ラビットキラーは基本毎日営業している。
一通りの事務作業を終えた優斗はフロアに姿を現す。
開店まで、まだ少し時間がある。
店内は静かで、空気は開店前の緊張と落ち着きが混ざったような色をしていた。
カウンターのグラスがきちんと並べられ、布で一つひとつ磨かれていく。
金属が擦れる乾いた音だけが、静かな店内に響いていた。
テーブルの上では、布で丁寧に拭かれた皿や備品が規則正しく整列している。
椅子の角度も微調整され、光の加減でわずかに影が揃うように工夫されていた。
高い位置に設置された照明が少しずつ調整され、客が座ったときに目が眩まないように光を落としていく。
フロアの端を歩きながら、無言で目線を巡らせ、気になる箇所を素早く直す影のような存在もいる。
フロアにある小さなステージ横では、機材のスイッチが一つずつ確認され、マイクの音量が慎重にチェックされている。
衣装や小道具も整えられ、鏡に映る全体のバランスを確認する手が慌ただしく動く。
バックヤードでは、在庫表や備品のリストがめくられ、足りないものや余分なものが再確認される。
必要な物が揃うと、静かに元の場所へ戻される。
鏡の前では、姿勢や角度を確認しながら、細かい手直しが繰り返されている。
何度もやり直されるたびに、少しずつ“完成形”が形作られていく。
店内全体が、それぞれの作業によって静かに整えられていく。
互いに言葉を交わすことはなく、音も少ない。
しかし、すべての動きが自然に噛み合い、店は確実に開店の準備を終えようとしていた。
静かに揺れる空気の中で、時計の針が次の時間を刻む。
営業開始の合図は、まだない。
ただ、すべてが着々と動き、まるで息をひそめて何かを待っているような店の空気だけが、そこにあった。
カウンター奥に立つイチゴは、タブレットを手にフロアを見渡している。
冷静で無駄のない動きで、各テーブルやカウンター、ステージ横の機材まで目を走らせていた。
視線を送るだけで、キャストたちは自然と体を動かす。
「グラスはここで揃えて、角度をもう少し…」
「ライトの高さ、あと二段階落として」
声は小さい。だが、空気に緊張が走る。
キャストたちは言われた通りに動き、手早く調整を済ませる。
誰も声を荒げず、誰も焦らない。
ただ、イチゴの指示に合わせて、フロア全体が静かに整えられていく。
優斗は無言で見守る。
イチゴの手元のタブレットが微かに光るたび、フロアが少しずつ理想の形に近づいていくのが分かる。
その背中には、彼女がこの店の“芯”であることが現れていた。
どれも無垢で、なんとも微笑ましい光景だった。
長い間、彼が見守ってきたこの店の一部が、目の前にきれいに並んでいる。
だが、同時に優斗の胸の奥はずしりと重たかった。
「まるで別人の様だな……。」
この微笑ましい日常の裏側で、全員が裏の仕事に関わっているのだ。
裏で進む危険な取引、秘密のやり取り、時には人を動かすような行為――
表の準備の笑顔の陰に、確実に犯罪行為が潜んでいる。
心の中で小さく頭を抱え、息を整える。
目の前の光景は無垢で愛らしい。
でも、裏の顔を思うと、どうしても笑えない。
微笑ましい光景と、背後に潜む暗さが交錯して、優斗の心をぎゅっと締め付ける。
それでも、店は今日も動き続ける。
静かな足音、布の擦れる音、微かに流れるBGM――
すべてが“普通の日常”として存在しているように見える。
優斗は僅かに肩をすくめ、微笑みを浮かべた。
この光景を守りたいという気持ちと、全員が裏で犯罪行為をしている現実との狭間で、
小さく頭を抱えながらも、フロアを見つめ続けた。
――今日も、問題なく回るだろうか。
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「ボス!おはようございます!」
元気な声に、優斗は思わず目を向けた。
アルバイトで働くミカンが、笑顔を浮かべながらこちらを見上げていた。
小柄で、身長は平均より少し低めだが、動きは軽やかで活発に見える。
髪は肩までのストレートで、柔らかく揺れる栗色の髪は、フロアの光に反射して温かい印象を与える。
瞳は明るい茶色で、好奇心と元気にあふれ、表情の一つひとつに真面目さが滲んでいる。
彼女は現在大学生で、この店の裏の事情を唯一知らないキャストだ。
「フロアもステージも、チェック済みです!抜かりはないはずです!」
声は明るいが、言葉の端々にはきちんと確認を怠らない慎重さが混ざっている。
誰にでも笑顔を振りまくタイプではあるが、やるべきことはしっかりこなす――そんな印象だ。
その真面目さと無邪気さが合わさった雰囲気に、優斗は自然と胸の奥が温かくなる。
「うん、ありがとう。」
優斗が静かに微笑むと、ミカンは元気よく頷く。
「はい!今日も頑張ります!ボス、応援してくださいね!」
ミカンの元気な声に微笑み返す優斗の視線の先で、フロアの空気がさらに華やかに揺れた。
「おっと、ボス、ここで何してるんですかぁ?」
明るい歌声とともに、優斗の腕に抱き着く女性。
鮮やかなピンク色の制服に、ふわりと揺れる長い髪。
小さな笑顔と大きな瞳が、まるで店全体に光を撒き散らすかのように輝いている。
彼女の動きは自然で華やか、見るだけで場が一気に明るくなる。
「モモ。おはよう。腕を話してくれ。」
モモはラビットキラーの“店内アイドル”として知られる女性キャストだ。
店内では給仕や接客もこなすが、主にミニライブやパフォーマンスで注目を集める。
性格は明るく、無邪気で人懐っこいが、仕事に対する意識も高く、ステージや演出の確認には真剣そのもの。
常に前向きでエネルギッシュな姿勢は、フロアの空気を一瞬で和ませ、ほかのキャストたちにも自然と影響を与える。
店外ではソロアイドルとしても活動しており、その才能と魅力はラビットキラーの枠を超えて評価されている。
優斗の言葉に、モモは小さく跳ねるように笑った。
「しょうがないなぁ……まっ、後でミニライブのチェックも一緒にやろうね、ボスも見ていてね!」
優斗は軽く頷きながら、フロアの整った様子を目で追う。
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ガラスの扉が開き、店内に最初の光が差し込む。
オープンの合図と同時に、フロア全体の空気が一気に動き出した。
イチゴはカウンター奥から鋭い視線でフロアを見渡す。
その背中から、優斗には「今日もこの店は大丈夫だ」という安心感が伝わってくる。
ナツメは持ち場に立ちながらも、適宜フロアを巡回し、接客と軽い指示を両立している。
客が入るたびに、自然な笑顔で応対する。
ステージではモモが小さくジャンプしていた。
長い髪が光を受けて揺れ、笑顔を浮かべながら第一声を出すその瞬間、フロア全体が華やかに輝く。
客席からの視線が一気に集まり、店全体のテンションを引き上げていく。
ミカンは少し緊張した面持ちで最初の客に笑顔を向け、丁寧にメニューを渡す。
元気で真面目な性格そのままに、気配りを忘れず、声も明るく響く。
その姿を見て、優斗は胸の奥で小さく安堵した。
カラン、カランとベルの音が鳴り、客が次々と入店する。
常連客の顔が次々に入店し、初めての客も口コミを頼りにやって来る。
その数は日によって違うが、オープンと同時に埋まり始めるフロアは、常に活気にあふれている。
フロア全体がリズムを持って動き始める。
イチゴの指示は最小限でも正確に通り、キャスト達は柔軟に動く。
優斗は少し離れた場所から、その光景を静かに見守る。
笑顔と声、動きのすべてが揃い、店は“生きた空間”として動き出した。
表向きの華やかさと裏の重み――すべてを抱え込みながら、この瞬間、ラビットキラーは確かに開店した。
ラビットキラー――表向きはうさ耳コンセプトのバーに過ぎない。
だが、優斗が見守るフロアの空気は、ただの“小さな店”のものではなかった。
店の外観やうさ耳の可愛らしさだけではなく、キャストたちの接客やパフォーマンス、居心地の良さ――
そのすべてが客を惹きつけ、リピーターを生み出す理由だった。
小さなバーにしては、少し不釣り合いなほどの熱気が、今日も店内を満たしている。
優斗はその様子を見て、内心少しだけ苦笑した。
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店内には、営業終了後の静寂が重く沈んでいた。
グラスを拭く音、椅子を整える音、掃除機の低いうなり声――
小さな作業音だけが、冷えた空間にぽつぽつと響く。
イチゴはカウンター奥からゆっくりと視線を動かし、モモに向かって言った。
「モモ、少しいいですか?」
モモは一瞬表情を凍らせ、腰を折るようにして頭を下げた。
「はい。イチゴ様。」
声には従順な震えがあり、いつもの華やかさは完全に消え失せていた。
二人は別室へと移動する。
部屋の灯りが、二人の影を長く伸ばし、空間に冷たい緊張を落としている。
「モモに”依頼”があります。依頼内容はこちらです。」
イチゴの言葉は柔らかく響くが、底にある冷たさが、指示の重みを際立たせていた。
彼女に渡された資料に目を通したモモは小さく頷き、低い声で応える。
「承知しました……。」
彼女の動きは静かで、正確で、まるで影が床の上を滑るようだった。
普段の元気な笑顔は消え、イチゴの命令に従う影のような存在になっている。
話を終えた二人は再度フロアへと戻って片付けを再開する。
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イチゴは淡々とフロア全体を見渡し、目立たぬように次の指示を考えている。
モモはその横で、無言で作業を始める――
その場の空気は重く、冷たく、表向きの片付けの音だけが無機質に響いていた。
フロアの明かりが二人の背中を照らす中、静かで張り詰めた時間だけが、そこに流れていた。
モモが衣装の整理に集中していると、背後から明るい声が聞こえた。
「モモさん!お手伝いしますよ!」
ミカンだった。
大学生らしい元気な声と、まだ少し慣れない手つきでグラスを拭く姿――
モモはふっと肩の力を抜き、普段の明るい笑顔を取り戻す。
「うん、ありがとう。」
モモは手を止め、そっとミカンの頭に手を置き、柔らかく撫でた。
「頑張ってるね、偉いよ」
ミカンは驚きつつも、にっこりと笑う。
「えへへ、ありがとうございます!」
モモの瞳には、ふと普段のフロアとは違う穏やかな光が宿る。
ミカンの純粋さが彼女の心を少しだけ柔らかくする。
「いつか私もモモさんみたいになりたいんです。」
「……それはどうしてかな。」
「モモさんって人を元気にする力がありますから!私もモモさんに救われた一人ですから!」
「あはは、大げさだよ。」
その後、談笑を交えながら作業をする二人。
片付けもほとんど終わり、時刻は深夜0時過ぎ。
「もうこんな時間だし、ミカンは退勤して大丈夫だよ。私はまだ少しやることがあるから。」
「大丈夫ですか?私まだまだ手伝いますよ?」
「大丈夫。イチゴさんもこの後来てくれるし。」
「ならお言葉に甘えさせていただきます!」
笑みを浮かべて手を振るミカンを微笑ましく感じながら、モモは一人で作業を再開する。
「私みたいになりたい、か……。」
モモは呟く。
それは、無邪気な笑顔の裏に潜む、微かな冷たさを伴った言葉だった。
ミカンの純粋さを前にして、心の奥でくすぶる影を、自覚せずにはいられなかった。
彼女の手は衣装の端を掴んだまま止まり、指先がわずかに震む。
「私みたいな犯罪者には、ならないでほしいな……。」
モモは小さく呟き、視線を床に落とす。
片付けの音が静かに響くフロアで、言葉は誰にも届くことはない。