AION REAGALIA(アイオン・レガリア) 作:ネネカ大神
第一層の「始まりの静止画」を突破した二十八人の魂は、さらに深い意識の底へと沈降していった。 階層を隔てる境界線を越えた瞬間、それまでの冷たくモノクロームな景色は一変した。
視界を埋め尽くしたのは、地平線まで続く黄金色の麦畑。 頭上には、エテルナの調整された空よりも遥かに高く、どこまでも透明な青空が広がっている。風は微かに土の香りを運び、どこか遠くで羊の鈴の音が鳴り響いていた。
「……何、ここ。……エテルナのどこにも、こんな場所ないわよ」
卯(うさぎ)の翼将、フィオナ・エインズが、呆然と呟きながら足元の土を蹴った。土の感触、草の擦れる音。すべてが現実以上に「本物」として迫ってくる。
「……王の記憶、第二層から第五層までの混合領域です」
蒼穹のイシュタルが、伏せ目がちに告げる。彼女の瞳には、他の翼たちにはない深い憂いがあった。
「……ここは、アル・ゼノン様が王権を継承するよりも前。ただの『ゼノン』という名の少年だった頃の……彼が最も愛し、そして最も呪った故郷の風景です」
彼らが歩き出すと、麦畑の向こうから小さな人影が駆けてきた。 麦わら帽子を被り、汚れを知らぬ瞳をした十歳ほどの少年。 手には、王権具『万劫の針』ではない、ただの「木の棒」を握っている。
「――見て! エリン! 今日の素振りは百回できたよ!」
少年が振り返り、見えない誰かに向かって満面の笑みを浮かべる。 その笑顔を見た瞬間、二十八人の翼たちの間に、凍りつくような沈黙が流れた。 冷酷で、超越的で、常に孤独を纏っていたあの絶対王が、これほどまでに無防備な、陽だまりのような笑みを浮かべることがあるなど。
「……嘘だろ。……あんなの、俺たちの王様じゃねぇよ」
寅(とら)のラージャンが、震える声で吐き捨てた。それは拒絶ではなく、あまりに純粋なものを見てしまった際の、本能的な恐怖だった。
彼らが少年の後を追うように進むにつれ、麦畑の風景は次第に色褪せ、空には不吉な夕闇が迫り始めた。 第二層「郷愁の揺り籠」は、いつの間にか第三層「侵食される日常」へと変質していく。
村が現れた。質素だが温かな石造りの家々。 だが、その家々の窓からは、黒い影が泥のように溢れ出していた。 少年ゼノンが駆け寄った家――そこには、一人の少女が倒れていた。
「エリン! 嫌だ、起きてよエリン!」
少年の絶叫が、空間そのものを震わせる。 少女エリン。彼女こそが、ゼノンがかつて守りたかった唯一の存在であり、そして「王」になるために切り捨てねばならなかった最初の代償であった。
「……ここから先は、見たくないものばかりになります」
未(ひつじ)のネルガル・アリエスが、銀の糸を操り、仲間たちの精神を保護する結界を張る。
「……王は、この少女を救うために神と契約した。……ですが、神が求めた代償は、彼女の命と、ゼノン様自身の『心』だったのです」
第四層「凍てつく選択」。 風景は急激に凍りつき、夕闇は血のような赤に染まった。 少年の手にある「木の棒」が、不気味な黄金の輝きを放ち始める。 王権具『万劫の針』。その誕生の瞬間。 少年が、冷たくなった少女の胸にその針を突き立て、彼女の時間を「保存(停止)」した瞬間。
「……あぁ、なんてことだ。……王は、最初から『停止』という呪いを背負っていたのか」
午(うま)のアル・ザヒドが、自らの槍を握りしめ、膝を突きそうになる。 彼らが誇りとしてきたエテルナの平穏は、この時の少年の「誰も死なせたくない」という、あまりに切実で、あまりに身勝手な絶望から生まれたものだったのだ。
そして、一行は第五層「罪の門」へと到達した。 そこは、燃え盛る村の残骸が空中に浮遊し、時間が粉々に砕け散ったカオスな空間。 最奥にそびえ立つ門の前には、一体の「守護者」が立ちはだかっていた。
それは、美しい白いドレスを纏った、少女エリンの姿。 だが、その顔には目も鼻もなく、代わりに巨大な「時計の文字盤」が埋め込まれている。背中からは黄金の鎖が幾重にも伸び、彼女の肉体を空中に吊り下げていた。
「――『これ以上は、来ないで』」
少女の声が、直接二十八人の脳内へと響く。 それは記憶の残滓が生み出した幻影ではない。ゼノンの深層意識が、自分自身の「最も柔らかい部分」を守るために作り出した、最強の防衛本能。
「――『ゼノンは、ここでずっと眠っているの。もう、誰も傷つかなくていいように。誰も消えなくていいように』」
「……どけ、お嬢ちゃん」
バラム(辰)が、龍槍を低く構えた。
「……あんたが王様の何を覚えているか知らねぇが。……俺たちは、今の、あの偏屈で偉そうな王様が必要なんだよ。……あんたの中の思い出を壊してでも、俺たちはあいつを連れて帰る」
「――『なら……あなたたちも、止めてあげる』」
少女の背後から、無数の黄金の針が放たれた。 それはアル・ゼノンが放つものと同じ、回避不能、防御不能の「因果の矢」。
「――全翼、防御陣形! 物理的な盾ではなく、精神の『絆』を重ねろ!」
金剛のバシュタールが、ひび割れた盾を前に突き出す。
「ギガス! パンサ! 重力で空間の座標を歪ませろ! 針の軌道を『過去』へ逸らすんだ!」
亥(い)のギガスと副将パンサが、咆哮と共に重力波を全方位に展開する。 空間が歪み、降り注ぐ黄金の針が、着弾直前で別の方向へと曲げられていく。
「――『無駄よ。私の時間は、決して終わらない』」
少女(エリンの影)が手をかざすと、砕け散った村の瓦礫が、巨大な刃となってラージャンたちを襲う。
「――【夢幻の銀糸・夢の牢獄】!!」
未のネルガルが、銀の糸を空間に張り巡らせ、瓦礫の「意味」を消失させる。
「……シリウス! 今よ!」
「……了解だ。……この温かな地獄を、氷の現実(いま)で塗りつぶしてやる」
戌(いぬ)のシリウスが、砕け散った魔狼牙の破片を、自らの血で凍らせ、巨大な氷の牙へと再構成した。
「刻印具・極致解放――【絶対零度の断罪(コキュートス・ジャッジメント)】!!」
シリウスの放った冷気が、第五層の炎を、そして少女の記憶を、一瞬にして白銀の世界へと変えた。 少女の動きが止まる。 だが、それは勝利を意味しなかった。 凍りついた少女の瞳の奥から、今度は真っ黒な「泥」が溢れ出したのである。
「……あれは、ゼノビアの影!? ……王の心の中にまで、あいつらが侵食しているというのか!」
イシュタルが悲鳴に近い声を上げる。
王が石化したことで、彼の精神世界は外部からの侵食に対して無防備になっていた。 アヌ・ビスたちが送り込んだ「影」が、王のトラウマである少女エリンの記憶に取り付き、それを「王を永遠に眠らせるための檻」へと作り変えていたのだ。
「――『ゼノンは……私のもの。……離さない……離さない……!』」
影に呑み込まれた少女が、巨大な化け物へと変貌していく。 美しかったドレスは黒く染まり、時計の文字盤からは血のような黄金の液体が流れ出す。 二十八人の翼たちは、その圧倒的な怨念の前に、じりじりと後退を余儀なくされた。
「……クソ、精神世界(ここ)じゃ、俺たちの技が半分も通用しねぇ!」
ラージャンが吐血しながら毒づく。 彼らの魂は、この世界に留まるだけで摩耗し、透明度が低くなっている。
その時。
「……ボクが、やるよ」
虚無のゼロスが、よろよろと前へ出た。 彼は第一層での消耗で、全身が今にも消えそうなほど透き通っていた。
「……ゼロス、無茶よ! その状態で『神理昇華』なんてしたら、貴方の存在が――」
フィオナの叫びを、ゼロスは静かに片手で遮った。
「……いいんだ。……ボクは、王様の『虚無』から生まれた。……だから、王様がこの女の子に抱いている『申し訳ない』っていう気持ちが……痛いくらい分かるんだ」
ゼロスが、化け物となった少女の懐へと、無防備に飛び込んだ。 影の触手が彼の体を貫くが、ゼロスはそれを無視して、少女の「時計の文字盤」にそっと触れた。
「……ねぇ。……君は、ゼノンに謝ってほしかったの? ……それとも、一緒に死んでほしかったの?」
化け物の動きが、止まった。
「……ボクの知ってる王様はね。……君を忘れないために、世界を止めたんだよ。……君に謝るために、何千年も一人で生きてきたんだよ。……だから……もう、彼を許してあげて」
ゼロスの体から、眩いほどの「白」が溢れ出した。 それは消去の力ではなく、すべてを許し、無へと還す慈愛の虚無。
少女を覆っていた黒い影が、浄化されるように消えていく。 化け物は再び、小さな、弱々しい少女の姿へと戻り、ゼロスの腕の中で静かに崩れ落ちた。
「――『……ありがとう。……ゼノンを……よろしくね』」
少女が光の粒子となって消えた瞬間、目の前の巨大な門が、ゆっくりと、しかし重厚な音を立てて開かれた。
第五層を突破した。 だが、彼らが支払った代償はあまりに大きかった。 ゼロスは力尽き、イシュタルの腕の中で深い眠りに落ちた。他の翼たちも、魂の半分を削られたような疲弊感を隠しきれない。
門の向こう側に見えるのは、これまでの「思い出」とは一線を画す、無機質で冷酷な「法典(コード)」が支配する、第六層以降の世界。
「……まだ、五層。……あと、十七層もあるのか」 アル・ザヒドが、震える手で槍を支え、立ち上がる。
彼らは知った。 自分たちが神と仰いでいた男が、実は誰よりも弱く、誰よりも優しく、そして誰よりも「人間」であったことを。 その事実は、彼らの忠誠心を揺るがすものではなかった。 むしろ、その脆い人間を、死んでも守り抜くという、狂気じみた決意をより強固なものにした。
「……行きましょう。……王が待っています。……自分を責め続ける、あの孤独な部屋で」
イシュタルを先頭に、二十八人の魂は再び歩き出す。 エテルナの時計は、依然として止まったまま。 だが、彼らの心臓の鼓動だけが、死に絶えた精神世界の中で、王を呼び戻すための唯一のメロディを奏で続けていた。
第十六章:【法典の監獄、数式に殺される感情】