時計の針が午後十一時を回った。
小萌先生のアパートに漂っていた穏やかな空気は、苛立ったようなノックの音一つで霧散した。
「……さっさと出てこい」
ドアの向こうから聞こえたのは、聞き覚えのある低い声。
ステイル=マグヌスだ。そして、その横には神裂火織の気配もあるだろう。
「……ッ!」
上条当麻が弾かれたように立ち上がり、右の拳を握り締め、ドアへ向かおうとする。だが、その服の裾を、小さな手が掴んだ。
「だめだよ、とうま」
インデックスだった。彼女はいつも通りの、少し眠そうな、けれどどこか透き通った笑顔を浮かべていた。
「もう、時間なんだよ。あの二人は約束を守ってくれた。だから、行かなきゃ」
「ふざけんな! 記憶を消すなんて……そんなことさせてたまるかよ!」
「ありがとう、とうま。……でも、私の脳はもう限界なの。これ以上わがままを言ったら、私は死んじゃうんだよ?」
彼女は、自分自身の死を、明日の天気を語るように口にした。
それは諦めではない。上条を傷つけないための、彼女なりの精一杯の「嘘」と「優しさ」だった。
部屋の隅。
木寺一桁は、その光景を爪が食い込むほど拳を握りしめて見ていた。
(違う。違うだろ、インデックス!)
喉まで出かかった言葉が、恐怖で詰まる。
ドアの外には、あの炎の魔術師と、あの抜刀術の怪物がいる。
今から自分がしようとしていることは、その化け物たちの「信念」を真っ向から否定することだ。
殺されるかもしれない。あの七本の斬撃で、今度こそ肉塊にされるかもしれない。
(怖い。逃げたい。……でも)
木寺は見た。上条当麻が、インデックスの手を振りほどけず、絶望に顔を歪めているのを。
あの「ヒーロー」が、情報不足という名の鎖に縛られ、身動きが取れなくなっているのを。
(動け、俺。ここで動かなきゃ、俺は一生「その
「……開けるぞ、上条」
木寺は震える足を踏み出し、上条を押し退けてドアノブに手を掛けた。
「木寺!?」
「話し合いだ。……あくまで、話し合いだぞ」
自分に言い聞かせるように呟き、ドアを開け放つ。
夜の廊下。
そこには、予想通りステイルと神裂が立っていた。二人の表情は暗い。
まるで葬列に参列する遺族のような、沈痛な面持ちだ。
彼らもまた、望んで記憶を消すわけではない。かつての仲間を救うために、汚れ役を買って出ているのだ。
「……邪魔をしないで下さい。時間がもうありません」
神裂が静かに告げる。その手は刀の柄に掛かっている。木寺の心臓が早鐘を打つ。
息が苦しい。膝が笑う。だが、彼は上条とインデックスを背に庇うようにして、アパートの入り口に立ちはだかった。
「……一分だけ、時間をくれ」
木寺の声は上ずっていた。情けないほど震えていた。
「なんだ? 命乞いか?」
「ちげーよ、タバコ臭い兄ちゃん。……質問だ」
木寺は大きく息を吸い込み、図書館で調べ上げ、小萌先生に裏を取った「事実」を、弾丸のように装填した。
「あんたたち、インデックスの脳が一〇万三〇〇〇冊の魔道書で八五%埋まってるって言ったよな? だから、新しい記憶を入れるスペースがない。だから
ステイルは片眉を上げ、見下すような瞳で言った。
「……事実だ。我々魔術師には理解できないが、彼女は『完全記憶能力』を持っている。一度見たものは決して忘れない。だからこそ、脳の容量が物理的に圧迫される」
ステイルが忌々しげに答える。その言葉を聞いて、木寺は確信した。こいつらは、嘘をついていない。本気でそう信じ込んでいる。
「……やっぱりな。あんたたち、騙されてるよ」
「なに?」
神裂の眉がピクリと動いた。殺気が膨れ上がる。だが、木寺は退かなかった。ここで退けば、上条たちが終わる。
「俺はレベル0だ。魔術のことは何も知らねえ。でもな、『脳』のことなら学校で腐るほど習った。……人間の脳細胞が何個あるか知ってるか? 1千億個以上だ。シナプスの結合パターンなんて天文学的な数字になる」
木寺は、後ろにいる上条にも聞こえるように、叫ぶように続けた。
「たかだか一〇万冊の本? 文字データに換算しても数ギガバイトだろ? そんなもんでパンクするわけねーだろ!! 人間の脳みそはな、一四〇年分の記憶だろうが余裕で入るようにできてんだよ!!」
静寂。廊下を支配していた重苦しい空気が、ピタリと止まった。
「……何を、言っている?」
ステイルが呟く。彼らにとって、それは「教会から教えられた絶対の真理」だったはずだ。
インデックスの命を救うための、唯一の免罪符。それを、ただの高校生に「
「嘘だ。教会が嘘をつくはずがない。彼女は現に苦しんで……」
「その苦しみ自体が、仕組まれたもんだったらどうする!?」
木寺は一歩踏み出した。
「おかしいと思わないか? なんで『記憶を消す』なんて回りくどい方法なんだ? なんで『一年』なんだ? 本当に彼女を救いたいなら、もっと別の方法を探したはずだ。でも、あんたたちは『教会がそう言ったから』って思考停止して、諦めてただけじゃねーのかよ!」
「貴様ッ……!」
神裂が刀を抜こうとする。ステイルがルーンに手を伸ばした。
その殺気は本物だ。自らの信念を汚された怒り。木寺は腰を抜かしそうになった。だが、その時。
「……待ってくれ!」
背後から、大きな声が響いた。上条当麻だ。彼はゆっくりと、木寺の横に並んだ。その瞳からは、迷いが消えていた。
「……頼む。木寺の話を聞いてくれ」
「上条……」
「俺も、ずっと違和感があった。完全記憶能力ってのは、思い出せないだけで、忘れることはない能力だろ? それが『容量を圧迫する』なんて、機械じゃあるまいし変だと思ってた」
上条の脳内で、木寺が提示した「脳科学の
「……なぁ、ステイル、神裂。お前ら、インデックスの口の中を見たことはあるか?」
「口の中? 何を言って……」
「喉の奥に、何か描いてなかったか? 魔術的な、記号みたいなのが」
上条の指摘に、二人の魔術師は顔を見合わせた。思い当たる節があるのか、あるいは無意識に避けていたのか。
「……見せろ!」
上条の言葉に、魔術師たちがインデックスのもとに駆け寄る。そして、喉の奥にある紋様を確認し、何かを話している。
語気が強い。
その紋様の意味を彼らは知っているのかいないのか。ただ、焦燥のようなものがさざめきだつのが、木寺にも見て取れた。
「どうだ、どうなんだ魔術師!」
「……」
「どうだって聞いてんだァ!!!!」
上条が、右手を握りしめる。
木寺の手のひらに、じわりと汗が浮かんでいく。
「脳がパンクするなんて嘘だ。インデックスの記憶や魔力を制限しているのは、脳の容量なんかじゃない。その『喉の奥の何か』が、首輪みたいに彼女を縛り付けてるだけなんじゃないのか!?」
世界が反転する音がした。悲劇的な運命だと思っていたものが、悪意ある何者かによる「拘束」だと示唆された瞬間。
「……あり、えない……」
神裂の手から、力が抜ける。
彼女たちが、友を救うために血の涙を流して行ってきた「記憶消去」。
それがもし、教会が「一〇万三〇〇〇冊の魔道書」という兵器を管理し、裏切らせないための
彼女たちは、救っていたのではなく、支配に加担させられていたことになる。
「木寺。……サンキューな」
上条が、木寺の肩をバンと叩いた。
「お前が調べてくれなきゃ、俺は気付けなかった。ただ泣いて、別れるとこだった」
上条の瞳に、灼熱の火が灯る。それは、不幸を嘆く少年の目ではない。理不尽な
「……はっ、礼なら後でいいぞ。高いぞ、俺の情報料は」
木寺は引きつった笑みを返した。足はまだ震えている。背中は冷や汗でぐっしょりだ。
だが、彼はやり遂げた。戦闘力ゼロの、ただの小心者が、世界最強の魔術結社の嘘を暴いたのだ。
「時間は!?」
上条が叫ぶ。
「あと一〇分もない……!」
ステイルが時計を見て叫び返す。彼もまた、混乱の中で「真実」を確かめようとしていた。
もし、この少年たちの言うことが本当なら。自分たちは、取り返しのつかない過ちを繰り返すところだった。
「やるぞ! その『首輪』をぶっ壊す!」
上条が部屋の中へ駆け戻る。木寺も続く。ステイルと神裂も、迷いながらも、その後を追う。
部屋の中。インデックスは横になっていた。体力が削られて行っているのか。
息も絶え絶えになって、不思議そうな顔で、戻ってきた四人を見ていた。
「とうま? もう、時間だよ……?」
「インデックス、口を開けろ!」
「え? な、なに急に……あぐッ!?」
上条が強引にインデックスの顎を掴み、口を開かせる。喉の奥。そこには、確かにあった。複雑怪奇な幾何学模様。木寺にはただの落書きにしか見えないが、ステイルたちの目には、それが禍々しい「枷」として映ったようだ。
「…………くそ、やはり、この術式は……」
ステイルが苦悶の声を上げる。やはり、何か……非常に「まずい」ものである可能性がある。しかしこれから何が起こるか、二人の魔術師も掴みかねているようだった。
「木寺、明かりを頼む!」
「おう!」
木寺がデスクライトを引ったくり、インデックスの口内を照らす。上条の右手が、その術式へと迫る。
「歯を食いしばれよ、インデックス! そのふざけた首輪を俺が壊す!!」
運命の午前〇時まで、あと数分。科学と魔術、二つの異能を持たない「ただの人間」木寺一桁がこじ開けた活路へ、上条当麻が突っ込んでいく。
「……やれ、上条!!」
木寺の叫びと共に、上条の右手が、少女の喉奥の魔法陣に触れた。
パリンッ!!
何かが砕けるような、澄んだ音が響く。だが、それはハッピーエンドの音ではなかった。破壊された
「──警告。第三章、第二節」「第一から第三までの全結界の貫通を確認」「再生準備……失敗」「『書庫』の保護のため、侵入者の迎撃を優先します」
直後だった。
空間が底冷えする。
インデックスの瞳から、感情という光が消え失せた。
機械的な、氷のような無機質な瞳。部屋の空気が凍りつく。
木寺一桁は、戦慄した。自分の
だが、その先にある「真の絶望」までは、計算できていなかったのだ。
「……なんだよ、あれ……」
浮遊する少女。その背後から溢れ出す、莫大な魔力の奔流。聖人である神裂すら圧倒する、一〇万三〇〇〇冊の魔道書の暴走。
ここからが、本当の地獄。そして、上条当麻と木寺一桁の、最悪の夜が始まる。