AION REAGALIA(アイオン・レガリア) 作:ネネカ大神
現実世界のエテルナ帝国。 かつて「不変」を謳われた黄金の都は、今や物理的な崩壊の断末魔を上げていた。 天頂を覆っていた完璧な青空は、熱に焼かれた絵画のように端からめくれ上がり、剥がれ落ちていく。その剥落した隙間から覗くのは、星も光もない真の虚無。第二十層でアル・ザヒドが「天秤」を破壊した余波は、この世界の存在定義そのものを根底から消し去ろうとしていた。
「……見てくれよ。俺たちが一生をかけて守ってきた空の裏側が、こんなに真っ暗だったなんてな」
都の防衛を任された副官予備隊のカイルは、血の混じった唾を吐き捨て、震える手で折れた剣を握り直した。 彼の周囲には、もはや整然とした軍列など存在しない。あるのは、瓦礫の山と、絶望を通り越して「覚悟」を決めた数千の民たちの姿だった。
王の「修復(リストア)」が途絶えてから十二時間が経過した。都を彩っていた噴水は枯れ、華やかな大通りは地割れに飲み込まれた。そして何より、王が隠し続けてきた「エテルナは神々の墓場である」という真実が、黒い毒のように民たちの心に染み渡っていた。 だが、奇妙なことに、暴動は起きなかった。 裏切られたという怒りよりも、自分たちの幸福の代償として石となった王への、名もなき情愛が彼らを繋ぎ止めていた。
「――『聴け、偽りの楽園に住まう家畜どもよ! お前たちの「神」は堕ちた! 今こそ、この醜悪な墓場を更地に戻し、真なる自由を勝ち取る時だ!』」
地平線の向こう側から、空を埋め尽くすほどの魔導要塞と、黒い泥を纏った「ゼノビア」の影獣たちが押し寄せていた。 反王同盟(アンチ・レガリア)の生き残り。彼らにとって、エテルナの崩壊は正義の執行であった。彼らは、自らの肉体を機械へと置換し、あるいは影に魂を売ることで、神に抗うための「暴力」を手に入れた狂信者たちだ。
数万の魔導砲が一斉に火を噴く。 本来なら金剛のバシュタールが欠伸をしながら盾一枚で防いだはずの猛攻。だが、今の都を守るのは、翼を持たない、魔法の才能さえ乏しい「ただの人間」たちであった。
「……全員、一歩も引くなッ! 翼がないなら、足を踏ん張れ! 手がないなら、歯を食いしばれ!!」
カイルの声が響く。彼の隣には、パン屋の親父、花売りの娘、引退した老兵、さらには幼い少年までもが、瓦礫を手に、あるいは旧式の魔導銃を抱えて立っていた。
「……王様は、俺たちに嘘をついてたかもしれない。……でも、あの人がくれたパンの味も、祭りの夜の温かさも、俺たちにとっては『本物』だったんだ。……その本物を守るために死ぬんなら、これ以上の贅沢はねぇだろうが!!」
一人の凡人の叫びが、何万もの沈黙を突き破った。 彼らは知っている。自分たちがこれから相手にするのは、歴史を終わらせるための圧倒的な神話の力。 それでも、彼らは笑った。 王が愛したこの都を、自分たちの「日常」を、たった一秒でも長く繋ぎ止めるために。
激突は、一方的な蹂躙から始まった。 影獣の爪が兵士を真っ二つに裂き、機械兵の重火器が民家を粉砕する。
「――が、ああああッ!!」
一人の老兵が、影獣に腹を食い破られながらも、隠し持っていた星韻(せいいん)爆弾を起動させた。
「……王様……。あとの……茶は、頼みます……ぜ……」
爆発。自らの存在を火花に変え、敵の進軍を一瞬だけ停滞させる。
広場では、かつてアル・ザヒドに命を救われた少女が、石と化した一輪の薔薇を胸に抱き、襲いくる影獣の前に立ちはだかっていた。
「……行かせない。……王様のところへは、絶対に行かせないんだから!!」
彼女の叫びが、何らかの奇跡を呼んだわけではない。彼女はそのまま影に飲み込まれようとしていた。 だが、その瞬間、一人の名もなき市民が影獣の背中に飛び乗り、包丁でその目を突き刺した。
「……お嬢ちゃん、下がってな! ここは大人たちの仕事だ!!」
都の至る所で、同様の「不条理な抵抗」が起きた。 特別な力を持たない彼らが、自らの命を「時間稼ぎの部品」として使い捨て、敵の進軍を秒単位で削り取る。 それは「神の奇跡」など微塵も介在しない、ただの生身の人間の、泥臭く、美しく、そしてあまりに残酷な「意志」の激突であった。
その時。 都の中央、ひび割れた聖時計塔の頂上で。 石像となったアル・ゼノンの、石化したはずの右目から、熱い「黄金の涙」が零れ落ちた。
それは、精神世界の深淵、第二十一層で部下たちの消滅を感じ取った王の慟哭であった。 だが、その涙は地面に叩きつけられる前に、黄金の霧となって都の全域へと拡散した。
「……これは、王様の……星韻?」
霧に触れた傷ついた人々は、一瞬だけ身体の痛みが消えるのを感じた。 折れた剣が黄金の光を帯び、絶望していた民たちの脳裏に、王の「声なき震え」が直接流れ込んできた。
『……すまない。……すまない、皆……。……余は、貴公らにこれほどの絶望を背負わせるつもりはなかった。……余一人で、すべてを終わらせるはずだったのだ……』
王の謝罪。 それは、絶対者としての慈悲ではなく、一人の「失敗した管理者」としての、震えるような告白。 その声を聞いた民たちは、涙を流しながら、逆に、傲慢なまでに笑い飛ばした。
「……謝ることなんてねぇよ、王様!!」
カイルが、機甲兵の装甲に剣を突き立て、叫ぶ。
「……あんたは、十分やってくれた。……あとは、俺たちが……あんたが目覚めるまで、ここを死守するだけだ!! あんたが守りたかったこの都が、そんなにヤワじゃないってことを教えてやるよ!!」
黄金の粒子を纏った市民たちの反撃が始まった。 ただの包丁が、王の涙を受けて「神殺しの刃」となり、ただの瓦礫が「概念の盾」となる。 それは神が与えた奇跡ではなく、王が彼らに与えた「愛」という名の記憶が、今、彼ら自身の手によって「力」へと再定義された、究極の人間讃歌であった。
一方。 精神世界の最深部、第二十二層。 そこは、世界の終わりを告げる「虚無の渦」の轟音が遠くで鳴り響きながらも、奇妙なほど無機質な静寂に支配された空間であった。
扉の向こうに広がっていたのは、黄金の宮殿でも、冷徹な法典の回廊でもない。ただの、狭く、埃っぽい「一人の少年の部屋」だった。 窓の外には、かつてゼノンが愛し、そして失った麦畑が広がっているが、その風景は色を失い、静止画のように動かない。
部屋の中央。 古びた木の椅子に深く腰掛け、両手で顔を覆って震えている青年――アル・ゼノンの意識体がいた。
「……ゼノン様」
午(うま)の翼将、アル・ザヒドの声が、その静寂をわずかに揺らした。 だが、その声は以前の凛とした響きを失っていた。アル・ザヒドの全身は、既に喉元まで「石化」が進んでおり、言葉を発するたびに、喉の奥から石が擦れ合うような、ざらついた、痛々しい音が漏れ出している。
「…………来るな……」
ゼノンの唇が、拒絶を紡いだ。その声は掠れ、絶望に濡れている。
「……見ないでくれ、アル・ザヒド。……これが、余の正体だ。……貴公らが崇めた神は……自らの罪に耐えきれず、子供の部屋に閉じこもった、臆病な人間に過ぎない……」
ゼノンの足元には、ここまで共に歩み、王を救うために自らの存在を「虚無」に捧げて消えていった二十六人の翼たちの「影」が、重苦しく横たわっていた。 王は、石像の内側からすべてを見ていた。愛する部下たちが、一人、また一人と自分を呼んで消えていく様を。彼らが自分を「神」と信じ、その命を「塵」のように使い果たしていく残酷な献身を。
「……余が目覚めれば、世界は壊れる。……そして、余が石であり続ければ、貴公らは救われるはずだった。……なのに、なぜだ。……なぜ、すべてを捨ててまで、余の元へ来た……! 余という呪いを、なぜ……!!」
ゼノンが顔を上げ、咆哮した。その瞳からは黄金の涙が溢れ、床を穿つ。 彼は、自分自身の存在が、部下たちを死へと追いやる「疫病」であると確信し、自責の念という名の地獄に、自らを幽閉していたのである。
アル・ザヒドは、崩れ落ちそうになる身体を、重槍『ロンギヌス』を杖にすることで辛うじて支えていた。 右腕は既に重い石の塊となり、感覚はない。左腕も、指先から砂へと変わりつつある。 意識を保つことさえ、もはや奇跡に近い状態だった。
だが、アル・ザヒドは微笑んだ。 それは、何千年も前、泥の中で死にかけていた自分を、あの王が拾い上げた時に見せた、最初の忠誠の笑みであった。
「……王よ。……貴方は、相変わらず『合理』に囚われていらっしゃる」
アル・ザヒドは、石化した足を引きずり、一歩、また一歩と王に近づいていく。 一歩進むたびに、彼の身体からは黄金の欠片が零れ落ち、存在が薄くなっていく。
「……私たちは、貴方の『部品』ではありません。……貴方の『電池』でもありません。……私たちは、貴方という人間と共に、同じ時間を生きることを選んだ『意志』なのです」
アル・ザヒドは、少年の机の上にあった、空のティーカップをそっと持ち上げた。 指先は震え、陶器の冷たさが石化した皮膚を通じて魂に染み入る。 彼は、目に見えない「星韻のお茶」を注ぐ動作をした。 それは、かつて平和だったエテルナの午後、王が唯一、厳しい表情を緩めていた、あの日常の再現であった。
「……王様。……お代わりは、いかがですか?」
その一言が、ゼノンの心を、王の理性を、深層の防衛本能を、鋭く、優しく貫いた。
「……冷めきった過去を飲み込むのは、もう終わりにしましょう。……貴方がどんなに自分を責めようと、私たちは、貴方が淹れ直してくれる、あのアッサムの香りを忘れてはいないのです」
アル・ザヒドは、石化した手で震えながら、カップをゼノンの前へと差し出した。
「……外では、名もなき民たちが戦っています。……貴方を神としてではなく、街で時折、寂しげな背中を見せていた『一人の主君』として愛した人々が……。……彼らは、貴方の作る新しい明日を、命懸けで待っているのですよ」
その瞬間、部屋の壁が、激しく振動した。 それは精神世界の内側から生じた揺れではない。 現実世界で、王の石像を守り続けている数百万の民たちの「祈り」と「叫び」が、存在しないはずの第十三時の壁を突き破り、この閉ざされた少年の部屋へと、黄金の振動となって流れ込んできたのだ。
『……王様! ……生きてくれ!』
『……嘘つきでも構わない! ……あんたがいるから、俺たちは笑えたんだ!』
『……戻ってきて……! 私たちの、王様……!!』
名もなき市民たちの声。 兵士たちの怒号。 カイルたちの、死を恐れぬ人間讃歌。
それは、アル・ゼノンがこれまで「数式」や「法典」で管理しようとしてきた、計算不可能なエネルギーの奔流であった。
「……あ……。……あぁ……」
ゼノンが、耳を押さえてうめいた。 彼の内側で、かつて自分が「不純物」として切り捨て、石の中に封じ込めていた「感情」が、激しく脈打ち始めた。
石像となった身体の奥底、魂の最深部で。 あの日、自ら止めたはずの心臓が、一回、また一回と、大地を揺るがすほどの重厚な拍動を刻み始めた。
ドクン。
それは、神の目覚めではない。 一人の人間が、自分自身の生を、肯定し始めた音であった。
「……余は……」
ゼノンが、ゆっくりと顔を上げた。 石化した右目から、黄金の涙ではない、本当の、温かな「人間の涙」が零れ落ちる。 涙が落ちた床から、影となっていた二十六人の翼たちの残滓が、光となって舞い上がった。
「……余は、一人ではなかったのか……? ……貴公らは、余を恨んでいるのではなかったのか……?」
「……恨む、などと。……私たちは、貴方に救われたのですよ。……そして、今もなお、貴方を救いたいと願っている。……ただ、それだけのことなのです」
アル・ザヒドの身体は、今や光の霧となっていた。 カップを持つ手さえも消えかけ、魂の糸が一本、また一本と、虚無へと吸い込まれていく。 だが、彼は最期まで、主君を見守る「翼」であり続けた。
「……王よ。……どうか、その瞳を。……本当の、黄金の瞳を開いてください。……この虚無の底を、貴方の色で塗りつぶして……」
アル・ザヒドの言葉が、少年の部屋を、そしてエテルナの崩壊を、一瞬だけ「停止」させた。
ゼノンの周囲で渦巻いていた罪悪感の鎖が、一斉に砕け散る。 彼は、自分を縛り付けていた「神としての義務」という名の重石を、ついに脱ぎ捨てた。 自分が守りたかったのは世界ではなく、そこに生きる「彼ら」であったことを、一滴のお茶の記憶が、すべてを思い出させたのだ。
「……すまなかった。……アル・ザヒド。……そして、皆」
ゼノンが立ち上がった。 その背丈は、もはや少年のそれではない。 宇宙を背負い、時間を支配し、なおも一人の人間としての情熱を宿した、真なる絶対王の姿。
「……余は、王だ。……貴公らが命を懸けて守ったこの国を、この歴史を、誰にも奪わせはしない。……神が審判を下すと言うなら、余はその神ごと、因果の果てに葬り去ろう」
ゼノンの瞳の中で、時計の針が、黄金の炎となって激しく回転を始めた。
現実世界のエテルナ。 巨大要塞の主砲が放たれ、都が消滅の一撃に飲み込まれようとした、その瞬間。
聖時計塔の頂上に立つ黄金の石像が、まばゆいばかりの、太陽を凌駕するほどの光を放った。
メキメキ、メキッ!!
石の表面に、無数の亀裂が走る。 そこから漏れ出すのは、もはや魔力ではない。 世界を再構築し、過去を否定し、未来を創造する、究極の『王権(レガリア)』の波動。
「――待たせたな。余の愛すべき、不条理な民たちよ」
石像の破片が弾け飛んだ。 その中から現れたのは、右目に黄金の時計を宿し、漆黒のマントに宇宙の星々を纏った、アル・ゼノンその人であった。
彼は、降り注ぐ破壊の光線に対し、ただ一言、冷淡に、しかし無限の慈しみを持って告げた。
「……静粛に(サイレンス)。……余の前で、騒ぐことを許した覚えはない」
一瞬。 都を消し去るはずだった極大の光が、王の一言で「最初から存在しなかった」かのように、空間から消滅した。
そして。 王の傍らで、砂となって消えかけていたアル・ザヒド、そして精神世界に散った二十六人の魂が、ゼノンの左手に握られた王権具『万劫の針』へと、黄金の糸となって収束していく。
「……もう、消えさせはしない。……貴公らの命、余の法典(コード)に永遠に刻み込んでやろう」
第二十二章:【再誕のレガリア、黄金の瞳が開く時】