AION REAGALIA(アイオン・レガリア) 作:ネネカ大神
第十層の数式の監獄が、バシュタールの不条理な一撃によって砕け散った後、二十八人の魂が辿り着いたのは、音も光も吸い込まれるような「漆黒の回廊」であった。
第十一層『鏡像の奈落』。 そこには足場も壁も存在しない。ただ、無限に広がる闇の中に、数え切れないほどの「鏡の破片」が漂っている。破片一つひとつには、アル・ゼノンがこれまでの人生で下してきた「冷酷な決断」の瞬間が、呪いのように映し出されていた。
「……見てられないわ。……これが、私たちの王が歩んできた道なの?」
卯(うさぎ)の翼将、フィオナ・エインズが、漂う鏡の一片を覗き込み、顔を背けた。 そこには、反乱を企てた一族を、幼子一人残さず「時間の停止」によって塵へと変える青年ゼノンの姿があった。彼の瞳には怒りも悲しみもなく、ただ「帝国の安定」という目的だけが宿っている。
「……美しくない。……けれど、あまりにも正しい」
蒼穹のイシュタルが、沈痛な面持ちで先頭を歩む。彼女の周囲だけは、青い星韻が微かに輝き、闇を払っている。
「……ゼノン様は、王権を継承したその日から、自らを『正義』という名の怪物に変えたのです。……ここにあるのは、彼が捨て去った『後悔』の集積。……触れれば、私たちの精神もその罪悪感に飲み込まれます」
一行が階層を降りるにつれ、鏡の数は増し、映し出される光景はより残酷なものへと変わっていった。第十二層、第十三層……。そこは王が国を守るために、どれほどの血と涙を「効率」の名の下に処理してきたかを示す、魂の断頭台であった。
第十四層『静寂の戴冠』。 闇が晴れ、突如として現れたのは、現在のアイオン宮殿とは似て非なる、冷たく尖った黒石の玉座の間であった。 そこでは、若き日のゼノンが、無数の貴族や民衆の死体の上に立ち、黄金の冠を頭に戴こうとしていた。
「――『これより、エテルナに情愛は不要である。……王が法であり、法が王である』」
玉座に座る青年ゼノンの幻影が、冷徹な声を響かせる。
「――『不純な感情を持つ者、過去を懐かしむ者は、未来の足枷である。……すべて、余がこの手で葬り去ろう』」
幻影が剣を振るうと、空間に浮遊していた「鏡の破片」が牙を剥き、二十八人の精鋭たちへと降り注いだ。
「……ぐわあああッ!! 心の中に……誰かの絶望が流れ込んでくる!!」
寅(とら)のラージャンが、頭を抱えて叫んだ。 鏡の破片は肉体を傷つけるのではない。王が切り捨てた犠牲者たちの「恨み」と、王が抱えた「自責」を、直接魂へと叩き込んでくるのだ。
「……王様……。……そんなに一人で、抱え込まないでよ……」
カイルの背中で目を覚ました虚無のゼロスが、力なく手を伸ばす。だが、その虚無の力さえも、この膨大な「負の記憶」の前では、海に投げられた小石のように飲み込まれていく。
そして、一行は第十五層、精神世界の折り返し地点となる『断罪の境界』へと到達した。 そこには、一つの巨大な「円形の鏡」が、門のように立ちはだかっていた。
鏡の中からゆっくりと這い出してきたのは、二十八人が最もよく知る、しかし決定的に異なる「存在」であった。
守護者:黄金の絶対王(プライム・ゼノン)。
それは、石化する直前の、全盛期の力を宿したアル・ゼノンの記憶体。 手には王権具『万劫の針』を携え、その背後には時計塔の巨大な文字盤が後光のように浮かんでいる。
「――『これ以上、進むことは許されない。……この奥にあるのは、余が殺した「人間」の残骸である。……余という神に、その汚らわしい感情を触れさせるわけにはいかない』」
絶対王の幻影が剣を突き出す。 「――【万劫なる法典・因果の断罪】!!」
一閃。 空間のすべてが「静止」し、次の瞬間には、二十八人全員の肉体が、目に見えない無数の針によって貫かれていた。
「……かはっ……。……速い。……王の技そのものだ……」
午(うま)のアル・ザヒドが、自らの槍を杖にして血を吐く。 これまでの守護者たちとは次元が違う。これは王が「自分を守る」ために作り出した、最強の拒絶。 王が誰にも見せたくなかった「弱さ(人間性)」を守るために、自らの「強さ(神性)」を番人として置いているのだ。
「……どけよ。……偽物が、本物の王様を隠してんじゃねぇ!!」
バラム(辰)が、砕け散った防具をかなぐり捨て、特攻を仕掛ける。
「ナバール! 全星韻を俺に回せ! 魂ごとぶつかってやらぁ!!」
バラムの命を賭した一撃。だが、絶対王の幻影は、指先一つでバラムを空間の彼方へと弾き飛ばした。
「――『無駄だ。……情動に突き動かされた一撃など、法の前ではゴミに等しい』」
絶望が、冷たい霧のように場を支配していく。 二十八人の星韻は底を突き、もはや歩ける者さえ数えるほどしかいない。 絶対王の幻影が、とどめの一撃を放とうと剣を掲げた、その時。
「……ゼノン様。……いいえ、ゼノン。……貴方は、本当に強い人ですね」
蒼穹のイシュタルが、一人、静かに前へと歩み出た。 彼女の背中からは、これまでの戦闘で負った傷から、黄金の星韻が霧のように漏れ出している。だが、彼女の瞳は、これまでにないほど澄み渡っていた。
「……イシュタル様!? いけません、その構えは……!」
副将の幾人かが叫ぶ。彼女が取った構えは、エテルナの建国以前、神々の時代から伝わる禁忌の術式。
「……私は、貴方の『理性』として作られた四天王です。……貴方が、自分自身さえも信じられなくなった時のために……私がいるのです」
イシュタルの全身が、青い炎のような光に包まれた。 彼女の肉体が、足元から透き通り、情報の粒子へと変換されていく。
「神理昇華・最終禁忌――【青穹の身代わり(アズール・スケープゴート)】」
イシュタルが絶対王の幻影に向かって、抱きしめるように手を広げた。 幻影が放った「存在消去」の一撃。だが、その一撃はイシュタルの体に触れた瞬間、すべて彼女の内側へと吸い込まれていった。
「――『……何を、している。……私の罪を、飲み込もうというのか?』」
幻影の声に、初めて動揺が混じる。
「……罪ではありません。……それは、貴方が人間であった証です。……貴方が捨てたかったその『痛み』、すべて私が引き受けます。……だから、ゼノン。……もう、自分を責めるのはお止めなさい」
イシュタルの体を通じて、王の十五層分の「絶望」が、激流となって彼女の魂を削り取っていく。 彼女の美しい顔に亀裂が走り、青い髪が白く褪せていく。
「……あ……ああああああああ!!」
イシュタルの叫び。それは苦痛によるものではない。 彼女の中に流れ込んできた、王の「孤独」があまりに深く、あまりに愛おしかったからこその、魂の咆吼であった。
「――『……イシュタル。……お前まで、消えるというのか……?』」
幻影の姿が、揺らぎ、崩れ始める。 絶対的な「神」としての輪郭が崩れ、中から泣き出しそうな、ボロボロになった一人の「男」の姿が覗き見えた。
ドォォォォォォォン!!
第十五層を覆っていた巨大な鏡が、内側から爆発するように粉々に砕け散った。 絶対王の幻影は消失し、そこにはただ、青い粒子となって消えかかっているイシュタルと、彼女を支えようと駆け寄る仲間たちの姿があった。
門が開いた。 第十五層の突破。これで、二十二層ある精神世界の半分以上を、彼らは越えた。
「……イシュタル様!! 意識をしっかり持ってください!!」
フィオナが、泣きながら彼女を抱きとめる。 イシュタルの半身は、もはやこの世界の風景と同化し、触れることさえ難しいほど希薄になっていた。
「……ふふ。……大丈夫ですよ。……王の『最悪の記憶』は、私が持っていきました。……これより先は、もっと温かな……あるいは、もっと残酷な……『今の王』の深層が待っています」
イシュタルは、震える手でフィオナの頬を撫でた。
「……私は、ここで少し……休みます。……先に行ってください。……王を……あの孤独な玉座から、連れ戻して……」
イシュタルは、深い眠りに落ちた。 消滅は免れたものの、彼女の魂は王の罪を肩代わりしたことで重く沈み、第十六層以降へ進む力は残されていなかった。
残された二十七名の精鋭たち。 最強の盾(バシュタール)は腕を失いかけ、最強の理性(イシュタル)は意識を失った。 だが、彼らの瞳に宿る炎は、もはや消えることはなかった。
「……行くぞ。……あのお方の重荷は、半分、イシュタル様が持ってくれた」
シリウス(戌)が、重い口を開いた。
「……残りの半分は、俺たちが持つ番だ。……王の心臓まで、あと七層」
彼らは、眠るイシュタルを安全な座標へと安置し、再び歩み出した。 第十六層『慈愛の残照』。 そこには、イシュタルが守り抜いたことで初めて開かれた、王の「心の柔らかい場所」への道が続いていた。
エテルナの時計は、依然として止まったまま。 だが、十五層の闇を抜けた彼らの頭上には、初めて、王の深層意識が放つ「朝焼け」のような光が差し始めていた。
第十八章:【慈愛の残照、そして訪れる虚無の底】