AION REAGALIA(アイオン・レガリア) 作:ネネカ大神
第十五層にて、四星天将・蒼穹のイシュタルが王の「罪」のすべてをその身に引き受け、青い光の粒子となって深い眠りに落ちた。残された二十七人の精鋭たちは、彼女が命を削って開いた道――第十六層へと足を踏み入れた。
そこは、これまでの「数式」や「断罪」が支配していた無機質な地獄とは、あまりにかけ離れた場所であった。
「……ここ、は……。王宮の中庭?」
卯(うさぎ)の翼将、フィオナ・エインズが、震える声で呟いた。視界に広がるのは、永遠に続くかのような、美しくもどこか物悲しい夕焼けに染まった「空の庭園」である。石畳には柔らかな陽光が跳ね、空気にはアル・ゼノンが好んで淹れさせていた「エテルナ・アッサム」の茶葉の香りが、微かに、けれど確かな温もりを持って漂っている。
「……王の『現在の記憶』、第十六層から第十九層までの混合領域です。……ここにあるのは、王が王となって以降、私たちと共に過ごした時間の断片。……王が、あの冷たい玉座の上で、唯一『愛した』記憶そのものです」
午(うま)の翼将、アル・ザヒドが、自らの重槍を杖にして立ち上がる。彼の瞳には、かつてないほどの色濃い郷愁が宿っていた。
彼らが歩き出すと、空間の至る所に「記憶の泡」が浮かび上がった。それは、彼らが一人ずつ王に拾われ、名前を授けられた瞬間の情景であった。
ある泡の中には、異国の戦場で致命傷を負い、泥の中で自らの死を待っていた無名の槍兵――後のアル・ザヒドの姿があった。若き日のゼノンは、彼を見下ろし、感情を押し殺した声でこう告げた。
『……死なせるには惜しい。貴公の「速さ」、余の「時間」の一部として差し出せ。……名は、アル・ザヒド。今日より貴公は、余の疾風となれ』
別の泡には、孤児院で空間を歪ませる暴走を起こし、周囲から「化け物」と忌み嫌われていた幼い少女――フィオナがいた。ゼノンはその小さな、震える手を握り、冷淡に、しかし確かに力強く囁いた。
『……世界が貴公を拒むなら、余が新しい世界を定義しよう。……フィオナ。貴公の居場所は、余の傍らだ』
「……王様、こんなこと……ずっと、ずっと覚えていてくれたんだな」
寅(とら)のラージャンが、荒々しい戦士の顔を崩し、鼻をすする。そこには、自分たちが「最強の道具」としてではなく、一人の「人間」として王に必要とされていたという、不器用で、誰にも明かされることのなかった王の「愛」の正体が溢れていた。
しかし、その穏やかな「残照」の時間は長くは続かなかった。
第十七層へと差し掛かった瞬間、空に浮かぶ黄金の太陽がドロりと黒く溶け出し、庭園の美しい花々が肉を食らう牙へと変貌していく。ゼノビアの邪神たちが放つ精神汚染が、王の最も柔らかく、最も大切な聖域を「悪夢」へと書き換え始めたのである。
「――『所詮、貴公らは余の退屈を埋めるための、精巧な人形に過ぎん』」
中庭の中央、いつも彼らが王と茶を共にしたティーテーブルに、王の幻影が座っていた。だがその瞳は濁った黄金色に染まり、かつての慈愛は一片も残っていない。
「――『イシュタルを殺し、私を石へと追い遣ったのは、貴公らの無能ゆえだ。……消えろ。余の記憶の中から、一匹残らずな。……余には、最初から誰もいなかったのだ』」
「……違う! 王様はそんなこと言わない! あの人は、誰よりも……!」
戌(いぬ)のシリウスが吼えるが、汚染された記憶の浸食は止まらない。周囲にいた仲間たちの姿が、次々と「自分を嘲笑う敵」へと変容していく。
「……シリウス、お前、本当は王が動けなくなるのを待っていたんだろう?」
「……ラージャン、お前が熱くなりすぎたせいで、あの時ガリアの民を見殺しにしたのを忘れたか?」
「――【夢幻の銀糸・疑心の牢獄】!!」
汚染された未(ひつじ)のネルガルが、無意識に銀の糸を仲間たちに絡みつかせ、精神的な「同士討ち」を強制的に開始させる。
「……やめて! 私の体が勝手に……! みんな、逃げて!!」
互いを信じ、背中を預けてきた翼たちが、汚染された記憶の毒によって互いに牙を剥く。それは肉体を斬られるよりも遥かに苦痛な、魂の切り刻みであった。
混乱と疑念が極限に達し、仲間同士が武器を向け合い、魂の摩耗が終わりを迎えようとしていたその時――。 第十八層。一筋の、まばゆい「銀光」が空間そのものを切り裂いた。
「――目を覚ましなさい!! 誇り高きエテルナの翼たちが!!」
午(うま)の翼将、アル・ザヒドである。 彼は、自分に向けられたフィオナの細剣を、避けることもせず素手で掴み取った。掌から黄金の血が噴き出し、空間が軋む。だが、彼の瞳には一点の濁りも、一点の迷いもなかった。
「アル・ザヒド……退け! 私は……私はお前を殺したくないのに、手が……!」
フィオナが泣きながら空間の断層を放つ。だが、アル・ザヒドはその絶望的な攻撃を、わずかな身のこなしでかわし、彼女の肩を強く掴んだ。
「……フィオナ。そして皆。……王の声を聞くな。あれは王の記憶が発する『音』ではない。……ただの、自分を責め続ける不器用な男の『うめき声』だ!」
アル・ザヒドは、自分自身の鏡像とも言える「絶望した自分の影」を、重槍『ロンギヌス』の一突きで粉砕した。
「……王が私たちを『人形』だと思っている? ……笑わせるな! もしそうなら、あの日、冷めかけた茶を淹れ直した私に向けられた、あのお方のあの僅かな……本当に僅かな『微苦笑』は何だったというのだ! 道具に対して、人はあんな顔をしたりはしない!」
アル・ザヒドの全身から、これまでにないほど鋭く、純粋な星韻が噴き出した。それは王から授かった力ですらなく、彼自身が数千年の奉仕の中で積み上げてきた、誰にも模倣不能な「実存の重み」そのものであった。
「神理昇華・極致奥義――【瞬刻の奉仕(ロイヤル・パス)】!!」
アル・ザヒドが、極限の「速さ」で仲間全員の眉間を、槍の石突きで叩いて回った。それはダメージを与えるためではない。王の記憶に深く、深く刻まれていた「本当の音」――。 茶器が触れ合う音、歴史書のページをめくる音、そして彼らを呼ぶときの、微かすぎて気づかなかった「声の震え」。それらを、アル・ザヒドは自らの星韻を触媒にして、直接仲間たちの魂の深層に響かせたのである。
「……あ。……あぁ……。そうだ、王様は……」
ネルガルの糸が解け、ラージャンの雷が収まる。汚染された悪夢が剥がれ落ち、そこには再び、ボロボロになりながらも互いの顔を見て笑う、二十七人の翼たちの姿があった。
「……悪いな、アル・ザヒド。……俺としたことが、王様の偽物のツラにビビっちまったぜ」
ラージャンが血を拭い、不敵に笑う。
「……礼には及びません。……ただ、次に王の茶を淹れるのは、私の役目ですから。汚名返上の機会を奪わないでいただきたい」
アル・ザヒドは静かに槍を構え直し、汚染の源である「偽りの王」を、一瞬のうちに光の粒子へと変えて消滅させた。
第十八層の悪夢を振り払い、一行はついに第十九層へと到達した。 だが、そこにはもはや、温かな夕焼けも、懐かしい中庭も存在していなかった。
そこは、重力が完全に失われ、上下左右の概念さえもが曖昧な、果てしない灰色の空間。 遠くの方では、この世界の「底」が抜けたかのように、巨大な、あまりに巨大な『黒い渦』が、すべてを飲み込もうと不気味に渦巻いている。
「……ここが、第十九層。……『虚無の底』の入り口よ」
フィオナが、震える指でその渦を指差した。
「……王は、この渦を止めるために、自分の命を『栓』にしているんだ」
副将ナバールが、震える手で魔導計器を操作し、その空間の数値を計測する。
「……信じられない。この渦の向こう側は、ゼノビアさえも含まない、真の意味での『世界の終わり(アポカリプス)』……。宇宙の寿命そのものが尽き、すべてが無に還るための排出口だ。……王が石化したのは、敵を倒すためじゃない。……この世界そのものが崩壊し、虚無に吸い込まれるのを、自らの存在を『重し』にすることで、物理的に抑え込んでいたんだ……!」
衝撃が一行を走る。 アル・ゼノンが守っていたのは、エテルナという国だけではなかった。 彼は、この世界というシステムそのものが限界を迎え、虚無へと還ろうとするのを、自らの存在を「絶対の法」として再定義し直すことで、無理やり、本当に無理やり引き延ばしていたのである。
「……そんな……。じゃあ、王様を復活させたら……」
「……ええ。王が楔(くさび)であることを止めれば、この渦が再び動き出し、エテルナも、大陸も、私たちも、瞬く間に消滅するでしょう。王の復活は、世界の死と同義だ」
残酷すぎる真実。 王を助けることは、王がその命を懸けて守り抜いた世界を、自らの手で滅ぼすこと。 あまりに重すぎる矛盾に、翼たちは言葉を失い、ただ渦の咆哮を見つめるしかなかった。
だが。
「……それでも、いいよ」
眠っていたはずの虚無のゼロスが、カイルの背中でゆっくりと目を開けた。その瞳は、これまでにないほど透き通り、深い、深い決意に満ちている。
「……ボク、分かった気がする。……王様は、世界を守りたかったんじゃない。……世界を『守ろうとするボクたち』と一緒にいたかっただけなんだよ。ボクたちがいない世界なんて、王様にとっては最初から価値がないんだ」
ゼロスが、重力のない空間にふわりと降り立つ。
「……行こう。……第二十層。……その先にある、王様の本当の『願い』を聞きに」
二十七人の魂は、目の前の巨大な黒い渦へと、自ら、迷いなく飛び込んだ。 復活の二十二層まで、あと三層。 世界が滅びるか、それとも王が蘇るか。 究極の二択を背負った彼らの大遠征は、いよいよ「神の領域」へと、最後の一歩を踏み出す。
第十九章:【二十層の断罪、神理と命の天秤】