AION REAGALIA(アイオン・レガリア) 作:ネネカ大神
ガリア連邦の遺産たる『鏡像の翼』を退けたエテルナ帝国は、勝利を祝う「星韻祭(せいいんさい)」の夜を迎えていた。 都の至る所には黄金の灯籠が浮かび、運河の水面には揺らめく光が宝石のように散らばっている。国民たちは、昨日までの戦慄を忘れ、王の慈悲によって守られた日常を謳歌していた。
だが、その祝祭の華やかさとは裏腹に、都の「影」と「鏡」の中では、人知れず不気味な侵食が加速していた。
「……ねぇ、あなた。鏡の中の私、さっきから笑っていない気がするの」
一人の女性が、寝室の鏡の前で呟いた。 彼女が右手を上げても、鏡の中の彼女は動かない。それどころか、鏡の向こう側の「彼女」は、ゆっくりと鏡面に指を触れ、内側からガラスを叩き始めた。
コツ、コツ、コツ……。
同様の怪現象は都の全域で発生していた。 水溜まり、ショーウィンドウ、磨き上げられた盾。あらゆる反射面に宿る「自分自身」が、実体の意志を離れ、独自の鼓動を刻み始めたのである。それは、鏡像の翼が破壊された際に霧散したはずの星韻(せいいん)が、ゼノビアの影と混ざり合い、この世界の法典(コード)そのものにバグを引き起こした結果であった。
アイオン宮殿の正門前。 そこに、地面から這い出してきた無数の「鏡の兵士」たちが、無機質な軍勢となって押し寄せていた。
「――チッ。どいつもこいつも、ツラを見ているだけで吐き気がしやがる」
立ち塞がったのは、四星天将、煉獄のアグニオース。 逆立った紅蓮の髪に、褐色の肌。彼は四天王の中でも最も苛烈な気性を持ち、戦闘を「魂の燃焼」と定義する男である。
「アグニオース様、深追いは禁物です。彼らは実体がなく、概念的な侵食のようです」
傍らで冷静に忠告するのは、彼の直属の部下たち。だが、アグニオースはそれを豪快な笑い飛ばした。
「実体がない? 概念? そんなもん、『燃え尽きるまで焼けば』関係ねぇだろうが!」
アグニオースが右腕を天に掲げる。その瞬間、夜の冷気が一瞬で消し飛び、宮殿の石壁が赤く熱し始めた。 彼の能力は「熱量」の操作。だがそれは単なる火炎魔法ではない。対象を構成する分子の「振動速度」を絶対的に制御し、この世界の熱力学そのものを支配する力である。
「神理昇華(しんりしょうか)――【極楽往生・焦土の法典(パラダイス・ロスト)】」
アグニオースが一歩踏み出すと、彼の足元から半径数百メートルが、一瞬にして白熱の地獄へと変貌した。 鏡の兵士たちは、熱に耐えきれず叫びを上げる間もなく、その存在を構成する情報の律動(リズム)を「加速しすぎた熱」によって崩壊させられ、蒸発していく。
「見ろよ。反射するもんがなけりゃ、鏡もクソもねぇだろう? すべてを溶かせば、世界は一つに繋がるんだよ!」
アグニオースは、自らの肉体をも超高温のプラズマへと変え、鏡の軍勢の中へと突っ込んでいった。 彼が通り過ぎるたび、都の建物さえもが「王の修復」が追いつかぬほどの勢いで溶融し、再構築される。破壊と創造の熱量。それが煉獄の将の戦い方であった。
一方、宮殿の西塔では、虚無のゼロスが、自分自身の「巨大な鏡像」と対峙していた。
「……ボク、鏡は嫌いだよ。……だって、何もないボクを、無理やりそこに『ある』ように見せるから」
ゼロスは、クッションを抱えたまま、感情の消えた瞳で鏡像を見上げる。 鏡像のゼロスは、本物よりも一回り大きく、全身が真っ黒な虚無の霧で包まれていた。それは、前回の戦闘で収集されたゼロスのデータを元に、ゼノビアの影が再構築した「完成された絶望」の姿。
鏡像が手をかざすと、塔の一部が音もなく消滅した。 物理的な破壊ではない。存在の定義そのものを「無」に書き換える、ゼロス本来の力。
「……ボクを、ボクの力で消そうとするなんて。……面白いね」
ゼロスがふっと、初めて笑みのようなものを浮かべた。 彼は短刀『虚無の剃刀』を抜くことさえせず、ただ鏡像に向かってゆっくりと歩き出す。
「……君は、ボクをコピーしたつもりだろうけど。……ボクの中にある『本当の無』は、この世界の法典(コード)には書かれていないんだよ」
ゼロスが鏡像の体に触れた。 瞬間、鏡像の体が激しく波打ち、黒い霧が逆流を始めた。
「……ボクの虚無はね。……王様が、ボクに『名前』をくれるまで、何千年も溜めてきた寂しさなんだ。……コピーしただけの機械に、この重さが耐えられるわけないよ」
ゼロスの手から、真っ白な光――いや、光さえも存在しない「絶対的な空白」が溢れ出す。 鏡像の虚無を、本物の虚無が飲み込んでいく。 「無い」ものが、さらに「無い」ものに喰われ、最後には概念の欠片すら残らない完全な抹消。
「……バイバイ。……二度と、ボクを映さないでね」
西塔を包んでいた闇が霧散し、ゼロスは再び静かにソファへと座り込んだ。 四天王たちが各地でそれぞれの「理」を証明する中、戦場はいよいよ、その中心部へと収束していく。
宮殿の中央広場。 そこには、ついに実体化した「鏡の中のエテルナ」が、天地を逆転させたかのように空中に浮かんでいた。 逆さまにそびえ立つ聖時計塔。そこから降り注ぐのは、時間を逆行させ、人間の肉体を胎児から無へと巻き戻す、呪われた鐘の音。
「――騒がしいな。余の茶の時間は、とっくに終わっているというのに」
中央の階段を、一人の男が降りてくる。 アル・ゼノン・エテルナ。 彼は武具を構えておらず、ただ優雅にマントを翻し、散歩でもするかのように戦場の只中へと歩み出た。
その姿を見た鏡の軍勢が、一斉に王へと牙を剥く。 だが、王がただ一歩を踏み出した瞬間、周囲の空間が「軋み」を上げた。
「……跪け(ひざまずけ)。余はまだ、歩くことを許していない」
王の一言。 それは言葉ではなく、この世界の根幹に直接刻まれる「法律」であった。 突進していた数千の兵士たちが、まるで目に見えない巨人の手に押さえつけられたかのように、地面に激突し、動けなくなった。重力が増したのではない。彼らという存在に、「伏した状態で固定される」という新たな定義が強制的に上書きされたのだ。
空中に浮かぶ逆さまの時計塔が、王を排除せぬと巨大な針を光の槍として放つ。 光速を超える、因果を貫く一撃。
ゼノンはそれを避けることもしない。 彼はただ、飛来する光の槍に対し、ゆっくりと右手を差し伸べた。
「……時間は、余の許可なく進むことを許さない。……『停止(ホルト)』」
パキィィィィン!!
空中で、光の槍が粉々に砕け散った。 「止まった」のではない。時間の進行を止められた光が、自らのエネルギーの行き場を失い、存在の整合性を保てずに自壊したのだ。
「……さあ、始めようか。ゼノビアの残滓よ。……貴公らが夢見た『過去の復興』が、どれほど安っぽい幻影であるか、余が直々に教えてやろう」
ゼノンが初めて、腰に下げた黄金の長剣――王権具『万劫の針(アイオン・ニードル)』の柄に手をかけた。
ゼノンが剣を抜いた。 だが、それは刃を振るうための抜刀ではない。 彼が剣を引き抜いた瞬間、都全体を包んでいた「星韻(せいいん)」の旋律が、一瞬にして完璧な不協和音へと変じ、直後に絶対的な静寂が訪れた。
王が、世界の「指揮権」を完全に掌握した合図である。
「……一瞬は、つまらぬ。貴公らには『一秒』を永遠に感じるほどの苦痛を与えてやろう」
ゼノンがゆっくりと剣を振るう。 その動きは、あまりに緩やかで、子供の木刀遊びよりも遅い。 しかし、その剣が描く軌跡の通りに、空中に浮かぶ逆さまの街並みが、バターを熱いナイフで切るかのように、音もなく切断されていく。
「……空間を切っているのではない。……貴公らがそこに『在る』という、その歴史の連続性を断ち切っているのだ」
逆さまの時計塔が悲鳴を上げ、黒泥を噴き出しながらゼノンを飲み込もうとする。 しかし、ゼノンの周囲数メートルは、いかなる汚染も、いかなる法則も届かない「絶対的な聖域」となっていた。
「……不変のバシュタール。加速のイシュタル。煉獄のアグニオース。虚無のゼロス。……そして、二十四の翼たち。……彼らが必死に守り、磨き上げたこの都を、余がこれ以上汚させると思うか?」
ゼノンは剣を垂直に立て、静かに目を閉じた。 「第一節――【因果の剪定(せんてい)】」
ゼノンが剣を一突きすると、空中の逆さまの都に、何万もの「光の糸」が絡みついた。 それは、過去から現在へと続く、物質の因果の糸。 ゼノンはその糸を、一本一本、丁寧に、そして残酷なまでに優雅に、手繰り寄せていく。
「……まずは、この歪な塔の『土台』を消去しようか」
ゼノンが指を弾くと、逆さまの時計塔の根幹部分が、ボロボロと砂へと還っていった。 それは「壊れた」のではない。その部分が建設されたという「過去」そのものを、今の時間軸から切り離したのだ。
巨神兵の断末魔が響き渡る。 しかし、王はまだ本気ではない。 彼はただ、盤上の駒を片付けるかのように、淡々と、しかし確実に、敵の存在理由(レゾンデートル)を削り取っていく。
「……く、く……ア……ル……ゼ……ノン……!」
黄金の彫像が、ついにその沈黙を破り、王へと手を伸ばす。 その指先が王に触れようとした瞬間、ゼノンは初めて、薄く、冷酷な笑みを浮かべた。
「……触れるな。……余の時間は、貴公のような塵が触れて良いものではない」
ゼノンの瞳の中で、時計の針が激しく逆回転を始めた。
広場の中央で、ゼノンが剣を鞘に収めた。 「カチリ」という音が都全体に反響した瞬間、空中で蠢いていた「鏡のエテルナ」の全てが、光の粒子となって霧散した。
何も残らない。 ただ、美しい星韻の調べが、再び都に満ちるだけ。
アグニオースが炎を鎮め、ゼロスがぬいぐるみを抱き直し、十二翼たちが安堵の息を吐く。 王の戦いは、ものの数分であった。 だが、その数分の中に、何千、何万という「歴史の書き換え」が行われていたことを、その場にいた者たちは直感していた。
「……ふぅ。やはり、外の空気は茶を冷ますのが早いな」
ゼノンは、何事もなかったかのように、テラスへと戻っていった。 彼の背後では、再び時間の逆転が始まり、戦いで壊れた僅かな傷跡さえもが、完璧に修復されていく。
これが、エテルナの王。 戦いさえも、彼にとっては「法典の修正」という事務作業に過ぎない。
だが、宮殿の奥深くに座るイシュタルだけは、見ていた。 王が鞘に収めた『万劫の針』の穂先が、わずかに黒く変色しているのを。
「……王よ。……貴方は、自らの寿命(とき)を削ってまで、この『偽りの日常』を守り続けるのですか?」
イシュタルの問いに、ゼノンは答えなかった。 彼はただ、新しく淹れられた茶の香りを楽しみ、静かに目を閉じた。
「……日常とは、壊れやすいからこそ美しいのだ。……それを守るのが、王の務めだろう?」
宴は続く。 だが、その黄金の輝きは、崩れゆく法典の果てに灯された、最後の篝火のように揺れていた。
第十一章:【終焉を呼ぶ笛、ゼノビアの真実】