AION REAGALIA(アイオン・レガリア) 作:ネネカ大神
第十九層の「虚無の渦」――世界そのものの寿命が尽き、すべてが無へと還ろうとする崩壊の排出口。アル・ゼノンが自らを黄金の楔として打ち込み、その身を挺してせき止めていた絶望の淵を飛び越えた二十七人の精鋭たちが辿り着いたのは、音も、風も、そして時間さえもが意味をなさない、眩いばかりの「白」の世界であった。
第二十層『神理(しんり)の深淵』。 そこにはもはや、エテルナの街並みも、王の記憶も存在しない。視界のすべてを埋め尽くすのは、虚空に浮かぶ巨大な黄金の歯車と、それらを繋ぐ無数の光の糸。そして、その糸の一本一本に刻まれた、この宇宙を構成する数千億の「法典(コード)」であった。
「……何、これ。……文字が……空中に直接書かれているみたい」
卯(うさぎ)の翼将、フィオナ・エインズが、震える指先で目の前を流れる光の糸に触れようとした。だが、触れる直前で指先が弾かれる。
「触れてはいけません、フィオナ。……それは、この世界の『重力』や『質量』といった法則そのものです。……不用意に触れれば、あなたの存在定義がその場で書き換えられ、霧散してしまう」
蒼穹のイシュタルが不在の今、解説を引き継いだのは午(うま)の翼将、アル・ザヒドであった。彼の瞳には、かつてないほどの緊張が走っている。
「……ここは王の心象世界であると同時に、王が管理している『エテルナの設計図』そのもの。……そして、あそこを見てください」
アル・ザヒドが指し示す先。世界の中央、すべての光の糸が収束する地点に、それは浮かんでいた。
巨大な、天を衝くほどの『黄金の天秤』。 その左の皿には、エテルナの都、そしてそこに住まう数百万の民の命を象徴する「黄金の輝き」が乗っている。 そして右の皿には――ただ一つ、アル・ゼノンが愛用していた「一本の羽ペン」が置かれていた。
それは、王の「命」と「記憶」の象徴。 天秤は今、右の皿が完全に下がり、左の皿が浮き上がった状態で「固定」されていた。王が自らを重しにすることで、世界という天秤の均衡を、無理やり、物理的に維持している光景であった。
「――『不法侵入者たちよ。これ以上の因果の攪乱は、宇宙の死を加速させるのみである』」
突如、天秤の背後から、幾何学的な光の翼を持つ巨大な「瞳」が現れた。 それはゼノビアの邪神でもなければ、王の記憶の残滓でもない。アル・ゼノンが自らの理性の一部を割いて、世界のシステムを自動維持するために作り出した究極の防衛機構――神理の守護者:天秤の審判(リブラ・ジャッジメント)。
「――『問う。貴公らは、何のためにここへ来た。……王を救うか。……それとも、世界を救うか』」
守護者の声が、情報の津波となって二十七人の脳内を直接揺さぶる。
「……そんなの、決まってる! 両方だ!」
寅(とら)のラージャンが、折れかけた双剣『アグニ・ガンド』を構え、雷を噴き上げる。
「――『否定する。……アル・ゼノンは、この世界を崩壊から繋ぎ止めるための唯一の「栓」である。……栓を抜けば、容器は空になる。……王を石化から解くことは、この世界の全生命の抹消を意味する。……貴公らの望みは、論理的に矛盾している』」
守護者の瞳から、純白の光線が放たれた。 それは破壊の光ではない。「存在の重み」を量る光。 光に触れたラージャンの身体が、一瞬にして透き通り、地面にめり込んでいく。
「ぐ、あ……っ!? 身体が……重すぎる……!?」
「――『貴公の忠誠は、数百万の民の命よりも重いか? ……否。……一人の翼の命は、全宇宙の法典の前では端数に過ぎない。……端数は、切り捨てられるべきである』」
守護者の言葉は、冷徹な「正論」であった。 王を助けるという行為は、王がこれまでに払ってきた犠牲を無に帰し、世界を滅ぼすという「悪行」になる。翼たちが王を慕えば慕うほど、彼らは「世界を滅ぼす大罪人」として、神理そのものに裁かれる運命にあった。
「……正論なんて、聞き飽きたわよ!」
卯のフィオナが、空間を無理やりこじ開け、守護者の側面に躍り出た。
「空間が歪んで、重力が重くなるなら……私がその空間ごと、外側へ放り出してやる! 刻印具解放――【虚空への追放(ディメンション・イジェクト)】!!」
フィオナの細剣が、守護者の周囲の座標を切り裂く。だが、守護者は微動だにしない。 守護者が一度羽ばたくと、フィオナが作り出した断層は「数式」となって分解され、逆に彼女を縛り付ける鎖へと書き換えられた。
「――『貴公の空間魔法もまた、この世界の法則の一部。……法則が、法則の源を害することはできない』」
「……ならば、法則に縛られない『重み』を見せてやるぜ!」
亥(い)のギガス・ヴァハルが、重装殻を軋ませながら前へ出る。
「パンサ! 俺の魂、全部お前の槌に乗せろ! 物理法則を越えた『重圧』を叩き込むぞ!!」
副将パンサ・デュロが吼え、巨大な槌にギガスの全星韻を込める。 それはもはや攻撃ではない。自らの魂を物理的な質量へと変換した、命の特攻。
「うおおおおおッ!!」
パンサの槌が守護者の障壁に激突し、世界を震わせる轟音が響く。
だが、守護者は冷酷に宣告した。
「――『算出完了。……ギガス・ヴァハルの命の総量:3,400カル。……対して、エテルナの全生命の総量:9,800,000,000カル。……重みが足りない。……消えよ』」
守護者の翼が閃くと、ギガスとパンサの二人は、その「重みの差」に耐えきれず、魂の形を保てなくなり、光の粒子となって吹き飛ばされた。
「……ギガス! パンサ!!」
ラージャンが叫ぶ。 次々と脱落していく仲間たち。王の理性が作り出した「正論」という名の壁は、あまりにも高く、あまりにも冷たかった。
「……アル・ザヒド様。……もう、限界です」
副将フェリスが、震える手で主君の背中を支える。 二十七人いた魂は、今や半数以上が守護者の「断罪」によって透明になり、消滅の危機に瀕していた。
守護者の瞳が、アル・ザヒドをロックオンする。
「――『問う。……アル・ザヒド。……貴公は、王から「世界を守れ」と命じられたはずだ。……今、王を救おうとする行為は、主君への背信ではないのか?』」
アル・ザヒドは、静かに目を閉じた。 脳裏を過るのは、王と過ごした数千年の月日。 王が孤独に耐え、感情を殺し、世界を繋ぎ止めるための「栓」として生きてきた姿。
「……ええ、そうですね。……私は、主君の命令に背こうとしています」
アル・ザヒドが、重槍『ロンギヌス』をゆっくりと構え直した。その穂先には、これまでの青い輝きではなく、王が時折見せていた、あの「赤黒い」不吉な光が宿っていた。
「……ですが。……王は私たちに『翼』という名をくださいました。……翼とは、空を飛ぶためのもの。……何かに縛られ、固定され、沈黙するためのものではない!」
アル・ザヒドの全身から、これまでとは異質な星韻が噴き出した。 それは、王から授かった力ではなく、王という法典(コード)を、彼自身の意志という名の「エラー」で塗りつぶす、純粋な反逆の光。
「……世界を救えば、王が死ぬ。……王を救えば、世界が死ぬ。……ならば、その天秤そのものを、私が叩き壊して見せましょう!」
「――『エラー。……アル・ザヒドの意志エネルギー、計測不能。……因果律の無視を確認』」
アル・ザヒドが跳んだ。 それは、時間の加速ではない。「因果を飛び越える」一突き。 「結果」が「原因」の前に現れる、この世界の理屈を完全に無視した神速。
「神理昇華・最終禁忌――【理(ことわり)を穿つ、叛逆の槍】!!」
ドォォォォォォォン!!
アル・ザヒドの槍が、世界の中央に浮かぶ「黄金の天秤」の軸を、正面から貫いた。 守護者が悲鳴を上げ、黄金の光の糸が次々と断ち切られていく。
「――『警告! 因果の天秤が損壊! ……世界の保存が……不可能になる……!』」
「……構わん! 壊れた世界なら、また作り直せばいい! ……だが、アル・ゼノンという男は、この宇宙に一人しかいないんだ!!」
アル・ザヒドの叫びと共に、第二十層の世界全体が、ガラスのように砕け散り始めた。 天秤が崩壊し、左の皿に乗っていた「エテルナの民の輝き」が、空へと散らばっていく。 それは世界の終わりを意味する光景。だが、同時に、右の皿に置かれていた「王の命」が、呪縛から解き放たれた瞬間でもあった。
第二十層が崩壊し、一行はさらなる深淵、第二十一層へと落下していく。 守護者は消え、世界の設計図はズタズタに引き裂かれた。
「……アル・ザヒド様! 身体が……!」
フェリスが悲鳴を上げる。 天秤を壊した代償として、アル・ザヒドの右半身は、王と同じように「石化」し始めていた。世界の法則を壊した者への、神理からの罰。
「……案ずるな、フェリス。……王が背負ってきた重みの、ほんの一部を分けてもらっただけだ」
アル・ザヒドは、石化した腕で槍を握り直し、不敵に笑った。
彼らの背後では、第十九層で見た「虚無の渦」が、栓を失ったことで猛烈な勢いで広がり始めている。 エテルナの、そして世界の崩壊が始まったのだ。 王を復活させなければ、このまま宇宙はすべて無へと還る。
「……あと二層。……第二十一層を抜け、最深部の第二十二層へ」
意識を取り戻した虚無のゼロスが、崩壊する空間の中で空を見上げた。
「……そこには、もう誰もいないよ。……ただ、自分を殺して『神』になった、孤独な王様がいるだけだ」
「……行こう。……世界が消えるのが先か、あの人を連れ戻すのが先か。……歴史上、最も不条理な駆けっこの始まりだ」
二十七人の、いや、脱落者を除いた数名の生き残りたちは、崩壊する「神理」の破片を足場に、さらなる深淵へと駆け出した。 復活の第二十二層まで、あと二章。 世界の死と引き換えに、彼らは「最愛の神」を奪還するための、最後の審判へと挑む。
第二十章:【第二十一層:存在の証明、虚無に消える仲間たち】