていた。

 

 

(……な、なんだ……?)

 

 

 木寺は、冷や汗が背中を伝うのを感じた。

 

 口の中がカラカラに乾く。心電図の音が、波を打つ自分の心臓と同期して、不規則なリズムを刻み始める。

 

(こ、むちゃくちゃ、怖い…………)

 

 とてつもない、迫力だ。

 

 何を、言われる? 

 

 罵倒か。感謝か。それとも、絶縁の言葉か。

 彼女の瞳の奥には、氷の下に閉じ込められた灼熱のような、どす黒い激情が揺らめいているように見えた。

 怒り。それも、ただの癇癪ではない。魂の底からの、『本気の怒り』だ。

 

 

 カツ。

 

 一歩。美琴が踏み出した。

 

 こつ、こつ、かつ。

 

 

 ローファーの音が、死刑台へ向かう足音のように、静寂な病室に響く。

 彼女はベッドの脇まで来ると、ゆっくりと見下ろした。

 その眼差しに射すくめられ、木寺は呼吸すら忘れた。

 

 彼女が纏う空気は、あの最強(一方通行)と対峙した時とはまた別の、胃が痛くなるような緊張感を孕んでいた。

 

 

 

 

 

 

「……生きてたのね」

 

 

 

 

 

 

 数分にも感じられる凝縮された時間の後、ようやく美琴が口を開いた。

 低く、地を這うような、感情を極限まで押し殺した声。

 

「……ああ。……なんとかな」

 

 

 木寺が掠れた声で答えると、美琴の眉がぴくりと跳ねた。

 その瞬間、彼女の中で何かが決壊した。

 彼女の肩が、小刻みに震え始める。

 

「なんとかな? ……ふざけないで」

 

 

 バンッッ!!!! 

 美琴は、握り締めた拳を、震える手でサイドテーブルに叩きつけた。

 木寺が小動物のようにビクつく。

 金属製のテーブルが悲鳴を上げ、置かれていた花瓶の水が激しく揺れる。

 

 

「……あんた、何様のつもり?」

「……え」

「私に薬を盛って、気絶させて……。それで一人で、あんな化け物の所に行ったわけ?」

 

 美琴の声が、徐々に熱を帯びていく。

 それは単なる怒号ではない。彼女の中で数日間、ずっと燻り続けていた「問い」の爆発だった。

 

「目が覚めたら、朝だった。橋の向こうからあの子……一○○三二号があんたを背負ってこっちに歩いてきてて……あんたをここに運んで。それから操車場に戻ったら、一方通行(アクセラレータ)は、もうどこにもいなかった……私が何も知らない間に、なにもかも、全てが終わってたのよ」

 

 美琴は、木寺の顔を覗き込んだ。

 その瞳は、怒りよりも深い、「混乱」に支配されていた。

 

「ねえ、教えてよ。……あんた、どういうつもりだったの?」

「……どういうって……」

「死ぬつもりだったんでしょ」

 

 美琴は断言した。冷徹に。

 

「勝てるわけがない。そんなこと、あんた自身が一番わかってたはずよ。相手は私が手も足も出なかった第一位よ? ……だから、私を遠ざけた。自分が犠牲になれば、それで何かが変わるとでも思って」

 

 彼女の脳裏に、あの夜の光景が蘇る。

 ジュースを手渡し、卑屈に笑いながら去っていった木寺の背中。

 

 あれは、遺言だったのだ。

 自分を安全な場所に退避させ、一人で地獄へ飛び込むための、最低で、最悪な嘘。

 

「ふざけるなッ!!」

 

 美琴が叫んだ。

 その目から、張り詰めていた緊張の糸が切れ、大粒の涙が溢れ出した。

 

「勝手なことしないでよ! 私の罪よ! 私が蒔いた種で、私が背負うべき罰なのよ! ……なんであんたなんかが、部外者のくせに、代わりに死のうとするのよ!」

 

 美琴は、理解できなかった。

 本当に、わからなかった。

 

 木寺一桁は、ただのレベル0だ。無能力者だ。

 自分とは住む世界が違う。関係ない。義理もない。

 それなのに、なぜ彼は命を捨てようとしたのか。なぜ、そこまでする必要があったのか。

 

 

 

「……意味が、わからないのよ…………」

 

 

 美琴は、震える声で訴えた。

 

「あんたは弱いじゃない。逃げ腰だったじゃない。……なのに、なんで? なんであの時だけ、あんな馬鹿な真似をしたのよ!」

 

 彼女の中で、論理が破綻していた。

 弱者が強者に挑む。その構図自体がまず、ありえない。

 もしやるとすれば、そこには相応の理由が必要だ。だから、彼女はそれを知りたかった。

 

「……自己満足? 悲劇のヒーロー気取り? それとも……私が可哀想だから同情したわけ?」

 

 美琴の言葉が、容赦なく木寺に突き刺さる。

 

 彼女は傷ついていた。

 自分の無力さに。彼に「守る価値がある」と思われたことにすら、今は素直になれないほどに。

 そして、守られるべき弱者だと思っていた彼に「守られてしまった」という事実が、彼女の罪悪感をぐちゃぐちゃにかき混ぜていた。

 

「答えてよ! 同情で命を懸けられたなんて思ったら、私は一生あんたに顔向けできない! そんなの……残酷すぎるじゃない!!」

 

 彼女の悲痛な叫び。

 それは、理解不能な献身に対する恐怖でもあった。

 

 

 

「……違う」

 

 木寺は、彼女の剣幕に、動かない体を無理やり起こそうとした。

 激痛が走る。肋骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げる。だが、構わなかった。この痛みも含めて、俺が選んだ結果だ。

 

「……勘違いすんな。同情なんかじゃねえよ。……俺は、そんな立派な人間じゃねえ」

「嘘よ! じゃあ何よ!」

「……わかんねえよ」

 

 木寺は、力なく首を振った。

 

「え……?」

「自分でも……わかんねえんだ」

 

 木寺は、包帯だらけの体を見つめた。

 震えていた。あの時も、今も。

 

「やりたくてやっただけ……て訳じゃない。正直お前を眠らせた後も、本当はそのまま逃げようかと思った。やっぱ関係ねえよって、自分に言い聞かせようとした」

「……、」

「俺は空っぽだ。正義感もないし、お前への同情で命を張れるほど優しくもねえ。……なのに、足が勝手に戻っちまった」

 

 自分でも不思議だった。

 なぜ、あんな無謀なことをしたのか。

 後から考えれば「後味が悪いから」とか「見捨てられないから」とか、それっぽい理由はつけられる。

 

 だが、あの瞬間の衝動は、そんな言葉で説明できるものじゃなかった。

 

「……でも、たぶん」

 

 木寺は、美琴の目を見つめて、それを逸らしながら、ぽつりと言った。

 

 

 

 

「嫌だったんだ、きっと」

 

「……嫌?」

「ああ。……お前が死ぬのが。あいつ(一○○三二号)が一方通行に殺されて、ゴミみたいに捨てられるのが」

 

 論理じゃない。計算でもない。

 ただの、生理的な拒絶反応。

 吐き気がするほどの、嫌悪感。

 

「うまく言えないけど……そうなる未来を想像したら、凄く腹が立ってしょうがなかった……そんなの絶対に『嫌だ』って思っちまったんだ」

 

 木寺は、美琴の目を見た。

 真っ赤に腫らした、その瞳を。

 

「それに、お前が死んで、妹達が助かったとしても……俺は一生、後味の悪い思いをする。サバ缶食うたびに、お前の死に顔を思い出して、飯が不味くなる」

 

 木寺は、たるそうに笑った。

 

 

「そんなの御免だ。俺は、俺の平和な日常を守りたい。……だから、俺の寝覚めを良くするために、お前を眠らせて、あの野郎を殴りに行った。……それだけだ」

 

 

 

 

 それから長い、沈黙が落ちた。

 

 病室の空調の音だけが響く。

 

 

 

 

 美琴は、呆然と木寺を見ていた。

 なんて、曖昧な理由。なんて、感覚的な動機。

 

 世界の平和とか、愛とか正義とか、そんな確固たる信念があるわけじゃない。

 

 ただ、「嫌だったから」。

 

 自分でもよくわからない感情に突き動かされて、この少年は、あんな化け物に喧嘩を売り、そしてボロボロになって帰ってきたというのか。

 

(……こいつ、は)

 

 美琴の中で、何かが崩れ落ちる音がした。

 

 

 少年が、なんであの怪物に勝つ事が出来たのか。

 日頃から強さに拘る美琴にとってさえ、そんな事がどうでも良くなってしまうような、そんな答え。

 

 レベル5だとか、レベル0だとか。そんな理屈が、いかに無意味なものか。

 

 この少年は、弱いくせに、誰よりも強情で、誰よりも純粋に「人間」だ。

 

 なんて男だろう、本当に。

 

 

 

 

「……バカじゃ、ないの」

 

 美琴は、力が抜けたように呟いた。

 その場に崩れ落ち、ベッドの柵に額を押し付ける。

 

「……ほんとに、大バカよ……あんたは……」

 

 彼女の肩が震えている。

 怒りは、もう消えていた。代わりに込み上げてくるのは、どうしようもないやるせなさと、そして……胸を焦がすような、熱い塊のような感情。

 

「……怖かった……」

 

 美琴の声が、嗚咽混じりに漏れる。

「目が覚めた時……あんたがいなくて……。もし、あんたがもう死んでたらって思ったら……」

 彼女は顔を上げ、涙でむちゃくちゃになった顔で木寺を睨んだ。

 それは、今まで誰にも見せたことのない、弱くて、幼い、ただの少女の顔だった。

 

「一生、恨んでやるところだったわよ……!」

「……わりぃ」

 

 

 木寺は、右手で自分の頭を掻いた。

 彼女の頭でも撫でてやろうかと思ったが、流石にキモいか……と思ってやめた。点滴のチューブが邪魔だし。

 

 

 

「……でも、生きてるだろ。……お前も、俺も」

「……うん」

 

 

 

 美琴は、鼻をすすりながら頷いた。

 

 彼が生きていて良かった。一○○三二号が生きていてよかった。

 そんな当たり前のことを、彼女は今はただ、噛み締めていた。

 

 

 

 

 

 :

 

 

 

 

 

「……実験、止まったわ」

 

 しばらくして、美琴がぽつりと言った。それは、二人が命懸けで掴み取った、勝利の報告だった。

 

「……そうか」

一方通行(アクセラレータ)は、結局行方不明よ。現場には瓦礫とか破壊の痕ばっかりで……姿はなかった」

 

 美琴は、窓の外を見た。

 

「でも、事実は残った。『最強の能力者が、レベル0の何者かに倒された』という事実がね。……上層部は大混乱よ。ツリーダイアグラムの演算結果に対する信頼性が完全に崩壊したもの」

「……狙い通り、か」

「ええ。『最強が敗北する可能性があるなら、進化のプロセスそのものに欠陥があるのではないか』……そんな議論になって、計画は無期限凍結されたわ」

 

 美琴は、木寺の方を向き直った。その瞳は、もう揺らいでいなかった。真っ直ぐに、木寺を見つめていた。

 

「……ねえ、木寺」

 

 彼女は、絞り出すように言った。

 

「私……あんたに、酷いこと言ったわ」

「……え?」

「鉄橋の所で。……『あんたは守られるだけの存在だ』って。『何もできない』って。『あさましいヒロイズムだ』って……散々、あんたを罵倒した」

 

 美琴は、唇を噛んだ。

 あの時の自分の言葉が、今になって傷となって自分に返ってくる。

 私は彼を見下していた。一切信じていなかった。なのに、彼は私の言葉を全部受け止めて、それでもたった一人で戦った。

 

 

 

「……ごめんなさい」

 

 

 

 美琴は、深く頭を下げた。プライドの高い彼女が、床に届くほどに。

 

「謝って済むことじゃないけど……ごめんなさい」

「やめろよ」

 

 木寺は苦笑した。

 

「お前の言ったことは、全部事実だ。俺は弱いし、何も持ってねえ。今回はいろいろ重なって……まぐれで勝てただけだ」

「まぐれでも……結果として、あの子たちは助かった」

 

 美琴は顔を上げた。

 

「残りの9000人以上のあの子たちは、保護されることになったわ。……寿命の調整とか、社会復帰のためのプログラムを受けるために、世界各地の研究機関に」

 

 あの子たちは、もう殺されなくて済む。これからは、実験動物としてではなく、一人の人間として。

 

 

 

「本当に……ありがとう。木寺」

 

 

 

 美琴の声が、揺らいだ。それは、今の彼女ができる精一杯の、魂からの言葉だった。

 

 

「あんたのおかげで……私は、人殺しにならなくて済んだ。自分を、殺さなくてすんだ」

 

 

 その言葉の重みに、木寺は胸が詰まった。

 彼女が抱えていた罪悪感。孤独。それを、少しだけ軽くすることができたのなら。このボロボロの体にも、一二◯円の拳にも、ちょっとは意味はあったのかもしれない。

 

 

 

「……あ、そうだ」

 

 

 

 ふと、美琴は涙を拭い、足元の紙袋をゴソゴソと探った。湿っぽい空気をごまかすように。

 

 

「これ。……早いけど退院祝い」

 

 取り出されたのは、豪勢な桐箱だった。場違いなほど立派な箱。

 

「……なんだこれ?」

「開けてみて」

 

 木寺は、右手で不器用に箱を開けた。中に入っていたのは。黄金色に輝く缶詰。

 

『最高級・近海一本釣り・プレミアムとろサバ水煮』。市場価格、一缶五千円はくだらない至高の逸品。

 

 

「……お前」

 

 

 木寺は目を丸くした。

 

「あのツンツン頭に聞いたのよ。あんた、サバ缶が好きで……今回の件で、全財産使い果たしたって。……あ、あと、あいつと変なシスター服の子が何回もお見舞いに来てたわよ。起きたならちゃんと連絡しときなさいよ!」

 

 

 美琴は少し照れくさそうに頬をかいた。赤い目が、少しだけ和らぐ。

 

「……これくらいしか思いつかなくて。命の恩人へのお礼にしちゃ、安すぎるけど」

「あ、……いや」

 

 木寺は、缶詰を抱きしめた。冷たくて、硬い感触。でも、そこには確かな温もりが詰まっていた。俺が失った端金が、こんな黄金になって返ってきた。

 

 ナイスだ上条。てか、あいつらも俺が寝てる間来てくれてたのか。

 

「……ありがとう。助かる。マジで最高のプレゼントだ」

「切実ね……ふん。ならいいけど」

 

 

 美琴はそっぽを向いたが、その頬は緩んでいた。

 

 彼女は立ち上がり、スカートの裾を整えた。

 

 

「……じゃあ、私はもう行くわね。黒子がうるさいし」

 

 長居は無用だ。これ以上いたら、また泣いてしまいそうだから。彼女なりの、照れ隠し。

 それに、妹達のことで、彼女にはやらなくてはならない事が山積みだ。

 

 ドアに手をかけ、美琴は一度動きを止めた。背中を向けたまま、彼女は言った。

 

「……勘違いしないでよ」

「……ん?」

「これは、手切れ金じゃないから」

 

 美琴は、振り返った。その顔には、挑戦的な、いつもの『超電磁砲』の笑みが戻っていた。

 

 

「この借りは、近いうちに必ず返すわ。……私が納得するまで、徹底的にね」

「……へいへい。お手柔らかに頼むよ」

 

「覚悟しときなさい!!!」

 

 美琴は、バタンとドアを閉めて出て行った。暴風のような、でも温かい風が去った後のような静寂が、部屋に残された。

 

 

 木寺は、サバ缶をサイドテーブルに置いた。全身が痛む。でも、その痛みさえも、今は誇らしかった。

 

「……ん?」

 見れば。

 

 

 サイドテーブルには、木寺のケータイと学生証が置いてあった。

 あの日、ホームセンターで担保にしたはずのモノ。それが、なぜか返ってきていたのだ。

 

 

 

 ……どうやら、世の中、そんなに捨てたもんじゃないらしい。

 

 ……スニーカーは見当たらないから、売られたのかもしれないけれど。

 

 

 

 

「はは……」

 

 とりあえず、俺は生きてる。そして、俺なりに……多分、何かを守れたのかもしれない。

 木寺はようやくそう思えた。

 

 

 

 

 

 

 

 :

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうして。

 御坂美琴が去った後の病室には、太陽が沈み始めた時間のような、少し寂しい余韻が溶けていく。

 黄金色のサバ缶。窓から差し込む木漏れ日。あの日の夜とは正反対に、部屋は穏やかすぎるほどに明るい。

 

「…………、」

 木寺一桁は、天井を見上げていた。無傷のはずの右腕の感覚は鈍いし他は痛い。全身がかったるい。だが、その感覚こそが、自分が生きているという証拠だと思う。

 

 そして、あの鉄橋で交わした言葉も、操車場での悪夢のような時間も、全てが幻ではなかったことの証明だった。

 

 

 その時。窓際のカーテンが、風もないのに小さく揺れた。

 

「……聞いてたのかよ」

 木寺は、天井を見たまま呟いた。驚きはなかった。なんとなく、気配を感じていたからだ。あの、AIM拡散力場を持たない自分と同じくらい希薄で、けれど確かにそこに存在する、静かな気配を。

 

 

「……はい。盗聴をする意図はありませんでしたが、ぶっちゃけ部屋を出ていくタイミングを逸していました、とミサカは正直に告白します」

 

 カーテンの陰から、一人の少女が姿を現した。

 御坂一○○三二号。

 

 彼女は、美琴と同じ顔立ちをしていながら、その瞳には全く異なる光──深海のような静けさを宿していた。

 

 

 服は新しいものに着替えているが、頬には白い絆創膏が貼られている。そして何より、右腕が痛々しいほど幾重にも包帯で巻かれ、首から吊られていた。

 あの激闘の痕跡だ。

 

 彼女は、ベッドの足元まで歩み寄り、そこで立ち止まった。直立不動。まるで、主人の命令を待つ機械人形のように。だが、その視線は、木寺の顔に吸い付いたまま離れようとしなかった。

 

 

「……痛そうだな、その腕」

 

 

 木寺は、自分のことは棚に上げて、気まずそうに言った。

 

「……骨に異常はありませんが、熱傷と筋繊維の断裂が見られます。とミサカは現状を報告します」

「……そうか。……ちゃんと、治るのか?」

「はい。あの医師による完璧な処置済みです。完治まで約一ヶ月と診断されました」

「……そっか。よかった」

 木寺は、心底ホッとしたように息を吐いた。

 彼女の腕が治ると聞いただけで、肩の荷が下りたような顔をした。

 その木寺の反応が、一○○三二号にはさらに理解できなかった。

 

 彼女は一歩、前に踏み出した。

 

 

「……質問の続きをさせてください」

 

 彼女の声は、いつもより透徹で、そして切実な響きを帯びていた。それは、単なる情報収集ではない。彼女の存在意義そのものを問うような、重い問いかけだった。さっきの美琴への答えだけでは、彼女の脳は納得していなかったのだ。もっと明確な、彼女に向けられた言葉が必要だった。

 

 

 

「どうして……私を助けてくれたのですか?」

 

 

 

 木寺は視線を逸らした。また、その質問か。美琴にも聞かれた。医者にも呆れられた。そして今、助けられた本人からも突きつけられる。

 

「あなたは……情けなくビビっていました。とミサカはあの時の事を思い返します」

 

 

 

 一○○三二号は、容赦なく言葉を続けた。

 

「足は震え、顔色は蒼白で、呼吸数は異常値を示していました。……恐怖で、立っているのがやっとの状態に見受けられました。ミサカの視覚は、あなたの逃走準備動作を何度も検知しました」

「……うるせえな。わかってるよ」

「合理的判断に基づけば、あなたはすぐに逃走すべきでした。あるいは、お姉様(オリジナル)に全てを任せて退避すべきでした。……あなたには、何のメリットもありませんでした」

 

 一○○三二号は、自分の胸に手を当てた。その手は、白く、華奢で、あまりに普通の女の子に見える。

 

「ミサカは、単価18万円の実験動物です。代替品は世界中に9000体以上います。……スペックも、コストも、あなた一人の命とは比較にならないほど軽い『モノ』です」

 

 彼女の瞳が、微かに揺らいだ。

 

「そんな……壊れてもすぐに補充がきく『部品』のために、なぜあなたは……自分の命という取り返しのつかないコストを支払おうとしたのですか?」

 

 理解できない。

 彼女の持つ演算回路では、この方程式がどうしても解けないのだ。ミサカネットワークの総意をもってしても、答えが出ない。損得勘定が釣り合わない。リスクとリターンが釣り合わない。

 

 木寺一桁という個体の行動は、生存本能に逆らうエラーそのものだ。

 

「……『嫌だったから』。……さっきの回答は、曖昧すぎます。もっと具体的な、論理的な理由を提示してください」

 

 彼女は詰め寄った。

 

 答えが欲しい。自分が生き残った理由を、自分が守られた価値を、言葉にして定義してほしい。そうしなければ、彼女自身の存在が崩れてしまいそうだったから。

 

 

 

 

「……理由、か」

 

 木寺は、溜息をついた。吊るされた足を見る。ボロボロだ。しばらくは風呂に入るのも一苦労。リハビリは地獄だろう。金もない。新たにサバ缶を買う数百円すら、今は手元にない。

 

 それでも、後悔はなかった。

 

 

「……なあ、ミサカ」

 

 木寺は、静かに口を開いた。

 

「俺は、レベル0だ。無能力者だ。……この学園都市じゃ、いてもいなくても変わらない、背景みたいな存在だ」

「……キデラ?」

「影が薄くて、誰にも気づかれなくて、何の力もない。……だから俺は、自分が『空っぽ』だってずっと思ってた」

 

 

 18万円? 立派じゃねえか。俺なんか120円だぞ、と木寺は軽口を叩く。

 

 

 木寺は、記憶の中の光景を手繰り寄せた。あの日の公園。段ボール箱の中の、弱った黒猫をじっと見つめていた、この無表情な少女を。

 

「でもな。……あの時、お前が言ったんだ。それで、思ったんだ」

 

 木寺は、一○○三二号を見た。

 

「お前は、自分が実験動物だって言った。合理的で、感情がなくて、ただ殺されるために作られた人形だって言った」

「……はい。それは事実です」

「じゃあ……なんであの時、お前らはあの猫を助けようとしたんだ?」

 

 一○○三二号が、わずかに目を見開いて、口を閉ざす。

 

「なんで……御坂がアイスを奢るって言った時、あんなに嬉しそうな顔をしたんだ?」

「……それは、ただの生理的な反応で……」

「違う」

 

 木寺は断言した。

 

「操車場で、俺が逃げろって言った時……お前は困惑してた。命令に従うだけの人形なら、俺を排除するなりして、実験を続けたはずだ。……でも、お前はただ、あの場所に踏みとどまった」

 

 木寺の脳裏に、あの瞬間の光景が蘇る。地面が揺れて世界が傾いた瞬間。俺が終わりを確信した瞬間、その予定調和が狂った。

 あの日、あの場所で、誰よりも早く動いたのは、美琴でも俺でもない。一○○三二号、お前だった。

 

「お前は……俺を助けようとしてくれた。……命令されたわけでもないのに。自分の判断で、自分の意志で、あんな化け物に立ち向かってくれた」

 

 木寺は、包帯だらけの手を伸ばそうとして、やっぱり届かずに、代わりにシーツを握り締めた。

 

「痛みを感じて、悩んで、誰かを守ろうとして……そうやって必死に足掻いてるやつを、俺は『モノ』だなんて、やっぱり思えねえよ」

「……、」

 

 論理などない。

 あるのは、人間として当たり前の共感だけだ。

 

「理屈じゃねえんだよ。値段でもねえ」

 

 木寺は、少し肩の力を抜いて、あの時の感情を思い出すように言った。

 

「……さっき、美琴には格好つけて『嫌だったから』なんて言っちまったけどよ」

 

 

 木寺は困ったように笑った。

 

「本当は……見栄張ったんだよ。あいつ、ああ見えてすげえ気にしぃだろ? 俺が本当のこと言ったら、また余計な責任感じて凹みそうだからな」

 

「……本当のこと、ですか?」

 

「ああ。正直言うとな、本当はずっと怖かった。……死ぬほど怖かったよ。一方通行の前に立った時、チビリそうだった。逃げ出したくて、叫び出したくて、ずっとずっと、どうしようもなかった」

 木寺は正直に吐露した。

 

 

 木寺一桁はあの日。あの時。目の前の少女を助ける為に踏み出す、まさにその直前の瞬間まで。

 逃げたくて、恐ろしくて、たまらなかったのだと。

 

 本当は、嫌だった、なんてかっこいい理由じゃない。

 

 自分は、そんなヒーローみたいな人間じゃ、ないんだ。

 

 

 

「…………、」

 不思議な感覚だった。美琴の前では、どうしても「大丈夫なフリ」をしてしまう。けれど、同じ「空っぽ」な雰囲気を持つ、あの時間を共有したこの少女の前でだけは、虚勢を脱いで、情けない本音を語れる自分がいた。

 

「でもな……」

 

 ふと。木寺は言葉を切り、視線をドアの方へと逃がした。

 

 あらかじめ用意していた答えではない。

 

 今、この瞬間に、自分自身の心の奥底を掘り返して、そこに埋まっていた感情の欠片を拾い上げるような、拙い口調で続けた。

 

「……あいつに()()()()()()()と……お前らが、()()()()()()()。……その二つを、あの瞬間に、俺は天秤にかけたんだと思う」

 

 彼は、包帯だらけの自分の脚を、じっと見つめた。

 

「もし俺が逃げたら、俺は助かる。痛くもねえし、怖くもねえ。……でも、その後には……何が残るんだって、考えちまった」

「……、」

 

「俺は、多分、お前がいなくなることが……二度と一緒にアイスを食えないことが、二度と猫の話ができないことが……俺には、一番、すごく怖かったんだ」

 

 

 木寺は、ぽつり、ぽつりと、自分の心を確かめるように言葉を紡ぐ。

 

 お前が、お前らが殺され続けることの方が。そして彼女が死ぬことの方が。

 

 俺が死ぬことよりも、ずっと、ずっと怖くなった。

 

 だから、俺はより怖くない方を選んだ。多分、これは、それだけの話なのだ。

 

 

「…………、」

 

 一○○三二号は何も言わない。ただ感情の読めない瞳で、彼の一言一句に耳を傾けている。

 

 木寺は、少し居心地が悪そうに、言葉を紡いでいく。

 

 

「……俺は」

 

 それは。

 

 恋と呼ぶには淡く、友情と呼ぶには重すぎる。

 

 ただの、人間としての共鳴。「空っぽ」だった少年の器に、本当の意味で注ぎ込まれた「誰かを想う」という熱量。

 

 

 

「……そう想像した時、なんつーか……そっちの方が、凄く、凄く、ゾッとしたんだ。ただ……それだけの話だ」

「……、」

 

 

 

 長い、沈黙。

 

 一○○三二号は、動かなかった。ただ、その無機質な瞳の奥で、何かが静かに氷解していくのが見えた。

 

 

 

 

 

 

 ミサカが……ミサカ達がいなくなる事が、怖かった。

 

 

 

 

 

 

 今、目の前の少年は、確かに、そう言ったのだ。

 

 

 

 

 

 

 その意味を、何度も何度も、考えて、口の中で転がして、また、もう一度、考えてみる。

 

 

 

 

 

 

「………………、」

 

 彼女は、ゆっくりと自分の胸に手を当てた。それは、少しずつ規則を乱していく、心臓の鼓動。

 

 それは、ただ血液を循環させるためのポンプの音ではない。もっと熱く、切実で、不規則なリズム。

 

 

 

 

 

 

 

「……ミサカの、内部で……」

 

 やがて、彼女は、わずかに掠れた声で、呟いた。

 

「胸の奥で……何か、よく分からないモノが、発生しています。……熱くて、苦しくて……でも、嫌な、感じがしません」

 

 彼女の頬を、一筋の雫が伝った。それは、涙だった。自分が泣いていることにすら気づいていないように……彼女は呆然と呟いた。

 

「……この感覚は、未定義です。ミサカネットワークにも、該当するデータがありません。……これは、何なのですか?」

 

 彼女は答えを求めていた。

 この胸の痛みは何なのか。なぜ、熱いものが次から次へと溢れてくるのか。

 

 

 もしかしてこの少年なら、その答えを知っていると……そう期待して。

 

 

 

 

 

「……それは」

 

 木寺は、少し目を見開いて……それから、ほっとしたように微笑んだ。

 

 その笑顔は、やっぱりどこか卑屈で、相変わらずぎこちなくて。だけど、それでも、一人の人間として、一人の少女と向き合う少年の顔だった。

 

「それが……答えだろ」

「……答え?」

 

「ああ。……お前が欠陥なんかじゃないって証拠だ」

 

 木寺は、窓の外に目をやった。そこには、無限に広がる空があった。彼女たちがこれから生きていく、どこまでも自由な世界。

 

 

「お前はもう、誰かの実験動物じゃない。……18万円の消耗品でもない」

 

 

 木寺は、一○○三二号の瞳を真っ直ぐに見つめた。

 そして、あの日、彼女が自分自身の存在を否定した時に言えなかった言葉を、今、ここで告げた。

 

 

「お前が泣けるのは……お前が、誰かと痛みを分かち合えるのは……」

 

 

 

 ──それに、多分……俺が、今回こうして戦うことが出来たのだって。

 

 

 

 

 

 

 

 透明だった少年は答える。

 

 

 

 それが彼なりの、彼女に伝えられる、精いっぱいに考えた結論だったから。

 

 

 

 それこそが、彼が一番、彼女に証明したかった事なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「───心が、あるからじゃないか?」

 












第四章 完。
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