AION REAGALIA(アイオン・レガリア) 作:ネネカ大神
2026年もよろしくお願いします。
アステリアを司る五柱の神々が集う天界の最高中枢。普段は静謐に包まれているはずのこの空間は、今や巨大な戦艦のブリッジのような喧騒と、焦燥感に満ちていた。
「――全次元観測水晶、最大出力! ゼノン様の半径百メートル以内の事象密度を常に監視せよ! 誤差一ミクロンも許さぬぞ!」
知恵の女神テミスの悲鳴にも似た怒号が響く。彼女の眼前には、数千の魔導画面が展開され、ソルスティシア魔導学園の隅々までが数値化されていた。
「テミス! 焼きそば屋台の鉄板の温度が、ゼノン様の『少し火力を上げよう』という微かな念に反応して六千度を超えようとしている! このままでは鉄板が気化して学園が蒸発するぞ!」
炎の神アグニオスが、自身の神格の半分を強制冷却装置(クーラー)として転用し、必死に鉄板の温度を「普通の焼きそばが焼ける程度」にまで抑え込んでいた。彼の神体からは、過負荷による火花が散っている。
「アクアリア! 下界の住民全員の視覚野に強烈な『認識阻害パッチ』を適用しろ! あのお方がエプロンを締めた瞬間に放たれた黄金の気品を直視した観客が、既に三千人ほど失神しかけている! 『ただの格好いい学生だ』と、全員の脳に直接叩き込め!」
水の女神アクアリアは、全世界に降らせるはずだった恵みの雨を「精神安定の雫」に変換し、学園祭に集まる群衆の脳細胞が焼き切れないよう、霧状にして散布し続けていた。
彼ら神々にとって、今日は「祭り」などではない。 宇宙の絶対王が「自分はFランクの学生として完璧に馴染めている」という、あまりにも無垢で残酷な勘違いを維持させるための、国家存亡を賭けた隠蔽工作なのだ。
地上、一年F組の教室を改装した『王立貴族喫茶・麺処』。 入り口には、漆黒の執事服を纏い、純白のエプロンを掛けたアル・ゼノンが、まるで宇宙の真理を体現するかのような完璧な姿勢で立っていた。
「……いらっしゃいませ。……お好きな席へ、歩みを運ぶが良い」
ゼノンが口を開いた瞬間、入り口に並んでいた客たちの心臓は、一瞬だけ物理的に鼓動を止めた。それは恐怖ではない。あまりにも「高次な存在」を目の当たりにした際、生物としての本能が、自身の全機能を停止させてでも敬意を表そうとする、魂の深淵からの拒絶反応であった。
「……あ、……ぁ、……あ……」
客の一人、近隣諸国の重鎮である老伯爵は、案内される前にその場に膝を突き、額を床に擦り付けようとした。彼の意識は混濁し、目の前の少年が「全宇宙を統べる主」に見えていた。
『――ガイアス! 伯爵の膝を支えろ! 跪かせるな!!』
天界でテミスが絶叫する。大地の神ガイアスは即座に伯爵の足元の重力を反転させ、物理的に彼の姿勢を直立不動の状態に固定した。
「……伯爵。……どうかされましたか? ……体調が優れないのであれば、テラス席の方が風通しが良いでしょう」
ゼノンが、慈愛に満ちた(本人にとっては普通の接客の)微笑みを浮かべる。 その瞬間、伯爵の全身を巡っていた持病の神経痛が、王の微笑みの余波によって「完治」してしまった。それどころか、彼の寿命が数十年単位で延びようとするのを、アクアリアが必死に「一時的な興奮によるアドレナリン」として偽装し、数値を正常範囲に押し戻した。
「……ふむ。……イシュタル。……今日の客は、随分と姿勢が良い者が多いな。……皆、余が近づくと直立不動になる」
ゼノンは、満足げにイシュタルへ語りかけた。
「……王よ。……それは貴方の洗練された接客に、彼らが感銘を受けている証でしょう。……さぁ、次はあの『使徒』とやらの注文を取って差し上げてください」
イシュタルの視線の先には、学生に扮して潜入している天界の調査員、ライラの姿があった。
調査員ライラは、震える手で割り箸を割ろうとしていた。だが、指先に力が入らない。 彼女の目の前には、ゼノン自らが(神々の全力補助によって)焼き上げた『特製焼きそば』が置かれていた。
「……お待たせいたしました。……余の渾身の一作だ。……残さず食すが良い」
ゼノンが彼女の目の前に皿を置く。 ライラはその瞬間、漂ってきたソースの香りを吸い込んだだけで、自らの霊体が「高次元の光」へと強制的に再構築されそうになるのを感じた。
(……アグニオス様たちが、あれほど必死に味を落としたはずなのに……! なぜ、このソースの一滴から、宇宙の誕生と終焉の音が聞こえるの……!?)
ライラは覚悟を決め、一口だけ麺を啜った。 瞬間。 彼女の脳内に、アステリアという世界の全歴史が、一瞬の閃光となって駆け抜けた。 素材となったキャベツの細胞一つ一つに、王の「慈悲」という名の定義が書き込まれている。豚肉の一片には、生命の循環という名の真理が封じ込められている。
『――不味い! ライラの精神が昇天(アセンション)する! 意識を繋ぎ止めろ!!』
天界の神々が総掛かりでライラの精神を現実に引き戻す。 彼女が「私は神の使徒ですらなく、ただの焼きそばを食べている学生だ」という不自然な納得を得るまで、神々は数千の精神安定パッチを彼女の脳に叩き込んだ。
「……はぁ、……はぁ、……美味しい……です……」
ライラは涙を流しながら、麺を噛み締めた。 その涙は、味覚への感動ではない。 全能の王が、自分のような塵に等しい存在のために、わざわざ「料理」という稚拙な手段を用いて理を分け与えてくれたという、圧倒的なまでの格差に対する戦慄と心酔の涙であった。
「……おかしい。……絶対におかしい……」
店内の隅で、じっとゼノンを見つめる瞳があった。 第二王子エリックである。彼は昨日の召喚儀式以来、自らの正気を疑い始めていた。今日も、ゼノンのボロを出そうと監視を続けているが、見れば見るほど「理解の範疇」を超えていた。
(……なんだ、あれは? ……あいつが運んでいる茶。……湯気が、なぜか聖なる龍の形をして昇っているように見えるのは僕だけか? ……それに、あいつが接客した後の客、みんな目から光を放って帰っていくぞ!?)
エリックが立ち上がり、ゼノンの元へ詰め寄ろうとした、その時。
『――ガイアス! 王子を止めろ! ゼノン様に不必要な質問をさせるな!!』
大地の神ガイアスは、エリックの足元の床の摩擦係数を「ゼロ」にした。
「……おわっ!?」
エリックは見事に滑り、その拍子にテーブルの上に置いてあった『わさびのり太郎(王がクラスメイトに配った予備)』の空き袋が彼の顔を直撃した。
「……む。……エリック王子、はしゃぎすぎだ。……足元に気をつけるが良い」
ゼノンが、床に這いつくばる王子を、慈悲深い神のような目で見下ろす。 エリックは、その瞬間、王子の誇りも、対抗心も、全てが「無意味」であるという強烈な悟り……いや、神々による「強制的な安らぎの付与」に襲われた。
「……あ、……ああ……。……そうですね、……僕は、ただ、この焼きそばの……ソースの配合比率に……感動していただけなんです……」
エリックの目は焦点が合わず、口からはよだれが垂れそうになっていた。神々の精神操作(マインド・コントロール)により、彼の「疑念」は、無理やり「深い納得」へと変換されていた。
学園祭の熱気に紛れ、不届きな連中が喫茶店に現れた。 近隣諸国の傭兵上がりの騎士団。彼らは「Sランクの魔物を狩った」という自負に溺れ、学園のFランクが運営する店を侮辱するためにやってきたのだ。
「……へっ、なんだこの店は! ウェイターのツラが気に食わねぇな。おい、Fランク! 跪いてこの銀貨を拾ってみろ。そうすれば客になってやるぜ!」
リーダー格の男が、ゼノンの胸元を掴もうと、脂ぎった手を伸ばした。
その瞬間。 世界から、全ての「音」が消失した。
天界の神々が、椅子から転げ落ちて絶叫した。
『――殺せぇぇぇ!! 誰でもいい、あの汚れた指がゼノン様に触れる前に、あいつを因果律ごと消去しろ!! 触れられたら、この世界が穢れに耐えられず爆発するぞ!!』
だが、神々が物理法則を書き換えるよりも早く。 ゼノンの影が、生き物のように蠢いた。
「……クゥゥゥゥゥッ!!」
影から飛び出したのは、子犬サイズのトカゲ――シロ(星蝕龍)であった。 シロは、男がゼノンに触れるよりもコンマ数秒早く、その男の「影」を物理的に踏みつけた。
瞬間、男の全身から「色」が消えた。 シロは王の不隠を払うため、その男がこれまで培ってきた全魔力、全筋力、そして「人間としてのプライド」を、一瞬で虚無へと還した。
「……ぁ、……あ、……あ……」
男は、声も出せずにその場に崩れ落ちた。 周囲の学生たちの目には、神々の強力な視覚補正により「男がゼノンの気高さに自ら腰を抜かした」ようにしか見えなかった。
「……ふむ。……お客様。……体調管理もできない者が、学問の殿堂に足を踏み入れるとは。……早急にお引き取りを。……余の店で、不浄を撒き散らすのは感心せんな」
ゼノンは、男をゴミを見るような目で見下ろし、冷淡に告げた。 その言葉は、男の魂に「死よりも深い恐怖」として刻まれ、彼は生涯、二度と直立して歩くことはできなくなるだろう。
「……王よ。……片付けは終わりました。……次は、あちらの少女が『焼きそば』の神々しさに耐えきれず、白目を剥いておりますわ」
イシュタルが指差した先には、ゼノンの焼きそばを一食口にしただけで、あまりの「真理の過剰摂取」に脳がショートし、天を仰いだまま固まっているライラの姿があった。
陽が沈み、学園祭の一日目が終了した。 クラスメイトたちは「過去最高の売り上げだ!」「なんか知らないけど、客がみんな泣きながら帰っていったぞ!」と、歓喜に沸いていた。
ゼノンは、執事服を脱ぎ捨て、イシュタルが淹れた最高級のアッサムティーを啜りながら、満足げに夜空を眺めていた。
「……ふむ。……今日は、実りある一日だったな。……接客も完璧。……焼きそばも、ソースの量を昨日より抑えたおかげで、誰も昇天せずに済んだようだ」
ゼノンは、自らの「隠蔽工作(という名の盛大な勘違い)」が、完璧に成功したと確信していた。 自分のために神々が数万年分の寿命を削って働いていたことなど、露知らずに。
一方、天界。 五柱の神々は、神殿の床に重なり合って倒れていた。
「……終わった……。……一日目が……終わったわ……」
水の女神アクアリアが、枯れ果てた魔力で呻く。彼女の神衣は、ストレスによる冷や汗でぐっしょりと濡れていた。
「……いや、……まだだ……。明日は、後夜祭のキャンプファイヤーがある……。……あのお方が『ダンスを踊る』と言い出したら……。……ガイアス、世界の重力の中心点を、あのお方のステップに合わせてミリ単位でリアルタイム追従させる準備をしておけ。……一歩でも重心がズレたら、地球の自転が止まるぞ……」
「……御意……。……主よ、救いたまえ……。……我らが主は、そこに居るのだから……」
神々の悲痛な祈りは、黄金の月光に溶けて消えた。 ゼノンは、明日もまた「最弱の無能」として、この平和な世界を満喫するつもりであった。 その足元で、シロが『わさびのり太郎』の端切れを幸せそうに噛み締めていた。
第三十章:【後夜祭の円舞曲(ワルツ)、あるいは傾く地軸】