AION REAGALIA(アイオン・レガリア) 作:ネネカ大神
エテルナ帝国の夜は、銀色の静寂に包まれている。 聖時計塔『クロノス・マギ』が刻む微かな振動が、都の隅々にまで「安眠の理」を届けていた。昨日、空を裂いた巨神兵の傷跡は、王の『修復(リストア)』によって完璧に塞がれたはずだった。
だが、その完璧な平穏の中に、たった一滴の「不純物」が混じり込んでいた。
中央区画の広場。そこには、一人の夜警の兵士が立っていた。 彼は街の平和を愛し、誇りを持ってその任務に就いていた。だが、ふとした瞬間、彼は自分の「名前」を思い出せなくなった。
「……自分は、誰だったか」
疑問を抱いた直後、彼の足元から影が消えた。 いや、影だけではない。彼の存在そのものが、まるで描きかけの絵を消しゴムで消すかのように、輪郭から曖昧になっていく。彼が持っていた槍がカランと音を立てて落ちるが、その音さえも周囲の空間に吸い込まれ、誰の耳にも届かない。
数秒後、そこには誰もいなかった。 槍さえも消え、彼がそこに立っていたという「事実」そのものが、世界から削り取られた。 翌朝、彼の家族も、同僚も、彼という人間がこの世に存在していたことすら気づかないだろう。
これこそが、ガリアの跡地にそびえ立った「透明な塔」から放たれた、正体不明の侵食――『存在消去(イレース)』であった。
翌朝。宮殿の会議の間には、奇妙な焦燥感が漂っていた。
「……おかしい。何かが、決定的に狂っている」
午(うま)の翼将、アル・ザヒドが、眉をひそめて報告書を見つめていた。
「報告書によれば、昨夜の警備体制に不備はなかった。だが……街の至る所に、不自然な『空白』がある。例えば、この路地の詰め所。定員は四名のはずだが、三名しかいない。……残りの一人が誰だったのか、名簿を見ても名前が空白になっているんだ」
「私の空間探知にも、反応がないわ」
卯(うさぎ)の翼将、フィオナ・エインズが、悔しげに唇を噛む。
「空間が物理的に欠けているわけじゃない。ただ……そこにあるべき『意味』が、ごっそりと抜き取られているような感覚。……気味が悪いわ」
他の十二翼たちも同様だった。 子(ね)のゼフェルは影の中に潜む「違和感」に気づき、戌(いぬ)のシリウスは冷気が「何もない場所」で遮られることに不快感を示していた。 最強を誇る彼らにとって、「見えない」ことよりも「認識できない」ことこそが、最大の恐怖であった。
「……騒ぎすぎだよ。みんな」
広間の隅、大きなソファに座り、ぬいぐるみのようなクッションを抱えた少年が、ポツリと呟いた。
四星天将、虚無のゼロス。 外見は十代前半の、儚げな美少年。だが、彼が発する気配は、バラムのような熱量も、イシュタルのような鋭さもない。ただ、そこには「底知れぬ穴」が開いているかのような、空虚な重圧だけがあった。
「ゼロス殿。……貴公には、見えているのか?」
アル・ザヒドが、敬意と警戒を込めて問う。
「……見えている、っていうのかな。……そこだけ、何も無いのが『視える』んだ。……透明な何かが、街を少しずつ食べてる。……もう、何百人分かの記憶が、この世界から消えたよ」
ゼロスは感情の欠落した瞳で、窓の外を見つめた。
「……王様が、ボクに『掃除』を頼んだ。……だから、ボクが行くよ。……みんなは、ここにいて。……行っても、ボク以外はみんな『消えちゃう』から」
少年の小さな背中が、広間から消える。 それは歩いて去ったのではなく、空間から自身の存在を一時的に「無」にすることで、瞬時に移動したのだった。
都の北東区画。 そこには、今や「不可視の巨塔」が実体化しつつあった。 反王同盟が神話の時代から掘り出した禁忌の兵器の一つ――『虚無の法典(コード・ゼロ)』。 それは敵を殺すための武器ではない。世界を構成する「星韻(せいいん)」の記録を逆走させ、事象を「最初からなかったこと」に書き換える、概念消去の極致である。
塔の周囲には、人型の「透明な影」たちが蠢いていた。 彼らには顔も、声も、意志もない。ただ、触れたものを虚無へと引きずり込む、自動的な抹消装置。
「……いらっしゃい。……ボクと同じ、空っぽな人たち」
建物の屋上に、ゼロスが立っていた。 彼の周囲だけ、侵略者たちが放つ「消去の波動」が効力を失っている。 いや、効かないのではない。ゼロスという存在自体が「究極の虚無」であるがゆえに、敵が消そうとする「実体」が、最初から定義されていないのだ。
「……王様は、この都が好きだよ。……だから、ボクも、ここを守らなきゃいけない。……でも、ボクは守るのが下手だから……」
ゼロスが、腰に下げた短刀を抜く。 王権具の一端を担う武具――『虚無の剃刀(ニヒル・エッジ)』。 それは斬るための刃ではない。対象を「存在しない」という定義で上書きするための触媒である。
「……消えていいよ。……君たちは、ボクが食べる」
透明な侵略者たちが、一斉にゼロスへと襲いかかる。 触れられれば、一国の王であっても記憶から抹消されかねない、死よりも残酷な一撃。
だが、ゼロスは避けなかった。 彼が軽く指を鳴らす。
「神理昇華(しんりしょうか)――【虚無世界・白紙のページ(タブー・ラサ)】」
瞬間、ゼロスを中心に、世界から「色」と「音」が失われた。 半径数百メートルが、完全な純白の空間へと変貌する。そこには建物も、大地も、空もない。ただ、ゼロスという「無」の意志だけが支配する、定義以前の領域。
侵略者たちは、困惑した。 彼らの『存在消去』は、存在するものを消す力。だが、この白白(びゃくびゃく)の世界には、消すべき「存在」が何一つ残っていなかった。
「……ボクの世界では、ボクが決めたこと以外、何も存在しちゃいけないんだ。……君たちの法典(コード)も、君たちの歴史も、君たちの主の野心も……」
ゼロスが、透明な影の首筋に手を置く。
「……全部、無かったことに、してあげる」
ゼロスの手が触れた瞬間、透明な影の内部で、数千、数万という「消し去られた人々の記憶」が、ノイズとなって溢れ出した。消されたはずの兵士の名前、忘れられたはずの会話、失われたはずの風景。
それらを、ゼロスは無感情に飲み込んでいく。
「……うるさいな。……そんなに、世界に残りたかったの? ……ボクには、分からないよ」
ゼロスが短刀を振る。 それは、白紙のページに書かれた「間違い」を、インクごと削り取るような動作。 「透明な塔」の根幹を成していた概念が、ゼロスの虚無によって上書きされ、崩壊を始めた。
「……虚無に、吼える権利なんて、ないんだよ」
ゼロスの瞳が、一瞬だけ深い闇色に染まった。 その瞬間、白紙の世界が弾け、現実の都へと戻る。 そこには、もう「透明な塔」も、侵略者たちも、その欠片すら残っていなかった。
戦闘が終わった。 都には再び、何事もなかったかのように穏やかな空気が流れている。
ゼロスは、夜の公園のベンチに座っていた。 彼の腕の中には、透明な侵略者から取り返した「名もなき兵士」の槍が一本、ぽつんと置かれている。
「……王様。……掃除、終わったよ」
背後に、アル・ゼノンが静かに現れた。 王は、戦場に残されたわずかな「無」の残滓を感じ取り、満足げに目を細める。
「……よくやった、ゼロス。貴公でなければ、この透明な毒を止めることはできなかっただろう」
「……ねぇ、王様。……ボクに消された人たちは、どこへ行くの? ……ボクが食べた記憶は、ボクが死んだら、どうなるの?」
ゼロスの問いに、ゼノンは答えなかった。 代わりに、王は少年の小さな頭を、大きな手で優しく撫でた。
「……案ずるな、ゼロス。貴公が忘れても、余が覚えている。……余が覚えている限り、この世界に『本当の虚無』など訪れはしない」
「……そっか。……王様は、欲張りだね」
ゼロスは、少しだけ安心したように目を閉じた。 彼が取り戻した兵士の槍は、王の力によって、持ち主の家族の元へと「最初からそこにあったかのように」戻された。 明日になれば、消えたはずの兵士は、再び家族と食卓を囲むだろう。彼が一時的に消えていたことを知る者は、この都に二人しかいない。
しかし、宮殿に戻ったゼノンを待っていたのは、イシュタルによるさらなる凶報だった。
「王よ。ゼロスが処理した『虚空の法典』……。その発動データが、ガリアの跡地を経由して、西の『反王同盟』の本部へ送信されていました。……彼らは、自分たちの兵器が破れることさえ計算に入れ、ゼロスの『虚無の波長』を記録したようです」
「……ふむ。余の部下の力を、自分たちの兵器に取り込もうというわけか」
ゼノンは玉座に腰掛け、頬杖をついた。 「透明な侵略」は、あくまでテストに過ぎなかったのだ。 反王同盟は、最強の王に立ち向かうために、王の部下たちの力を解析し、模倣し、それを超える「メタ・レガリア(対王権具兵器)」を創り出そうとしている。
そして。 空に浮かぶ「黄金の巨神兵」の栓。 そこから漏れ出す黒い影が、ゼロスの戦闘によって生じた空間の歪みに反応し、より色濃く、不気味に脈動し始めていた。
「同盟の知略と、ゼノビアの混沌……。ようやく、余の茶が一口で終わらない程度の、面白い盤面になってきたな」
ゼノンが指を鳴らすと、アイオン宮殿の全域に、再び緊急招集の鐘が鳴り響いた。
「十二翼よ。……そして、四天王たちよ。……これから、世界は『コピー』と『混沌』に埋め尽くされる。……貴公らという『唯一無二』が、どこまで輝けるか……。余に、その真価を見せてみろ」
王の咆哮に、二十八人の翼たちが、夜の闇を突き抜けるほどの星韻を爆発させた。
日常は、もう戻らない。 エテルナは今、本当の意味での「戦国」へと突入したのである。
第九章:【鏡の中の翼、模倣される英雄】