小柳香穂は、自室で一人頭を抱えていた。
目の前には彼女の全財産が、財布から出された状態で並んでいた。千円札が44枚と、小銭が少々。学生の所持金としては十分すぎると言える。
それも、彼女の金遣いに対してはあまりにも心許なかった。
彼女のコスプレ趣味は高校に入ってからさらに熱量を増していた。衣装製作の手技が高まるにつれ、コスプレを自身のイメージに近づけるためにはあらゆる素材が必要になっていったし、SNSのフォロワー数も増えていっている今、金がないからと妥協もしたくない。
彼女自身が着る衣装だけでなく、他のモデルに着せるものも作らなければいけなかった。そのモデル、琴紗月は金にはうるさいので、最低5万円は出演料として渡さないといけない。
(顔とスタイルはいいので、香穂のSNSアカウントの知名度向上にはいたく貢献してくれるのだが)
とにかく香穂にはコスプレ活動を続けるための金が足りなかった。
学校はアルバイト原則禁止のうえ、小遣いの前借りも期待できそうにない。
こうなれば取りうる手段は一つ。
「周年日、一撃狙うしかない!」
周年日とはパチンコ屋の創業記念日だ。こういう日は年一回のお客様感謝デーということで、スロットの設定が入り、パチンコの釘も甘くなる。一攫千金を狙う絶好の機会だった。
周年日に客から巻き上げるようなパチンコ屋は一生出さないので、仮に負けたらその店には二度と行かない方がいい。爆サイにもちゃんと書き込んで、第二第三の被害者を出さないよう啓発することも忘れないで欲しい。
机に置いたカレンダー、8月9日土曜日のところに自身で付けた赤丸を睨み、香穂は寝室で眠る家族に聞こえないよう気合を込めつつ小声でツモるぞ!と叫んだ。
◇
決戦の日は訪れた。香穂は厚めのメイクに大きめのサングラスと金髪のウィッグ、威圧感すら放つギャルギャルしい服装に身を包み、高校生とバレないよう「彼氏の影響でパチンコ始めた大学生ギャル」感を演出していた。
彼女の狙いはモンキーターン。欲を言えば高設定が期待でき、かつ人目につきにくい内カドかカド2。
モンキーターンが座れないなら北斗か適当なジャグラー。それすらもダメならパチンコに一万円突っ込んで帰る。
香穂は静かに抽選のクジを引く。そして現れた番号に、思わず声を上げそうになった。
「008」
クジに印字された抽選番号は予想だにしなかった最高の数字だった。前の7人はおそらく東京喰種やマギアレコードやからくりサーカスあたりに駆け込むだろうだから、モンキーターンの狙い台はまず間違いなく座れるだろう。
抽選番号順の整列が始まるまであと30分。香穂はコスプレ仲間のグループラインへ、引き当てたクジの写真を送り
「勝ちました」
と一言書き添えた。
「ごちそうさまでした」「通報しました」「カバネリに離席札だけかけといて」
適当に送られてくる返信へリアクションを済ませ、香穂は穏やかな笑みとともにゆっくりとアイコスをくゆらせた。
そもそもなぜ高校生の彼女がパチスロなど打つようになり、あまつさえ未成年喫煙までしているのか。
全て、このコスプレ仲間の悪影響が原因だった。
コスプレイヤーはそこそこ喫煙率が高く、また最近は虐げられがちな喫煙者同士で連帯感が芽生えやすい。喫煙所の中で生まれた繋がりは自然と喫煙所の外でも力を持つし、喫煙所の中でしかなされない情報交換もままある。この喫煙所コミュニティへ入っていくために、香穂はまずアイコスを覚えた。
そしてその喫煙所コミュニティの中では、しばしばパチンコ、パチスロの話題で盛り上がることがあった。やれ無想転生が9連で終わっただの、神謀覚醒で100Gしか乗らなかっただの、サム出たのに外れただのと、パチトークは一度火がつくとなかなか鎮まらない。
蚊帳の外に置かれてしまう香穂に気を遣って、仲間の一人が「今度行ってみる?」と声をかけてくれたのが、きっかけだった。
連れられて並び打ちしたモンキーターン。それが香穂の人生初のパチスロだった。
彼女は初めて打った時のことを思い返しながら、2本目のアイコスを取り出した。
◇
これ、何が面白いの?
香穂は必死にバー図柄を目押ししながら、その言葉を何度も飲み込んだ。
増えないメダル、嵩んでいく投資額、うんともすんとも言わず同じような演出ばかり流す台。連れてきてもらってなんだが、パチスロの第一印象は最悪だった。
「もうちょっと頑張ったら面白くなるかもだから。ね?あと200Gで天井だからがんばって!」
仲間の一人が香穂の肩を叩いて励ます。彼女も彼女で天井まで連れて行かれていたが、そこはパチスロ歴の違いか割と平然としている。
これがまだ200G続くのか。これまでの道のりの長さを思い絶望していると、突然、台が強烈な振動を始めた。
何やらこれまで見たことのない演出が流れる。「何が起きてもバーを目押ししろ」との教えの通り、左リールの下段にバーが来るようボタンを押すと、バーは下段ではなく上段に止まった。
「は?香穂ちゃん中チェ引いてんだけど!」
中チェ、すなわち中段チェリーは1/16384の確率でしか出現しない激レアの出目だが、その分強力な恩恵をもたらす。
連れ打ち仲間たちが色めき立つが、香穂には何が起きているのか理解できていない。
「とりあえずATとVストック一個ね。天井回避したって思っておけばいいから」
「AT?Vストック?」
香穂は聞き慣れない(というか、何度も耳にしてはいたが意味が分からずスルーしてしまった)言葉をオウム返しにする。
「ATっていうのは「とりあえずメダルが増えるボーナスタイム」で、Vストックは「ATを一回必ず継続にするお助けアイテム」だよ」
要するに、この中段チェリーでATに突入し、とりあえずもう一回遊べるドンなのだと香穂は理解した。
ATを消化していくと、主人公の波多野とライバルの榎木の一対一の勝負演出が始まった。
「それたいてい負けるんだけどねー。今はVストックあるから大丈夫大丈夫」
仲間のその言葉どおり、波多野がレースを制した。
この時点で香穂の持ち玉は約200枚。投資分を取り返すにはあと何回これやらないといけないんだろう...。そんなことを考えていると、右隣に座っていた仲間の一人が目を剥いて「えぇっ!?」と声を上げた。
「ストック消費してないんだけど!」
「は!?!?!?」
何をそんなに騒いでいるのか理解できない香穂は、隣の突然の絶叫に驚きながらもおずおずとリールを回す。仲間たちは自分の台から立ち上がり、香穂を取り囲んでAT中の台を凝視する。
「これ逆襲の艇王じゃね!?」
「ギャンブラーでしょさすがに」
「開始画面榎木だったし艇王ある艇王!香穂ちゃん目押ししなくていいからもっと早く消化して!」
その時香穂は無感動にボタンとレバーを押していたが、今思えばその狂騒の理由も分かる。記憶をこのまま、あの時に戻れたらと思うこともあった。
二戦目の勝利の後もサブ液晶で燦然と輝く「V」のマークに、仲間たちは狂喜乱舞した。「艇王キターーーー!」と。ていおうって何?と疑問を差し挟む余裕は、もはや香穂にはなかった。完全に周囲のテンションから置いていかれていた。
その後も暴力的なゲーム数上乗せが続き、上位AT「青島SG」が15連したこともあって結果は大勝ちとなった。
換金所から差し出された16万円を受け取った時、香穂は初めて6桁の金額の物理的な重さを感じた。
ノリ打ちだったので彼女の手元に残ったのは3万円と少しだったが、それでも高校生がいきなり手に入れる金額としては大きすぎた。
◇
この成功体験、そしてパチスロ…もといコスプレイヤー仲間からの様々な助言(朝イチは機械割100%超えだの、合算ナンボのジャグラーに座れだの、差枚いくらの北斗が狙い目だの…)が、香穂を完全にパチスロの沼に堕としてしまった。
とはいえ彼女も学生なので頻繁に20スロは打てない。2スロや5スロでちまちまと遊びつつ、イベント日を狙い撃っていく稼働に落ち着いていた。
これによりだいぶ金回りが良くなったものの、困ったことがひとつ。千円札がダブつくようになってしまった。一万や五千円をサンドに入れては数千円の勝ち負けで終わるので、自然と千円札ばかりが手元に残るようになってしまったのだ。
パンパンに膨らんだ財布は見栄えが悪いのである程度自室の机にしまっているが、何かのきっかけで家族に見つかると面倒臭そうだと思う。
何より学校にバレたら停学をくらいかねないが、アルバイト禁止の中、合法的かつ能動的に資金を増やすにはこれしかなかった。
「整列始めまーす、抽選番号1番から30番の方、お並びくださーい!」
8番のクジを握り締め、香穂はパチ屋の入り口前に歩み出た。前にも後ろにも、並ぶのは中年男性ばかり。
嫌だなぁ、目立つじゃん。おっさんに囲まれてギャル一人って。
そう思いながら、香穂は少しだけ可笑しくなってクスッと笑った。大なり小なり目立ちたくてコスプレをしている自分が、コスプレしながら目立ちたくないと思うのは、何か矛盾しているような気もした。
そんなことを思いながら、今日は勝てる気もしてきた。パチスロにおいて矛盾は“激アツ”なのだから。
◇
狙っていた内カドの台には難なく座ることができた。
サンドヘ千円札を10枚入れる。20スロでは千円など秒で飲み込まれるのだから、使い切るたび都度入れるよりさっさとまとまった金額を入れる方が財布の出し入れが少なくて良い。一万円刻みで入れていった方が投資額の管理も楽だ。
そしてレバーを叩くと
「優出モードッ!」
勇ましいBGMとともに、モンキーターンの主人公、波多野憲ニの声が大音量で鳴り響いた。
1ゲーム目でこの「優出モード」に突入する現象はそのまま「即優出」と呼ばれる。AT突入濃厚の激アツ展開だった。
きちゃぁぁ、と香穂は思わずガッツポーズをした。彼女には門限があるので終日打ちっぱなしはできない。ある程度の枚数が出たところで打ち切るつもりだったので、願ったり叶ったりの展開だった。
とはいえ油断はできない。
ここからATがたいして奮わずに終われば、せっかくの即優出も無駄になってしまう。
モンキーターンのATは簡単に言えば「8つのレースを勝ち抜くこと」で出玉が増える仕組みになっている。勝ち抜きなので負ければそこで終了だ。
一つ一つのレースには勝率(ここでは継続率という)が設定されており、一番低いもので2%から、最高で100%、すなわち勝利確定のものもある。
そしてその継続率はATの「シナリオ」で決められており、AT突入時点でどのシナリオになるかは台の中で行われる抽選により決められる。
全戦継続率100%の「艇王」や、100%と10%のレースが交互にやってくる「ギャンブラー」、全戦50%の「艇界のヒロイン」など、シナリオは全部で14種類ある。各シナリオにはそれぞれ選択率があり、「艇王」のような強いシナリオは選択率0.6%なのでなかなか目にする機会はない。
全14種類あるシナリオのうち、選択率が高いうえに初戦の継続率が10%しかない「駆け出し」「遅咲き」ばかり引かされるのが、モンキーターンの定番の負け筋だ。
優出モードが終わり、ATが幕を開ける。
レバーとボタンを叩く右手に、アイコスを握る左手に力がこもる。いいシナリオであってくれ、そうでないなら(いや、そうであっても)レア役で恩恵をくれ、と香穂は祈り倒していた。
AT中の特殊演出が流れ、画面上に映るアイコンの色が黄色に変わった。このアイコンの色によって当該レースの継続率が示唆されており、黄色なら50%以上だ。
1戦目、V図柄揃いからVストック獲得に繋げて勝利。続く2戦目も、Vストックの助けはなかったものの勝利。
そして3戦目、継続率を示唆する画面上のアイコンは赤だった。赤なら継続率80%以上。たまに外れることもあるが、一応安心できる数字と言って良い。
3戦目の最中、レア役から「ぶっちぎりバトル」に発展した。抽選で選ばれるライバルキャラと波多野の一騎打ちで、波多野が勝利すればVストックやゲーム数上乗せ等の恩恵を得られる。
選ばれた対戦相手は蒲生。勝利期待度は数ある対戦相手の中でいくらかマシ程度。
まあ継続率80%だしここは負けても許してやるか…とアイコスの吸い殻を灰皿へ放る。
「ブッちぎるぜぇ!」
香穂が心の中で張った予防線とは裏腹に、画面の中の波多野が虹色に輝いた。
続く報酬の告知パート。まあ30くらいの上乗せでしょ、連旋いかないかなーと香穂は何とはなしにプッシュボタンを押す。
すると現れた「全速モード」のロゴが両断され、AT中最強の上乗せ特化ゾーンである「見せてやる!」が出現した。
香穂の尻が椅子から浮いた。
パチスロ中に訪れる予想外の好展開を「ケツ浮き」と言う、その意味を香穂は身体で理解した。本当にケツって浮くんだと思った。
「お姉ちゃん、ヤバいねー。なんか遠隔とかしてもらってる?」
ふと、右隣から声がかかった。どこかで聞いたようなその声の主に視線を向けると、そこには彼女の高校の国語教師、茂木摸がいた。
汗なんだか皮脂なんだかよく分からないが常に濡れそぼっている薄い髪の毛と、ベルトにドッカリ乗る腹の脂肪、普段から何かと馴れ馴れしいその性格。生理的嫌悪感を催してしまう諸要素と名前のもじりから「キモ」とあだ名が付けられている、不人気教師だった。
ケツ浮きから一転、香穂は息を呑んだ。全身から冷や汗が噴き出る。
よりにもよってパチ屋で隣に座ってきたのが自分の学校の教師で、しかもこうして知り合いでもない人に話しかけるタイプだった。
その口ぶりから香穂のコスプレは看破されていないだろうが、長居するほど何がきっかけで勘付かれるか分かったものじゃない。
バレたら停学。最悪の未来予想図が彼女の脳内を駆け巡る。
「ん?お姉ちゃん顔色悪いよ?店員さん呼ぶ?」
「あー大丈夫大丈夫です!ちょっと徹夜でーえへへへ…」
香穂は祈りの方向性を変えた。上乗せとかもういらないので、1000枚くらい出たら帰るので、なんかいい感じにこのAT終わらせてくださいと。
ただ、終わりたい時に限って終わらせてくれないのがパチンコ・パチスロの常でもある。
「見せてやる!」で300G乗ってしまい、それを消化している間にレア役を引いてきて、バトルに発展して勝利しては上乗せが追加される悪(?)循環に陥ったのだ。
その上乗せのループに囚われている間も、キモはダル絡みを続けてくる。
「えーそれ50Gも乗るの?浜岡なんていつも20しかくれないのに」
「うわ、さらに強チェ引くんだ〜欲張りだねぇ」
「見てよこれ〜。洞口親父に負けるとかある?」
へぇーとかはぁ、とかはいとかの相槌に留め、なるべく最小限のコミュニケーションに徹しているが、キモの猛攻はとどまるところを知らない。
黙ってろキモ豚野郎。独り身はパチ屋しか行くとこねえのか。お前の台だけ朝イチで6周忌逝け。いや6周期も打たなくていいから早く帰れ。
心の中で渦巻く悪口を抑えながら、香穂は全身全霊で残りゲーム数を消化した。
そして継続率80%の3戦目は突破し、次なる4戦目。
現れた継続率のアイコンを見て、香穂は絶望した。
4戦目の継続率も80%以上だったのだ。
1戦目の継続率はVストックを消費していたことから100%以外のいずれか。かつ3戦目、4戦目ともに80%以上となるシナリオは二つしかない。
「最強のB2か愛知の巨人…」
シナリオ「最強のB2」は1戦目以外すべて勝利確定。
一方で「愛知の巨人」は6戦目まではずっと継続率80%、7戦目のみ50%だが、その7戦目のニブイチを制すれば8戦目は勝利確定となる。
モンキーターンのATは8戦目を勝利することで、さらなる出玉獲得の契機である特殊シナリオ「エキシビションレース」と上位AT「青島SG」へ繋がる。
こういう時に限って何でこんないいシナリオ引っ張ってくるのか。
長丁場になりそうだった。それまでキモに対し、この至近距離で正体を隠したままやり過ごせるだろうか?
――もう持ち玉1300枚あるんだから、AT中だろうと何だろうとやめればいいじゃない。
そう囁く声が微かに聞こえた気がした。パチ屋はうるさいので幻聴がよく聞こえるのだ。
しかし考えてもみて欲しい。ここで続ければほぼ間違いなく2,000枚、多少上振れるだけで4,000枚だって行くだろう。4,000枚得られた未来を諦めて1,300枚でオリるのは2,700枚の欠損だ。2,700枚とは54,000円だ。54,000円は琴紗月を丸一日好きにできる金額だ。いやいやこの調子で万枚出せば紗月にセットでれな子と紫陽花も付けられる。このシナリオは悪くても「愛知の巨人」なのだから。あぁ、真唯は金でなびかないのが口惜しい。コンプリート(19,000枚獲得による台の強制終了)させたらワンチャンあるかな?5人でおそろのコスプレしようよと言えば意外にノってくれたりしないだろうか。
皮算用に思索を巡らせながらもリールを回す手は止めない。スイカも取りこぼさない。
気付けばATは7戦目に入っていた。ここの継続率50%、ニブイチを通せば真唯の猫耳メイドビキニ尻尾付き。
皮算用に皮算用を重ね、もはや人に聞かせられない妄想の域に達していることに気付かず、香穂はレバーを叩く手に力を込めた。
しかし神は彼女の邪な野望を許さなかった。画面の中で波多野が僅差の敗北を喫する。
「うわぁ〜惜しいねぇ。復活もないかぁ」
キモが死ぬほどウザいコメントを残す。しかし香穂の目から闘志は消えていない。
7戦目までの継続にこれまでの上乗せが重なり、持ち玉は1,600枚を超えていた。
モンキーターンのATは差枚数1,600枚を超えて終了した時、上位AT「青島SG」の獲得を賭けたバトル演出「青島VS波多野」に突入するのだ。
本番はここからと言っても過言ではない。
「だいぶヒキ弱まってるんじゃない?代わってあげよっか?」
キモの呼びかけを手で制し、香穂は全身全霊を込めてレバーを、ボタンを叩いた。
そして数ゲームの後、画面が虹色に明滅するペンギンの絵で満たされた。「青島VS波多野」を制したのだ。
ふーっ、と香穂は安堵のため息とともにアイコスの煙を吐き出す。
「うおー、通しちゃったよ。すごいなあ。やっぱ店長ボタンとかあるのかな?」
キモはvapeのミストを吐き散らしながらゲハゲハと笑う。自分の台まで覆う大量のミストと強烈なベリーの臭いに香穂は一瞬顔をしかめたが、どもども、と目線を合わせず愛想笑いで応じる。
さっきからキモは大してリールも回さず香穂の台ばかりを見ている。香穂はATを400ゲーム以上回していたのに、キモの台は200ゲーム程度しか回っていない。
…いや、見ているのは台なのか?
嫌な予想が香穂の脳裏をかすめる。
彼女の今日の服装はいささか露出が多い。ギャルというコンセプトと、真夏の炎天下に抽選で並ぶ事情もあってのことだが、薄着を通り越してだいぶ無防備な服装だと言わざるを得ない。
恐る恐る、視線をキモの方へ向ける。そんなことをしても何も良いことなどないことは分かっていた。「嫌な予想」が当たっているか、外れているかを確認しても意味はない。予想が当たっていたところで、上位ATへ突入したこの台から離れることはできないし、外れていたとしても結局不快なダル絡みの憂き目に遭うことは変わらない。
しかし確かめずにはいられなかった。この恐怖の原因を確かめなければ、何かが危ういような気がしたのだ。
結果として「嫌な予想」は的中していた。いやらしさを隠す気もなさそうなニヤけ面、vapeのミストがだらしなく漏れ出る口元、伸びきって色褪せたシャツの脇に滲む汗、なぜか股間の上に置いたままの右手。そのどれもが不快感を掻き立てるには十分すぎたが、何より香穂の胸元を凝視するその目が、この上ない嫌悪感をもたらした。
再び冷や汗が全身から滲んできた。先ほどは停学や補導のリスクに恐怖した、いわば社会的な危険を恐れての冷や汗だったが、今出ている汗は身体的な危険へのアラートと言えた。
コスプレをやっていると多かれ少なかれ似たような視線を受けることはあるが、観客やカメコがここまでの至近距離に来ることはないし、万が一ヤバい事態が起きそうなら運営なり周囲の人間が対処してくれるので危険は少ない。
パチ屋も人はいるにはいるが、玉やメダルがジャラジャラと音を立てケンシロウが咆哮するこの騒音の中、多少の異変に気づいてくれる人が果たしてどの程度いるか。気づいてくれたとして、激アツの台を手放して面倒事に首を突っ込む人がどれだけいるか。
「ん?スイカ取りこぼしてるよ?」
キモの声に、香穂はびくりと身を震わせた。再度キモの方へ目を向けると、やはりその視線が胸元から動いていない。
香穂は言葉を返すことができなかった。言葉を交わし、会話を成立させることすら危険に思えた。
なかなかコミュニケーションに応じない香穂へ業を煮やしたのか、キモは強硬手段に打って出た。
「俺も第六感聴きたいなぁ〜ちょっと音量上げるね〜」
あろうことか、彼は香穂の台へ身を乗り出してきた。サブ液晶へ伸びた左腕が彼女の胸に触れ、全身に怖気が走る。
「嫌ぁっ!」
香穂は無我夢中でその腕を振り払うと、突然のことに身じろぎしたキモは椅子に座ったままバランスを崩し、そのまま反対側の列、モンハンライズを打っていたヤンキー風の男に向かって倒れ込んだ。
「ああああああああああああああああああああああああ!?!?!?!?」
キモが倒れ込んだ弾みでモンハンライズの右リールのボタンが押され、押し順ミスのペナルティとなる。
しかも始末の悪いことに、押し順ミスとなったのはAT継続がかかった小役抽選のパートだった。
台の中で先ほどまでハンターたちと死闘を演じていたティガレックスが、すごすごと森へ帰っていく。
ヤンキーのATは(ボーナスストックがなければ)そこで終了、この押し順ミスがなければATが継続していたかもしれないだけに、その損失は計り知れない。
ヤンキーは青筋を浮かべながら、床に倒れ込むキモの胸ぐらを掴み上げた。
「さっきからうるせーしくせーし、しかもこの欠損どうしてくれんだ!あぁ!?」
パチ屋の騒音の中でもしっかり響き渡る怒号。シマの全員の視線がヤンキーとキモに注がれる。
キモはごめんなさいごめんなさいと平謝りを繰り返すも、彼が真後ろでピーチクパーチクしゃべくっていたことで限界まで溜まっていたヤンキーの怒りは鎮まらなかった。
キモの顔面に見事な膝蹴りが入る。次いでヤンキーはキモの薄い髪の毛を掴み上げると、そのドタマをパチスロ台の液晶へ強かに打ちつけた。ガラスが宙を舞い、台からは「係員を呼んでください」と爆音のアナウンスが鳴り響く。
出禁はおろか警察沙汰の騒ぎになっていることも、顔のあちこちにガラス片が突き刺さっていることも構わず、ヤンキーはなおもキモの顔面を執拗に殴り続けていた。
この数秒間で一気に舞い込んできた大量の情報を処理しきれず、香穂の脳はフリーズしていた。
あれ、なんでこんなことに…?さっき青島SGに入って、そしたらありえんセクハラされて、押し順ペナして、ティガレックス逃がして、キモが台ごと半殺しにされて、あっフリーズって激アツだなぁ…。
現実逃避に入りつつあったのも束の間、彼女の脳は、バタバタと近づいてきた店員の足音に叩き起こされた。
マズい!と香穂は飛び上がった。トラブルの当事者として根掘り葉掘りアレコレ聞かれたら終わりだ。
香穂はサンドに入れた現金と持ち玉、下皿のアイコスをそのままに、一目散に逃げ出した。
◇
この騒ぎのせいで、香穂の本日の収支はマイナス1万円となった。いや、本当なら貰えていたはずの約2,000枚も貰い損ねたのだから、実質5万円の欠損だった。いや、あの流れは青島で爆連していただろうから10万円は損しただろう。
全部キモのせいだ。せめて再起不能になってくれますように。
香穂は今日3度目の祈りと共に蒸れたウィッグを取ると、河川敷に寝転がって空を仰いだ。彼女の気分とは裏腹な、雲一つない青空がなんとなく気に入らず、手元の雑草をぶちぶちとむしる。
「...あなた、こんなところで何してるの?」
偶然通りかかった紗月が、訝しげに声をかけてきた。不自然なまでにイカついギャルギャルした格好の同級生が、河川敷で場違いに一人黄昏ていたら、何事かと思うだろう。
「サーちゃん〜〜〜!」
勢いよく飛び上がって抱きつこうとしたが、軽くいなされてしまった。
「お願いだよ聞いてよ〜!今お金なくてさぁ、ひょんなことから10万なくなってさぁ、でもモデル欲しくてさぁ!!友達料金でどうにか助けてよ〜!」
「え、ちょっと、10万ってどういうこと!?」
血相を変えた紗月に、香穂は自らの発言のまずさを悟った。パチスロのせいで金銭感覚が麻痺していたが、10万は高校生がポンと失うような金額ではない。実際に財布から消えたのは1万なのだが。
「え、あぁーいや、コスプレの衣装の素材…と新しいミシンで10万吹っ飛んじゃってさぁ!ほら、最近の物価高で色々高いじゃん!?お年玉とお小遣いを前借りしたんだけどねぇ〜いやぁ〜不景気ですなぁ!えへへへはは…」
一応この説明で納得したのか、呆れた、と紗月は溜息を吐き出す。
「そういうことなら自業自得ね。あいにくだけど、私は時間を安売りしない主義なの」
「そこをなんとかできませんかねぇ…?」
「時は金なり、よ。貴重な時間を安く売ったら欠損じゃない」
にべもない。どうにか紗月を説得できそうな殺し文句がないか、パチスロで溶けた脳味噌でぼんやり考える。
しつこい交渉はごめんだと言わんばかりに、紗月は再度溜息を吐く。
「そんなにモデルが欲しいなら、他にもいるでしょ。甘織とか…」
それじゃ、と立ち去る紗月を目で追いながら、香穂は今しがた出てきた名前を反芻した。
れなちんか、れなちん…。絶対モデル慣れしてないけど、胸大きいし、あのキャラのあの衣装が着れる…?モデル料は3万で打診して…。全部千円札だけど許してもらおう…。ガチで千円札しかないし…。導き出される結論は…。
「アリじゃん!」
勝利の方程式が組み上がった。香穂は財布を入れていたハンドバッグを拾い上げると、甘織れな子へ着せる衣装のイメージを固めるため、ダッシュで自宅へ帰っていった。
◇
翌日、国語の授業にキモは現れなかった。大怪我で長期入院になった、とのことだった。代打の授業の用意も間に合わなかったので国語の時間は自習となった。
「ねえ知ってる?キモ、パチンコ屋でヤンキーに絡まれてボコボコにされたって」
「ウチら卒業するまで入院でいいっしょ」
「動画上がってるじゃん!ヤバ、台壊してるよ~」
「奥のギャルめっちゃダッシュで逃げるじゃん、ウケる」
その日はキモの噂話で持ち切りだった。やはりというべきかパチ屋のこの手のトラブルはしっかり誰かが動画に収めており、キモがティガレックスの代わりにシバかれている様はいわば伝説となった。
そしてその動画には香穂も映り込んでいた。コスプレ状態だったのと彼女へピントが合っていなかったのが幸いして誰にもバレずに済んだのだが、しばらくの間、学校で動画の話題が出るたび彼女は何度も冷や汗をかいたのだった。