とある科学の存在証明   作:かさねtyann

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エラーコード・ナル(後編)

 

 入学式から三日後。

 第五学区、国際会議場。

 学園都市の「知」が集結するこの場所は、雨の湿気を完全にシャットアウトし静寂に満ちていた。

 

『第21回脳神経回路と量子力学的観測に関する合同シンポジウム』。

 それが、今日この場所で行われている学会の題目だ。

 

 壇上では、白髪の老教授がスライドを切り替えながら、難解な数式と脳の断層写真を指し示している。

 

「──したがって、自分だけの現実(パーソナルリアリティ)の確立とは、即ち『小さな世界における確率の確定権』を脳が掌握することと同義であり……」

 

 客席に座る数百人の聴講者たち。

 その最前列付近に、不釣り合いなほど小さな影があった。

 ピンクのフリル付きお衣装に、子供用のサイズのスカート。足が床につかずにプラプラと揺れている。

 どう見ても迷い込んだ小学生か、あるいは教授の孫娘にしか見えないその人物こそ、発火能力と心理学のエキスパートである月詠小萌だった。

 

「ふむふむ……。あのアプローチは少し強引ですねー。ハイゼンベルクの不確定性原理をマクロに適用するには、演算素子の補助がないと脳への負荷が大きすぎます」

 

 小萌は手元のタブレットに猛烈な速度でメモを取りながら、独り言を漏らした。

 彼女が今日ここに来たのは、担任としての仕事ではない。

 一人の研究者としてのインプットのためだ。だが、彼女の脳裏の片隅には、常に一人の生徒の顔が張り付いていた。

 

 木寺一桁(きでらひとけた)

 今年受け持ったクラスの生徒。そして、学園都市の科学をもってしても解明できない「奇妙な(ナル)」のサンプル。

 

 彼のデータは、彼が学園都市に来た時から変化を見せない。

 再検査をしても、機材を変えても、彼の脳からはAIM拡散力場が検出されない。

 それは単なる「落ちこぼれ」という次元を超えていた。

 今日の学会のテーマである「観測と確率」の話を聞けば聞くほど、木寺の異常性が際立っていく。

 小萌は、学術的な知見を得るたびに、背筋が寒くなるのを感じていた。

 

 

 :

 

 

 講演が終わり、休憩時間(コーヒーブレイク)となった。

 ロビーには、高そうなスーツや白衣を着た研究者たちが溢れ、ドリンク片手に議論を交わしている。

 そこにあるのは「純粋な科学」への探求心だけではない。予算獲得、派閥争い、そして「優秀な検体(モルモット)」の情報の探り合い。学園都市の深部にも通じる、特有のきな臭さが漂っていた。

 

「おや、月詠先生ではありませんか。こんなところでお会いするとは」

 

 声をかけてきたのは、神経質な痩せぎすの男だった。頬はこけ奥の目は笑っていない。目高池(めだかいけ)博士。

 第十学区にある脳神経研究所の主任であり、能力開発カリキュラムの策定にも関わっている有力者だ。

 

「あ、これは目高池先生。ご無沙汰しておりますー」

「相変わらず精力的ですね。高校教師の激務の合間に学会とは。……で、どうです? 今年の収穫は」

 

 目高池は、まるで今年のワインの出来を聞くように、新入生の話を振ってきた。

 彼らにとって生徒とは、データを出力するための端末に過ぎない。

 

「ええ、まあ。元気な子たちばかりですよー。手がかかって大変です」

「ほう。例えば『原石』のような逸材は? あるいは、興味深いエラーデータなどは?」

 

 目高池の目が光る。

 小萌は内心で警戒レベルを引き上げた。

 もしここで「木寺一桁」の名前を出せば、どうなるか。

『AIM拡散力場ゼロの少年』。

 そんな希少なサンプル、この目高池のような連中が放っておくはずがない。

 即座に「特別奨学金」という名目で研究所に隔離され、脳をいじくられるのがオチだ。

 

 だが、小萌の中で、研究者としての「迷い」と「渇望」があったのも事実だ。

 自分一人の知識では、木寺の特異性を解明できない。

 もし、彼が何らかの病気や欠陥を抱えているなら、早期に対処しなければならない。そのためには、高度な知見を持つ他者の意見が必要だ。

 

 小萌は、意を決して口を開いた。

 

「……特定の個人の話ではありませんが。少し、仮説としての議論にお付き合い願えますかー?」

「仮説? ええ、構いませんとも。コーヒーもまだ残っていますし」

 

 小萌は、周囲に聞き耳を立てる者がいないことを確認し、声を潜めた。

 

「あくまで、私のシミュレーション上の『仮想モデル』の話です」

 

 彼女は嘘をついた。これは実在する生徒の話ではない、という前提(フィクション)で防壁を張る。

 

「ある被験者がいたとします。カリキュラムへの適合率は正常。脳波も正常。しかし、AIM拡散力場の測定値が、恒常的に『ゼロ』を示すケース……これについて、どう思われますか?」

 

 目高池は、コーヒーを口に運ぶ手を止めた。眼鏡の奥で、計算高い瞳が小萌を見据える。

 

「……ゼロ、ですか。測定限界以下(アンダーフロー)ではなく?」

「はい。完全なゼロです。サーモグラフィーで言えば、絶対零度すら表示されない『空白』。ノイズすら出ない状態です」

 

 目高池は鼻で笑った。

 

「月詠先生。それは前提条件が破綻していますよ。人間が生きて思考する限り、生体電気は発生する。能力開発を受けた脳なら尚更だ。AIM拡散力場とは、彼らの『自分だけの現実』が世界に干渉しようとする際のこぼれ球(余剰熱)だ。ゼロになるということは、即ち『脳死』か、あるいは……」

「あるいは?」

「その被験者が、この世界の物理法則の外側にいるか、ですね」

 

 目高池は冗談めかして言ったが、小萌は笑えなかった。

 

「……詳しく聞かせてくださいー」

 

「簡単な理屈ですよ。我々が構築した能力開発理論は、量子力学における『観測者効果』を増幅させるものです」

 

 目高池は、ロビーの窓から見える学園都市の風景を指差した。

 

「シュレディンガーの猫ですね。箱の中の猫は、観測されるまで生きている状態と死んでいる状態が重なり合っている。能力者は、自分の脳という箱の中で、意図的に『猫は生きている、あるいは死んでいる』という結果を強引に決定し、それを箱の外側──つまり現実世界に押し付ける者たちです」

 

「ええ。それが『自分だけの現実』ですね」

 

「では、AIM拡散力場がゼロの人間とはどういうことか? それは、箱の中の状態を決定しない……いいえ、『決定できない』のではありません」

 

 目高池の声が、熱を帯びてきた。科学者特有の、未知のパズルに対する興奮だ。

 

「その被験者は、箱の外側……つまり『マクロな現実(客観的物理法則)』に対して、異常なほどの親和性を持っている可能性があります。その者の脳内では、猫の状態は観測する前から確定しているのです。『猫は猫だ』と。確率の揺らぎが入る余地がない」

 

「……確率の揺らぎがない……」

 

 小萌の脳裏に、木寺の顔が浮かぶ。

 アルミ片を動かせなかった時の、あの諦めを含んだ瞳。

『動くわけがない』

 彼のその思考は、諦観ではない。

 あまりにも純粋な、世界への信頼だ。

 彼は、この世界が不確定で曖昧なものであることを、本能的に拒絶している。1+1は必ず2になる世界。奇跡も魔法も超能力もない、冷徹で、しかし安心できる「常識」の世界。

 

「もしそんな脳が存在するとしたら……それは『能力者(エスパー)』の対極にある存在ですね」

 

 目高池は、楽しそうに続けた。

 

「能力者を『本』とするなら、その被験者は『焚書という現象』だ。……いや、もっと性質が悪いかもしれない」

 

「性質が悪い、とは?」

 

「『空集合(エンプティ・セット)』ですよ」

 

 目高池は指先で、空中にゼロの形を描いた。

 

「データが存在しないということは、計算式に組み込んだ瞬間、式全体を崩壊させる可能性がある。プログラムで言うところの『NullPointerException』だ。彼を観測しようとした能力者の認識が、吸い込まれてエラーを起こすかもしれない」

 

 小萌は、息を呑んだ。

 エラーを起こす。

 木寺一桁の存在そのものが、能力者にとっての「バグ」になり得るというのか。

 

「……ですが、目高池先生。それはあくまで仮説の話です。それに、もしそんな人間がいたとしても、本人は『能力が使えない』ことに苦悩するだけの、ただの無能力者ではありませんか?」

 

 小萌は、木寺を守るために、あえて彼の価値を下げるような発言をした。だが、目高池は首を横に振った。

 

「いいえ、月詠先生。貴女らしくもない。その価値がわかりませんか?」

 

 目高池は、声を潜めて囁いた。その内容は、小萌が最も恐れていた言葉だった。

 

「その『絶対にブレない脳』は、最高の『基準器(キャリブレーション・ツール)』になりますよ」

 

「基準器……」

 

「能力開発は暴走との隣り合わせだ。脳に負荷をかけ、現実を歪めさせる。その過程で、被験者の精神が崩壊することは珍しくない。……だが、もし『絶対に歪まない脳』があれば? それを基準点としてリンクさせれば、高レベル能力者の精神安定剤として、あるいは暴走時の安全装置として利用できる」

 

 目高池の瞳が、変温動物のように怪しげに光った。

 

「もしそんな『仮想モデル』が実在するなら、是非とも紹介していただきたいですね。脳をホルマリン漬けにしてスライスしてでも、その構造を解析する価値がある」

 

「ッ……!」

 

 小萌の背筋が凍りついた。

 ホルマリン漬け。スライス。

 この男は本気だ。比喩ではなく、学園都市の研究者なら平気でやる。

 木寺一桁という少年が、人間としてではなく、ただの「部品」として消費される未来。

 

「……あはは、怖い冗談ですねー。そんな人間、いるわけないじゃないですかー」

 

 小萌は、精一杯の愛想笑いを浮かべた。小さな拳を握りしめ、爪が食い込む痛みで震えを抑えながら。

 

「あくまで、私の机上の空論ですよ。シミュレーションのパラメータ設定をミスしたときに出た、異常値の話です」

 

「……そうですか。それは残念だ」

 

 目高池は興味を失ったように肩をすくめた。

 丁度、午後のセッションの開始を告げるブザーが鳴った。

 

「では、私は行きます。……しかし月詠先生、もしその『パラメータ設定ミス』が実在したら、早めに報告してくださいね。私のラボなら、高値で買い取りますから」

 

 目高池は片手を上げて去っていった。その背中を見送りながら、小萌はその場にへたり込みそうになった。

 

 

 :

 

 

 学会が終わり、夕刻の第七学区。小萌は、スーパーの袋を提げて歩いていた。中身は、今夜の酒のツマミと、安売りしていた鬼殺し、他ビール。

 

 街は、下校時刻の学生たちで賑わっている。

 能力の実演をする者、ゲーセンに向かう者、参考書を読みながら歩く者。

 その中に、木寺一桁の姿はなかったが、この街のどこかに彼はいる。

「自分には何もない」と嘆きながら、誰にも気づかれずに。

 

「……バカな子です」

 

 小萌は呟いた。彼は、自分がどれほど危険な綱渡りをしているか、露ほども知らない。

「何もない」ことが、この街では最大の異端であるということを。

 

 今日、目高池博士との会話で確信した。

 木寺一桁は、表に出してはいけない。

 彼の特異性が露見すれば、彼は実験動物にされる。あるいは、「上条当麻」のような自衛手段を持たない彼は、一方的に搾取されるだけの存在になる。

 

「先生が、隠し通してあげますよ」

 

 小萌は、ふと立ち止まった。雲の隙間から、欠けた月が見え隠れしている。

 

 担任としてできることは、彼のデータを改竄し、測定限界以下の凡庸なレベル0として、システムに登録し続けること。

 そして、彼自身にも気づかれないように、その、普通さを守り抜くこと。

 

「でも……」

 

 小萌は、ふと不安になる。いつか、彼自身がその「ゼロ」を武器にしなければならない時が来たら? 

 彼が守りたいもののために、その特異性を世界に晒す日が来たら? 

 

 その時、一三五センチの小さな教師は、彼を守りきれるだろうか。

 

「……その時は、先生も腹を括るしかないですねー」

 

 小萌は、ぷしゅりと音を立てて歩きながら缶ビールを開けた。

 行儀が悪い。

 生徒に見られたら示しがつかない。

 でも、今日だけは許してほしい。アルコールで、あの目高池博士の昏い視線の記憶を消毒しなければ、やってられない。

 

「木寺ちゃん。貴方はそのままでいいんです。空っぽのままで、誰よりも人間らしくあがきなさい」

 

 苦いビールが、喉を通っていく。ぷは、と小萌は嘆息をついた。

 

 

 :

 

 

 その夜、小萌の自宅。

 酔いが回った頭で、彼女はパソコンに向かっていた。

 画面に表示されているのは、学園都市のデータベースへのアクセス画面。

 彼女は、木寺一桁の身体検査データを呼び出し、情報にマスキングをかけた。

 

【セキュリティレベル設定】【担当教官承認:月詠小萌】【備考:特記事項なし。再検査不要】

 

 これで、当面の間は彼に目が向けられることはないだろう。目高池のような研究者たちから、彼を隠すためのささやかな迷彩。

 

「ふひー……。悪い先生ですねー、公文書偽造スレスレですよー」

 

 小萌はキーボードに突っ伏した。モニターの光が、彼女の寝顔を照らす。

 

 デスクトップの中には、小萌が個人的に記した、誰にも見せない秘密のメモが残されていた。

 

『仮説:対象のAIM拡散力場欠落は、外部からの超能力的干渉に対する「絶対的絶縁体(インシュレーター)」として機能する可能性あり』

 

 

 科学と魔術が交差する時、物語は始まる。

 だが、その交差点に、どちらにも属さない「空白」が立っていたとしたら。

 その空白は、交差する二つの線を、決して混ぜ合わせない区切りになるのではないか。

 

「むにゃ……」

 

 小萌の寝息が部屋に響く。

 部屋の隅には、まだ誰もいない万年床が広がっていた。

 

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