AION REAGALIA(アイオン・レガリア) 作:ネネカ大神
鏡面の騒動が収まり、エテルナに「いつもの朝」が戻った。 アイオン宮殿のテラス。アル・ゼノン・エテルナは、昨日までの激戦を微塵も感じさせない涼しげな顔で、椅子に深く腰掛けていた。 傍らに控えるのは、四星天将の筆頭、蒼穹のイシュタル。彼女はいつものように最高級の茶葉を蒸らし、王の言葉を待っていた。
だが、今日のゼノンは何かが違った。 彼は優雅にティーカップを手に取る代わりに、懐から「平べったい、茶色の袋」を取り出したのである。
「……王よ。……それは、何でしょうか。新しい王権具の予備パーツ……あるいは、異世界の禁忌兵器の一部ですか?」
イシュタルが、その無機質な瞳に困惑の色を浮かべて問う。 ゼノンは無言で袋を破った。中から出てきたのは、薄く、テカテカと光る、長方形の平たい板状の食べ物である。
「……イシュタル。鏡の世界の残骸を整理していた際、奇妙な時空の歪みからこれを見つけた。名は……『わさびのり太郎』というらしい」
「わさび……のり……たろう……。恐ろしく破壊的な響きです。その名に込められた因果律の重みを感じます」
イシュタルが戦慄する。 ゼノンは、一切の表情を変えず、その『わさびのり太郎』をパキリと割り、口に運んだ。 咀嚼する。 絶対王の顎が、一定のリズムで動く。
「…………ッ!!」
突如、ゼノンの眉間がわずかにピクリと動いた。
「……ほう。この刺激。鼻を突き抜けるこの感覚……。余の『時間の停止』さえも貫通して、直接脳に信号を送り込んでくるか。……ただの魚肉のすり身ではないな、これは」
「ゼノン様!? お顔がわずかに青ざめて……! 毒ですか!? 反王同盟の暗殺兵器ですか!」
「……案ずるな。これは……『ツーン』とするだけだ。だが、このツーンこそが、今の余の退屈を埋める唯一の真実かもしれん」
ゼノンは鼻を押さえ、涙目になりそうなのを最強の意志力で抑え込みながら、茶を一口飲んだ。
「……ふぅ。……悪くない。……後で二十四の翼たちにも配ってやれ。特にバラムには、十枚ほどまとめて食わせてやれば、少しは騒がしさが収まるだろう」
「……御意に。……『わさびのり太郎』の配備を急ぎます」
王宮のテラスに漂う、微かな磯の香りとわさびの刺激。 そんなシュールな光景も束の間、エテルナの空が、再び「真実」の色に染まり始めた。
穏やかなティータイム(と駄菓子タイム)を切り裂いたのは、大陸の西、反王同盟の本拠地から放たれた「音」だった。
それは、物理的な鼓膜を震わせる音ではない。 魂の底、そしてこの世界の星韻(せいいん)そのものを共鳴させる、ひどく物悲しく、そして暴力的な笛の音色。
『終焉を呼ぶ笛(Terminus Flute)』。 反王同盟が、自国の国民数万人の星韻を「生贄(燃料)」として捧げることで起動させた、究極の反・時空兵器。その旋律が届く範囲において、すべての因果は強制的に「巻き戻り」を開始する。
「……始まったか。……今度は『音』で余の庭を壊しに来るとはな」
ゼノンが立ち上がると同時に、都の至る所で悲鳴が上がった。
「修復(リストア)」されたばかりの建物が、再び瓦礫へと戻っていく。 それだけではない。道を歩いていた老人が、一瞬にして青年に、そして子供へと若返り、最後には胎児となって消えていく。 時間の逆流。 それは、エテルナが誇る「永遠」という名の静止を、根底から否定する物理法則の反乱であった。
「……全十二翼、直ちに出撃せよ! 笛の音源を特定し、その音波を物理的に断ち切れ!」
イシュタルの号令が響く。 だが、飛翔した午(うま)のアル・ザヒドや卯(うさぎ)のフィオナは、空中で愕然と立ち尽くした。
「……槍が……私のロンギヌスが、鉄の棒に戻っていく……!?」
「空間が、折り畳めない……! 空間そのものが、私が生まれる前の『無』の状態へと退行している……!」
十二翼たちが授かった「刻印具(アーティファクト)」さえも、この笛の音の前では、その歴史を剥ぎ取られ、ただのガラクタへと還されていく。 最強の軍団が、その牙を一本、また一本と抜かれていく絶望。
「……無駄な足掻きだよ、アル・ゼノン」
空の裂け目、黄金の彫像が「栓」をしていたはずの場所に、一人の人影が立っていた。 それは、巨神のような大きさではない。 一人の、優雅な衣装を纏った美しい少年。だが、その瞳には数万年の歳月が、どろりとした黄金の闇となって渦巻いている。
神代の版図・ゼノビアの王――アヌ・ビス。
彼は、手にした黄金の笛を口から離し、ゼノンを見下ろして微笑んだ。
「この笛の音は、僕たちの『故郷』のメロディだ。……お前が作り上げたこのエテルナという偽りの楽園を、本来の『死と腐敗が許された場所』へと戻すための、子守唄だよ」
「……ゼノビアの王か。……ようやく、依り代(うつわ)を見つけたようだな」
ゼノンが空へと昇る。 彼が歩く一歩一歩が、笛の音による「退行」を力ずくで押し留め、空間を今の時間に固定していく。
「……アヌ・ビスと言ったか。……貴公らは、なぜこれほどまでに、この世界の『今』を憎む? ……貴公らの時代は、とっくに終わっているはずだ」
「終わらされたんだよ! お前の先祖たちによってね!」
アヌ・ビスの声が、怒りで大気を震わせる。
「お前は、エテルナがどうやって作られたか知っているかい? ……この都は、かつて世界を満たしていた『神々の命』を、この時計塔に閉じ込め、そのエネルギーを搾り取ることで維持されている『美しい墓場』なんだよ!」
アヌ・ビスが手をかざすと、聖時計塔『クロノス・マギ』の表面が透け、その内部が露わになった。 そこには、数え切れないほどの「黄金の繭」が、時計の歯車に噛み合わされるようにして詰め込まれていた。 一つひとつの繭の中には、かつて世界を統治していた神々や、古代の英雄たちの魂が、意識を奪われたまま、永久に「魔力の電池」として利用され続けている姿があった。
「……エテルナの国民が、病も死も知らずに笑っていられるのは、地下で何万という神々が、死ぬことさえ許されずに絶叫し続けているからだ。……アル・ゼノン。お前が守っている『日常』は、その絶叫の上に塗り固められた、薄っぺらな嘘なんだよ!」
都の住民たちが、その真実を聴き、愕然と膝を突く。 自分たちが享受してきた幸福が、他者の無限の苦痛によって成り立っていたという事実。 十二翼たちもまた、自らの力が、その「囚われた神々」から搾取されたエネルギーの一部であることを知り、その手に持つ武器の重さに戦慄した。
「……そうか。……やはり、貴公らはそれを言いに来たか」
だが、ゼノンは、驚かなかった。 彼はただ、悲しげに、そして慈しむような目でアヌ・ビスを見つめた。
「……知っていたのですか、王よ……?」
通信越しに、子のゼフェルが、震える声で問う。
「……余が、この国の法典(コード)を管理しているのだぞ。……知らないはずがなかろう」
ゼノンは自らの胸に手を当てた。
「……この宮殿の地下に埋まっているのは、貴公らの同胞だけではない。……余の先祖、歴代の王たちの魂もまた、その歯車の一部となり、この国を支え続けている」
「……狂っているな」
アヌ・ビスが、軽蔑の眼差しを向ける。
「自らをも電池にするとは。……そこまでして、この偽りの時間を止める価値があるのか?」
「……価値などない」
ゼノンの言葉に、全員が息を呑んだ。
「……価値など、最初からない。……だが、余には見えるのだ。……この法典を解けば、世界は一瞬で神話の炎に焼かれ、今ここで笑っている民も、咲いている花も、すべてが塵に還る。……貴公らは『再生』と呼ぶが、それはただの『滅亡』だ」
ゼノンが王権具『万劫の針』を抜いた。 その剣身が、初めて「赤黒い光」を放つ。 それは、彼自身の寿命を削り、地下に眠る神々の「痛み」を肩代わりすることで引き出す、禁忌の出力。
「……アヌ・ビスよ。……貴公らの怒りは、正当だ。……だが、余の退屈な茶の時間を邪魔した罪は、それよりも重い」
ゼノンが剣を振るう。 笛の音色が、物理的な衝撃波となって剣筋を押し戻そうとするが、ゼノンはその音波さえも「歴史」として切り裂いていく。
「十二翼よ。……そして、四天王たちよ。……真実を知った上で、なお問う。……貴公らは、この『偽りの日常』を、余と共に背負う覚悟はあるか?」
沈黙。 だが、それはわずか一秒にも満たなかった。
「……ハッ! 墓場だろうが楽園だろうが、王がいりゃあそこが俺の居場所だ!」
バラム(辰)が、退行して錆びついた槍を、自らの血で無理やり再起動させ、吼えた。
「……神々の痛みなど、我らが王の孤独に比べれば、些細なものです」
アル・ザヒド(午)が、折れかけた槍を構え直し、光の速度を取り戻す。
「……ボク、どうせ空っぽだし。……王様と一緒に、この世界を『無』にしちゃうのも、悪くないよ」
ゼロス(虚無)が、虚空を見つめて微笑む。
二十八人の精鋭たちが、再び立ち上がった。 真実を知り、なおもその「罪」ごと王に殉ずるという、狂気にも似た忠誠心。 それこそが、エテルナを支える真の柱であった。
「……よい。……ならば、この笛の音ごと、神話の未練を裁断しよう」
ゼノンが、剣を頭上へ掲げた。
「神理昇華・最終節――【第十三時の法典(アポカリプス・コード)】」
エテルナの時計塔が、本来存在しないはずの「十三回目」の鐘を鳴らした。 その音は、笛の不協和音を完全に上書きし、都の時間を「今」という一点に強制固定した。 逆流していた因果が止まり、若返っていた人々が元の姿に戻り、壊れていた建物が再び組み上がる。
「……何……!? 僕の笛が、書き換えられた……!?」
アヌ・ビスが驚愕する中、ゼノンは既に彼の眼前へと到達していた。
「……わさびのり太郎の刺激は、もう消えた。……次の一撃は、それよりも鋭く、痛いぞ」
ゼノンの剣が、アヌ・ビスの黄金の笛を、そして彼が背負っていた「神代の記憶」の残滓を、一刀のもとに両断した。
爆発。 黄金の光が都を包み、アヌ・ビスの姿は霧散した。 だが、彼は消える間際、確かにこう囁いた。
「……勝ったつもりかい、アル・ゼノン。……僕たちは、ただの『鍵』に過ぎない。……時計の針が十三時を打った時……本当の『神』が、外側から扉を開けるんだ」
光が収まると、そこには平穏な空が戻っていた。 だが、聖時計塔の文字盤には、本来なかったはずの「13」の数字が、刻印として深く刻み込まれていた。
「……終わったのか? ゼノン様」
イシュタルが駆け寄る。
ゼノンは無言で、自分の右手の震えを隠すようにマントを翻した。 彼の肌は、先ほどの禁忌の力により、わずかに石のように硬化し始めていた。
「……いや、序奏が終わったに過ぎん。……イシュタル。……わさびのり太郎の予備は、まだあるか?」
「……ええ。バラムたちに配る分が、まだ数袋ほど」
「……よせ。彼らにはもっと良いものを食わせてやれ。……これは、余がすべて没収する。……鼻を突く痛みは、一国の罪を背負う王には、ちょうど良い警醒になる」
ゼノンは再び、テラスの椅子に座った。 夕闇が都を包み込む。 真実を知った国民たちの間には、戸惑いと、それでも変わらぬ王への依存が混ざり合っていた。
エテルナ。美しき楽園にして、神々の墓場。 その時計の針は、もはや誰にも止められない終焉へと向かって、刻一刻と、残酷なまでの正確さで進み始めていた。
第十二章:【十三時の審判、天から降り注ぐ瞳】