AION REAGALIA(アイオン・レガリア)   作:ネネカ大神

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第十六章:【法典の監獄、数式に殺される感情】

第五層「罪の門」を越え、少年時代の王が抱えた「愛する者を守れなかった絶望」という名の熱を背後に残した二十八人の魂は、さらなる深淵へと沈降した。だが、そこで彼らを待っていたのは、安らぎでもなければ、新たな悲劇でもなかった。

 

「……息が、詰まるわ。空気が……情報の重みで固まっているみたい」

 

卯(うさぎ)の翼将、フィオナ・エインズが、喉を抑えて膝を突いた。そこは、第六層『無機質な情報の深淵』。視界のすべては、空中に浮遊する半透明の巨大な立方体と、その表面を高速で流れる黄金の数式によって埋め尽くされていた。地面も空もなく、ただグリッド状に区切られた空間が無限に続いている。風は吹かず、音もない。ただ、脳の奥深くに「カチ、カチ」という、数億の歯車が噛み合うような冷徹なクロック音が鳴り響いている。かつて少年だったアル・ゼノンが、最愛の少女エリンを「停止」という名の死へ追いやった後、自らの心を一つの巨大な演算機へと作り変えた時期の記憶。それがこの階層の正体であった。

 

「……王の『理性領域』。第六層から第十層までの、感情が禁じられた監獄です」

 

蒼穹のイシュタルが、青ざめた唇を噛み締めながら、前方を指し示した。

 

「……ゼノン様は、悲しみに耐えきれず、自らの心を『数式』で埋め尽くしました。……ここにあるのは、効率、保存、そして最適化という名の『絶対的な正論』だけです」

 

一行が歩き出すと、周囲の空間から無機質な声が響いた。それは、現在の王の声よりもさらに低く、抑揚のない、青年時代のゼノンの声であった。

 

「――『警告。精神の波長に異常を検知。……不純物の侵入を確認した。……貴公らの存在は、エテルナの保存において非効率である。……直ちに、存在意義を証明せよ。証明不能な場合は、システムからの消去(デリート)を実行する』」

 

第七層『定義の剥奪』。彼らがこの階層に足を踏み入れた瞬間、異変は起きた。

 

「う、うわああああッ!? 俺の腕が……消えていく!?」

 

寅(とら)の翼将、ラージャン・シンが絶叫した。見れば、彼の右腕がドット状に分解され、黄金の数式へと変換され始めている。

 

「……ラージャン、動かないで! 空間の法典が、あなたの存在を『不要なノイズ』と定義して書き換えようとしているわ!」

 

副将シュラ・ベスタが、必死に魔導符を展開してノイズを相殺しようとする。だが、彼女の魔導符さえも、数式に触れた瞬間に「紙の燃焼」という物理現象を奪われ、ただの無機質なデータへと還元されていく。ここでは、彼らがこれまで培ってきた「誇り」や「力」は、単なる数値として扱われる。剣は「鋭利な金属(硬度10)」ではなく、「$f(x) = 0$」という解に書き換えられ、熱い闘志は「体温の無駄な上昇」として冷却される。

 

第八層『因果の連立方程式』。ここでは、彼らの「意志」そのものが計算式に組み込まれた。「王を救いたい」という情熱を、空間が計算し尽くす。

 

「――『算出結果。王を救うために二十八名の精鋭を消費することは、帝国の防衛戦力の93%を喪失させる。……結論。貴公らの行動は自己満足であり、大義に背くものである』」

 

脳内に直接流し込まれる「正論」の嵐。十二翼たちの何名かが、その言葉の重みに耐えきれず、涙を流しながら崩れ落ちた。自分たちの命を懸けた旅が、王の理性によって「無意味な浪費」と断じられる。これほどまでに残酷な拒絶があるだろうか。

 

第九層『最適化された終焉』。彼らの前に、一体の守護者が立ちはだかった。それは、青年時代のゼノンそのものの姿をした、透明な結晶体。守護者:論理の執行者(ロジカル・エグゼキューター)。

 

「――『私が、貴公らの無駄な時間を終わらせる』」

 

執行者が指を鳴らす。瞬間、空間全体に巨大な「死の数式」が展開された。それは物理的な攻撃ではない。

「存在確率の操作」。彼らがそこに立っている確率を、一秒ごとに半分に削っていく加速装置。

 

「……はぁ……はぁ……。……身体が……透けていく……」

 

副将たちの何名かが、存在を維持できずに霧散しそうになる。王の理性は、容赦がなかった。自分を救いに来た部下たちに対しても、それが「合理的でない」と判断すれば、一瞬の躊躇もなく消去しようとする。

 

「……アル・ザヒド! フィオナ! 合わせろ!!」

 

シリウス(戌)が、砕けた指から星韻を絞り出し、空間を凍結させようとする。アル・ザヒドが槍を突き出し、フィオナが空間を歪ませ、同時に一点を突く。十二翼たちが誇る、完璧な連携。だが、執行者は微動だにしない。

 

「――『無駄だ。貴公らの心拍数、筋肉の収縮、星韻の揺らぎ……すべては既知のデータである。……回避率:100%』」

 

執行者が剣を振るう。それは、回避不可能な「正解の軌道」。アル・ザヒドの肩が裂け、フィオナの腹部から黄金の血が噴き出した。血さえもが空中で数式へと変わり、床を汚すこともなく消えていく。理の前では、情熱も絆も、ただの演算ミスの端数として処理されるだけだった。

 

第十層『不変の拒絶』。執行者の無慈悲な追撃が、満身創痍の二十八人に降り注ぐ。イシュタルは石化した王の髪を抱きしめ、祈るように目を閉じていた。

 

「……ゼノン様……。……貴方は、ここまで……一人で耐えていたのですか。……この冷たく、乾いた理屈の中に、自らを閉じ込めて……」

 

執行者が、最後の一撃――存在そのものを根絶する「零(ゼロ)の宣告」を振り下ろそうとした、その時。

 

「――やかましいんだよ。……さっきから聞いてりゃあ、四の五のと」

 

ドォォォォォォォン!!

 

執行者の「完璧な一撃」を、正面から、片手で受け止めた男がいた。四星天将、金剛のバシュタール。彼の黄金の盾『ヴァジュラ・イージス』は、数式に侵食され、あちこちが数式に変換されて透けている。だが、彼の肉体そのものが、どんな計算式も受け付けない圧倒的な「質量」となって、そこに存在していた。

 

「――『バシュタール。貴公の忠誠心は、統計学的に見て異常値である。……王の復活を望むより、ここで消去を受け入れる方が、帝国の再建コストを――』」

 

「――コストだぁ? 統計だぁ?」

 

バシュタールが、執行者の首を、石のような剛腕で掴み上げた。

 

「……俺はよ。……そんな小難しいもんは、一つも分からねぇんだよ」

 

バシュタールの全身から、黄金の星韻が炎のように噴き出す。それは理屈ではない。ただの「意志」。

 

「……王様が『正しい』からついていってるんじゃねぇ。……王様が『強い』からついていってるんじゃねぇ。……あんたが、アル・ゼノンっていう、めんどくさくて、寂しがり屋で、誰よりも不器用な男だから、俺たちはここにいるんだよ!!」

 

バシュタールの拳が、執行者の顔面に叩き込まれた。執行者の計算が狂う。

 

「――『エラー。エラー。……算出不能なエネルギーを検知。……論理崩壊。……貴公は、なぜ消えない……?』」

 

「……消えない理由は、数式になんて書いてねぇよ! ……それは、『愛』っていうんだよ、大馬鹿野郎!!」

 

バシュタールが、盾を捨て、両手で執行者の胴体を真っ二つに引き裂いた。数式の世界が、悲鳴を上げて砕け散る。幾何学的な立方体が瓦礫となって降り注ぎ、黄金の数式が火花を散らして消えていく。第十層を支配していた冷徹な理性が、バシュタールの「不条理な忠誠」の前に、ついに崩壊したのである。

 

門が開いた。だが、その先に待っていたのは、出口ではなかった。崩壊した理性の瓦礫の向こう側。そこには、今までとは打って変わって、深い、深い、底の見えない「闇」が広がっていた。

 

第十一層『深淵の淵』。「理性」という名の監獄を壊したことで、その奥に封じられていた、王の「真の恐怖」が漏れ出し始めたのである。

 

「……バシュタール様。……ありがとうございます」

 

イシュタルが、力なく立ち上がる。バシュタールは、自分の右腕が数式に変換されて消えかかっているのを見つめながら、不敵に笑った。

 

「……気にするな。……腕の一本や二本、王様のツラを拝めるなら安いもんだ。……それより見ろよ、あそこを」

 

バシュタールが指し示す場所。崩壊した執行者の残骸の奥に、一節の「数式」だけが、消えずに残っていた。

 

                    Loyalty×Love = ∞

 

 

                   Zenon - Emotions = Error

 

それは、王がかつて理性で消し去ろうとして、どうしても消せなかった、唯一の「自分自身への答え」であった。

 

「……行きましょう。……第十一層へ。……そこには、王が王になるために殺した、『自分自身』が待っているはずです」

 

イシュタルの先導で、彼らは闇の中へと沈んでいく。エテルナの時計は、依然として動かない。だが、第十層の瓦礫の中で、二十八人の星は、これまでよりもずっと強く、確かな輝きを放っていた。




第十七章:【断罪の鏡、自分自身を殺した日】
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