――どうして、こうなってしまったんだろう……。
辺りには灰色の煙が漂い、パチパチと何かが弾ける音が聞こえる。
……その中に、私はいた。所々が焦げて擦り切れた小袖を身にまとい、私は呆然とへたり込んでいた。
赤く蝶のような火の粉が舞う中で、私は――既に一つのモノと成り果てた、それを抱く。
「……どうして……また、なの……?」
――あの時と同じように、大事な人達を奪われて……。
「……私に……“力”さえあれば……理不尽を吹き飛ばす……それどころか泣いて逃げ出す……そんな力があれば……」
――……こんな結末は……。
「こんな結末は、絶対に迎えないのに……」
その呟きは、燃え盛る炎の中に静かに溶けて……消えた。
――きっかけは、数刻前のこと――
師匠に弟子入りして、半年が経った。
生活は以前と、そう大きくは変わらない。師匠の稽古を受け、たまに妖魔退治して、お金を稼ぎ。家事に明け暮れる。
変わった点といえば、澪花ちゃんという家族が増え、家事当番が一人増えたことくらいだ。
師匠も、ただでもう一人ぶん指導するつもりは無いらしく、澪花ちゃんの修練は私が行っている。
まだ道半ばの私がしていいのか心配だったが、下手に教えられるより、教える方が学びが多いということもあるらしい。
特に近頃は澪花ちゃんも変装した姿も認知され始め、一人で買い物にいけるようになっていた。
最初は、どうしても半身包帯人間の姿は奇異の目を向けられた。だけど、私たちの仲間だと知られると、むしろ壮絶な顔があったのだろうと同情の目に変わった。
退治屋は変人の集まりのような認識があったのもあるかもしれない。変な偏見であるが、こればかりはありがたかった。
そのお蔭で、町中で唐突に後ろ指をさされる回数も、まぁ……二回に一回程度に落ち着いた。
今日もまた、一人で夕食の買い出しに行ってくれた。
対して私は、洗濯物を取り込んでいた。
空は快晴。まだ肌寒さは残るが、それでもジリジリと皮膚を焼きつける太陽は、昼前にはカラッカラに乾かしていた。
こんな天気の日は、日向ぼっこでもしてお茶を飲む。甘い羊羹でもあれば最高だ。
……もし仮に、師匠かこの場を通りかかっていれば、生温かい目を浮かばせたあとに、からかうネタが出来たとニヤニヤと笑うだろう。そう思うと、あっという間に唾液が引っ込んだ。
そんな順風満帆の日常を最近は謳歌していた。
だが、その日はいつもと違っていた。
……ふと、何か妙な胸騒ぎを覚えたのだ。
――なんだろう?この感覚……。
不思議に思って胸をさすりながら、洗濯物を畳もうとした、その時。
――ドォーンッ!!
突然、腹に響くような爆発音と共に、地面が揺れた。
私は慌てて庭へ飛び出し、音の発生源を見る。
するとそこには……信じられない光景があった。
「……な、何あれ……?」
私の目にまず映ったのは、これまで見たこともない規模の化け物だった。
その頭と胴体はナマズのようにずんぐりと、しかし岩のような甲殻に覆われ、そこから太く強靭な手足が生えている。
一番近いのは山椒魚……だろうか?それを数倍凶悪に、数百倍大きくしたそいつは、辺りの木々をなぎ倒しながら、ゆっくりと歩を進めている。
何より感じるのは圧迫感。
生物としての格が違う――魂が、警笛のようにそれを告げていた。
そして、
「燃えている」
稽古場から、炎が上がっていた。
目立つのは側面に空けられた黒い大穴。黒い煙を吐き出し、時々魔物のように焔が吹き出す。
中は見えない。だが、窓越しに揺れる赤い影が、内部の惨状を雄弁に物語っていた。
周りには散らばる小さな炎。だけどそれですら、地面を走り草木を焼いた。
あそこには師匠がいた筈。
なら、もう――
その思考を過ぎった瞬間、心の底で真っ赤な心火が噴き出した。
――茜刺しを呼び出し、心臓を刺す。
必要な事と目標だけを抽出し、単純な思考経路を構成。
激情のままに、一歩踏み出す。
だけど――
肩にポンッと軽い衝撃が走った。
咄嗟に振り返る。
「待って、僕だよ葵ちゃん」
「師匠……」
いつものように飄々とした態度で、彼はいた。
――生きてる。
その事実が何よりも心を満たした。
芯から煮えたぎらせた熱が急速に鎮静。それでも溢れる熱が、口から零れ落ちる。
「よかった……」
師匠は、目をぱちくりさせる。
だけど、すぐに真剣なものに変わった。
「とりあえずここから離れよう。あれに見つかったら火傷じゃ済まない」
それはそうだ。
私は、こくりと頷いた。
「……あれは、いったい何ですか」
少し離れた木陰。悠然と歩を進める化け物を覗きながら師匠に問う。
「あれは多分、竜だ」
――りゅう……龍?。
「……あの、空を飛翔する蛇みたいな化け物で、よく干支に描かれる龍ですか?」
その身に宿る威圧には納得するが、絵画に描かれる龍は細身で優雅。
対してあの化け物はまるで蛙。似ても似つかない。
懐疑的な目で見ると、師匠はあいまいにほほ笑んだ。
「当たらずとも遠からず、かな。僕が言いたいのは竜。トカゲに羽が生えた化け物のことでね。まぁ、それだけだったら当てはまらないように見えるんだけど、あれのちょっと背中の辺りに注目してくれる?」
そう言われ目を凝らしてみると、確かに存在する図体に見合わない矮小な羽。
黒い甲殻に覆われ、その羽は本来の機能を一切宿していない。
まるで、退化した不要物のよう。
「まぁ、だからどうしたって話だけどね。今確認すべきは種族ではなく、アレがどんな特性を持っているのか」
特性となると攻撃手段と、弱点。
戦闘を行ったわけじゃないから殆ど推測になるが、それでも今出せる情報は……。
「四肢が短い。全身を硬い甲殻で覆われている。あと空は飛べない……とか」
「付け加えるなら、あの外殻は僕の槍じゃ傷一つつかないよ。さっき試した」
「……それで、よく気づかれませんでしたね」
「いや、普通に気づかれたけど?」
「は?」
あの竜なる化け物は感覚が鈍いのかと思ったが、気づかれた?
さっきから同じ所をぐるぐるしているのは、そういう事なのか。
いや、だとしたら――
「まさか――」
「そのまさか。アレが道場に火を噴いたのは僕を狙って外したから。……いやー、参ったよ。とりあえず試さないと始まらないって足に一撃当てたら、ガキンっと金属音がするんだもん」
笑えませんよ。
家が燃えているんですよ。何で笑ってるんですか。いや、正確には居住区はまだ無事ではありますが……。
それでも、燃えていい所では――
いや、師匠を責めるのは違う。一番辛いのは師匠の筈だ。
師匠がアレに喧嘩を売って、その後どうなるかを想像出来なかったとは考えづらい。それでも試したのは、何か理由がある筈だ。
「……もしかして、アレは町を目指していたんですか?」
「……そうだよ」
そう問うと、師匠の顔から笑みが消えた。
「……だから、しばらくはここに釘付けにできると思うけど、気が済んだらあの竜はすぐに山を下りて町を襲うだろう」
「はい」
町全体が焼け野原になるという予感は、決して世迷い言ではないだろう。
「僕はアレに有効打を与えることができない故に、君が戦うことになる。……だから、君に選択肢だ」
師匠は、いつものように無機質な笑み。
両手で、一本ずつ指を立てる。
「ここで戦うか」
――それを選べば、町に一切の被害を出さず終わらせられる。その代わり、私に大きな負担がのしかかり、最悪死ぬだろう。
「応援を呼んで然るべき所で戦うか」
――それを選べば、万全な状態でリスクなく戦える。その代わり、町は焼かれる。
「どっちを選ぶ」
二つに一つ。
だけど――
「……ひどい人ですね」
私が選ぶ道なんて、そんなの決まってるじゃないですか。
「ここで戦う。師匠なら分かっていたでしょ?」
そのために、私はここにいるんです。
だから、話を続けましょう。あの竜を殺すための手段と作戦を。
…………
……
…
「――と、作戦は大体こんな感じ。合言葉は"あくまで無理はせず、退けるなら退いて、命だいじに"。分かった?」
「大丈夫です。とりあえず色々やってみて、あくまで無理をしないって事ですよね」
師匠は頷いた。
「まぁそうだね。じゃあ、僕は後ろに回り込むから、頃合いは葵ちゃんが決めて」
「はい」
私たちは互いに相反する方向へ向き、その場を離れる。
だけど数歩進んだ所で、胸に妙な違和感が走る。
私は振り返った。
「……あの」
どうしてそう思ったか分からないけど、
「――"命だいじに"。師匠も、ちゃんと心に留めておいてくださいね?」
ちょっとだけ不安が広がる。
「分かってるよ」
彼は後ろ手で、いつもの声で返事をし、その姿を消した。
……いや、気のせいだ。そんな事は頭の隅に捨てて、私のやるべき事をしよう。
――フゥー……
森の中に、小さな吐息だけが落ちた。
意識を完全に切り替え、冷たい殺意を表に引き出す。
「よし……」
まずは準備。"茜刺し"を呼び出す。
家の中、その寝室辺りに意識を向けて、一言告げる。
《"来て" 》
待つこと数秒。森を突き抜け、一つの影が飛び出した。
蜂のように鋭く私の胴体に狙いを定めた、"茜刺し"。高い推進力を持つそれは、数歩たたらを踏む。が、受け止めきれた。
――ハァー……
「……もうちょっと、安全に飛んで来てくれないかな」
常にゆっくり飛べとはいかないから、最後減速するとかして欲しい。
前なんか、目算誤って尻にぶっ刺さった。
半分、偶然に知った茜刺しの変な機能。呼べば飛んで手元に戻ってくる。
射線上のものを最短距離でぶち抜き制御できない所は欠点だが、いろいろと便利なので重宝している。
その時、背中を悪寒が駆け上がった。
――見られている。
咄嗟に振り返る。
森を抜けた向こう。
黒い瞳が、ギョロリと蠢いた。
師匠を出来るだけ待たせてはいけないと、横着した。思った以上に緊張していた。理由はいくらでも出る。
だけど、それは戦場ではあまり短慮だったと今更ながら理解した。
ガパリと、大口が開かれる。
すると、びっしりと並ぶ白蝋のような牙が露わになった。
飲み込み、すり潰すことに特化したような口は光さえ呑むようで、深淵のように暗い。
その奥で、小さな火が灯った。
――ズガァ゙ア゙ア゙ア゙ア゙ァ゙ァ゙ァ゙ァ゙ッッッ……!!?
数瞬前まで私がいた位置に、爆炎が広がる。
視界の半分が赤で染まり、衝撃が全身を震わす。
背中を熱波が灼く。
背筋が凍った。
地面を転がり、火が燃え移った上着を強引に脱ぎ捨てる。
間髪入れず、すぐ横に着弾。地面が火の海になり、黒い煙が視界を覆う。
見た目に似合わず正確な狙撃だ。避け続ける中で、あんぐりと口を開ける師匠の姿を捉えた。
"何やってるの!?"
"ごめんなさい。やらかしました"
身振り言語で謝罪の意を伝える。
そんな中、竜は炎で撃ち落とせないことに業を煮やし、巨軀を動かした。
すぐさま後ろへ跳ぶ。
前足が叩きつけられ、大地が揺れる。
粉塵が舞った。手形の通りに地面が陥没する。
"十秒稼いで。気を逸らす"
"分かりました"
どうやって気を逸らすかは考えない。
今考えるべきなのは、隙を作った時にどう行動するか。
竜に近づき過ぎず、何かあった時にすぐさま動ける位置で程々に引きつける。
そして――十秒。
一度、ビクリと震わし
――ガァア゙ア゙ア゙ァ゙ァ゙ァッッッ!!?!!
咆哮が世界を揺らした。
攻撃の為のものではない。驚愕と悲痛を帯びた壮絶な声。
――今だ!
私は地面を蹴った。迅速に、竜の懐に潜り込む。
狙いは樹齢百年の幹にも匹敵する、肉厚な前足。
全体重を乗せ、一息に振り抜く。
バギッ
鈍い音が響く。
手応えはかつてないほど重い。
だけどーー
「傷は付いた……!」
要塞のような甲殻に奔る、一筋の切れ目。
浅い……! だけど傷はついた。もっと命を込めれば深く入る。
茜刺しを握り直し、力を込める。
すると、鼓動が加速。著しい全能感が溢れ出る。
活力により全身を駆動させ、遠心力も乗せ回転。一寸の狂いもない同一位置に、絶え間ない三連撃を刻み込む。
特に最後の一閃。
これだけは他とは違う、わずかに引っ張られるかのような抵抗感。
振り切ると同時に、赤い雫が傷跡が滲みだし
――ブシャァァァーー!!
噴水のように噴き出した。
だが鮮血が降りかかる前に、私は後ろ足へと向かって駆け出した。
その途中、事前に交わした師匠との会話を思い出す。
「まず作戦の第一段階は、"攻撃が通るか否か確認する"」
第一段階は終了。一撃では無理だが三回当てれば、筋肉まで達する。
壁は高いが、出来ないことではない。少なくとも、最悪弾かれることを考えれば良好な結果だ。
そして、第二段階目は――
「"足を、完全に潰す……!"」
黒い体表に、深い裂け目を刻んだ。
中距離まで届き、範囲も広がる炎弾は厄介。
だが、あれは口から吐き出す必要上、首が短いあの竜は前方以外に炎を吐き出せない。
足を止めれば、あとはどうとでもなる。
動きは、当てたら別の対象へと向かい。場合によっては引き、対応させない。
肉を断つ感触に目を細めると、すぐさまその場を飛び退き、次へと狙いを定める。
後ろで今さっき傷つけた足が浮き上がり、大地を叩いた。
伝わる衝撃で足元が狂う。俊敏ではないが図体が大きい分、身じろぎ一つが致命的となる。
だけど、
「これで三本目!」
滴る血をふるい落とす。
巨軀を支える四本の柱の内、三本を切り伏せた。
竜はもう耐えられない。膝が折れ、崩れ落ちる。
迫る小山のような竜の腹。反撃でならともかく、それで潰されてはたまらない。
すぐさまその場を離れ、森の中に跳び込む。
ズシンッ……!と、今までで一番の轟音が世界を揺らした。
「……ハァー……ハァー……」
木を背に荒い息を整える。
幾度も死線を跨ぐ感覚。何度味わっても慣れるもんじゃない。
可能なら、今すぐにでも崩れ落ちて布団のお世話になりたい。
それだけの精神力が今の一合で削られた。
ポキポキ生木が折れる音が響く。
視線を向けると、案の定師匠の姿。水を投げ渡される。
「おつかれ。その脚は大丈夫なの?」
「……見た目は派手ですが表面だけです。動きには問題ありません」
そうは言うが、口に出した瞬間ジクジクと発する熱に目を細める。
……これは、残るかもしれないな。
一部は黒ずみ、焼け爛れた皮膚を撫でる。それだけで、肌はフケのようにボロボロと剥がれ落ちた。
ただの炎じゃない。多分油か何かを含んでいる。
だから着弾した後大きく弾け、簡単には消えない。
今までは掠っただけだからこの程度で済んだ。もし下手に見極めようと紙一重で躱していれば、今ごろ火達磨になっていたことだろう。
足へ、師匠から投げ渡された水をぶっかける。
じんわりと広がる痺れに、唇を噛み締める。
「……今すぐ医者に連れて行ってあげたいところだけど、そんな余裕は無いかね」
「……。」
師匠に釣られて竜に目を向けると、足の辺りから、薄く白い蒸気のようなモヤが出ていた。
それは、間違いなく再生の煙。妖怪の不死性の証であるその高い再生能力は、ものの数分とは言わずとも、時間を置けば回復されてしまう。
「……とりあえず、このまま放置する作戦は使えそうにないかな。足を潰したとはいえ、あの妖魔も馬鹿じゃない。悠長に戦っていれば何かしらの対策を講じてくるだろうね。」
「……そう、ですね」
となると、殺すしかない。
だが、私はあの大きさの妖魔の殺す術を知らない。だから知ってる妖魔を基準に考える。それで出てくるのは
「心臓を潰す。又は、衰弱死するまで削り切るが定石ではありますけど」
「どちらも、あんまり現実的じゃないよね」
あの図体だ。心臓があるらしき胸部は、甲殻も筋肉も特別厚い。そして、相当な魔力をため込んでいる。
体力を削りつくすにしても、どれだけの時間がかかるか。
どちらにしても、その前に私たちの体力の限界がくる。
「……一応聞きますけど、師匠はアイツの弱点とか何にも知らないんですよね」
「そりゃね。元々、ここら辺にはいない妖魔だもん」
お手上げだと言うように、ヒラヒラと手を振る。
「じゃあ、やるしかないですね。今ある手札で、今できる最善を取りましょう」
「と言うと?」
「基本的な方針は変えません。私が主に削るので、危ないときは先ほどのように師匠が気をそらしてください。そして、竜が隙を見せたら――」
狙うは、魔力中枢。
「私が、心臓を破壊します」
作戦としては一般的な妖魔退治のやり方を同時に行う。
心臓まで槍を届かすのに五回振るう必要があるなら、五回攻撃できる隙を作る。対応できない程度まで削る。
「そういえば師匠、槍はどうしたんですか?」
「あぁ、あれ?さっき竜の意識を向けさせるため、尻穴にぶっ刺したら抜けなくなったからそのまま置いて来た。……あぁ、どうせ今回の戦いじゃ使い物にならないから、別に心配しなくてもいいよ」
「……そうですか。その節は、ありがとうございます」
……まぁ確かに、後ろの穴は甲殻に覆われておらず、無防備。
だから師匠でも傷つけられ意識を持っていくことができる。だから流石師匠って言っても良いですが……
……そうですか、尻穴……。
後で槍が付喪神になって祟られても、文句いえませんよ。
…………
……
…
「グゥヴヴヴァ゙ゥ゙ゥ゙……」
竜は、意外にも崩れ落ちた場所から殆ど動かなかった。
傷が広がるのを防ぐためなのは分かるが、目まで閉じ完全な休養体勢に入っているように見える。
油断している?意図は分からないがやる事は変わらない。
木々に紛れ、様子を伺うと、地面を蹴った。
だが今、パチリと瞼が開かれ、金色の細い瞳を蠢かせる。
私の姿を、その瞳が捉えた。
竜の距離は、おおよそ二十歩。
そこで気づいた。
雰囲気が明らかに変わっている。
先ほどまでは、暴力のまま敵を撃退する獣のようだった。
でも今は――
『暴君』
その瞳に静かな荘厳さを湛えている。
私の姿を視界に入れてもなお、竜は動かない。
動いたのは十歩まで近づいたとき。
その頬が、ぶくりと膨らんだ。そう認識した瞬間には、上空へと液体状の何かを吐き出した。
唾液……?いや、違う!
先ほどまでの炎を思い出す。
あれは可燃性の何かを用いて、炎の範囲を広げていた。あれと同じ油のようなものだとしたら……
向かうは無防備な腹部。側面へ回り込むように、加速する。
私の側面を爆炎が駆けた。
――速い。
大きさはそこまでではない。人の頭くらいの火の玉と表現できる程度。だが、大きさに比例するようにひたすらに速い。
恐らく今のは、上空に撒き散らした油に気を取られた、又は逃れようと真正面に加速した私を狩るための高速弾。
私の遥か後ろで炸裂音が響く。
今回は偶然避けられた。でも、陽動を考えられる相手がこれで終わるとは思えない。
案の定、竜の右腕が動いた。
五本の指に鋭い爪。
手のひらを広げれば、私の身長を優に超えるだろう。
それが掴み取るかのように振り下ろされる。
咄嗟に跳び、槍を竜の手に突き刺し勢いのまま空中で前転。指の間を突き抜ける。
再び槍を錨のようにして腕へと着地した。空振りした腕は地面を叩きつけ、衝撃。
遅れて、風切り音が耳へと届く。
心臓の鼓動がうるさい。
今すぐにでも、息を吐き出したい。
でも足は止めない。死線はいまだ越えていない。
竜の手の甲へと刃を走らせながら、背へと駆ける。
背中はゴツゴツと岩肌の崖のよう。足場は悪いが進むには苦労しない。羽を切り飛ばそうと槍を振るう――
「はっ?」
足元が消えた。
いや、違う。滑ったんだ。
あまりな空虚な踏み込みに、一呼吸呆ける。が、すぐさま竜の身体へと槍を突き刺す。
ギリギリで竜の背から滑落することを防いだ。
「……はぁー、びっくりした」
息が漏れる。
だがこのままという訳にもいかない。
そう思い、再び背へと駆け登ろうとゴツゴツとした鱗へと手をかざす。
しかし、指先が引っかからない。仮にかかってもすぐに滑ってしまう。
手を見ると、白濁の不思議な液体。
「粘液……いや、脂?」
ヌルヌルとした嫌な感触に、口がへの字になる。
さっき滑ったのは、これが原因か。
納得すると同時、竜が大きく体を揺らした。
衝撃により、いともたやすく支えにしていた槍が抜け落ちる。
「あ」
刺さりが甘かった。
体表を転がりながら、地面へと着地する。
負ったのは、せいぜいかすり傷。
だが態勢が崩れた。
その隙を竜は逃さない。
竜が体を旋回。裏拳のように前足が動く。
激しい炸裂音。
「グゥ゙ォ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙ッ――!!!」
響き渡る咆哮が、木々を揺らす。
師匠だ。師匠の、爆薬付き仕込み短刀。
場所は、竜の側頭部。
私の予想が正しければ、これで竜の右眼は潰れた。
そして私への意識が消えた。
「今なら、通る!」
瞬時に、竜の腹部の陰に入る。
見上げれば他より鱗が薄い分、急所を護る分厚い胸筋。
茜刺しを二度振るい、刻まれる十字の印。
浅いが、すぐにその場を脱する。
焦ってはいけない。本命は心臓だと悟られないよう、ゆっくり削る。
仮に知られ、地面に腹を置いて胸元を隠されでもすれば、その分だけ時間がかかり、対処される。
ちらりと、茜刺しを見る。
その穂先には、竜の体から分泌された脂がべっとりと付いていた。
先ほど付けた傷が浅かったのはこれのせい。茜刺しの切れ味が、大きく損なわれていた。
試しに、火が燃え移った木々に刃をかざしてみる。だが、脂は焦げ付くだけで炎を上げない。
どうやら、この程度では引火しないほど耐火性が高いらしい。普通の油なら火達磨になるのではと思ったが、防御膜に使われるわけだ。
……ならば、理の違う火ならどうだ。
私は茜刺しへと意識を通し、命じる。
《"燃えよ"》
ゴゥッ! と朱色の炎が穂先から噴き出した。
すると、先ほどまで沈黙していた脂が、魔力に反応して爆ぜるように燃え上がった。
炎を振るい落とすと、姿を現したのは銀の輝き。
これならば対処できるが、問題は一つ。
それは引火した場合、あの竜は炎に包まれる。
蒸し焼きになるならいいが、炎なんて吐き出す以上そう簡単にはいかないだろう。そして、炎を纏って暴れられでもすれば、私たちは近づけず打つ手を失う。
……うん、やっぱりだめだ。適度に炎を纏わし、脂を取り除く。
"茜刺し"の炎を使うのは、それだけに限定する。
方針を固めると、師匠によって生じた死角を利用しながら、再び足を回した。
…………
……
…
その後、激闘は計三時間にも及んだ。
蜂一匹より、煩わしい蝿を先に叩き潰す。そう言わんばかりに、執拗に師匠を探し出したときは肝が冷えたが、隙を見てもう片方の眼も引き裂いてやった。
お蔭で竜は両目欠損。知覚能力だけで暴れに暴れた。
繊細さの欠片も失ったとはいえ、化け物には違いなく。振るう尻尾は木々をなぎ倒し、吐き出す炎は、大地を数百歩に至るまで焦土へと変えた。
だけどそれが長く続くはずもない。
体力を使い果たしたところを見計らい、切り伏せ――
――今、王手をかけた。
「グゥゥ゙ゥ゙ゥ゙……」
巨軀が崩れ落ちる。
全身の節々から血を吹き出し、両目が潰れ、末端は切り飛ばされていた。
完全な満身創痍。だというのに、それでも奴は動き続けた。
それだけの生命力を宿していた。
でも、それももうおしまい。限界を迎えていた。
「ハァ……ハァ……」
声が出せない。のどが焼ける
今すぐにでも、へなへなと座り込んでしまいたい。だが、震える足に無理矢理喝を入れて何とか耐える。
まだ戦闘中。満身創痍に見えるが、炎まで吐き出せないとは言っていない。
これが、最後。
地面を蹴り、竜の懐へと潜り込む。
六回にも分けてつけた傷跡。ここに槍を突き立てれば、この戦いは終わる。
"茜刺し"を振り上げる。
「グギャァァァァアアァァア!!!!」
――突如、竜が今日一番の咆哮を上げた。
その大きさに思わず仰け反り、慌てて体勢を整えようとしますが……その時、何か嫌な予感がした。
それが何なのかは分からない。だが、私はすぐにでもその命を終わらせようとその心臓へ槍を突き立てる。
――ズチュゥ゙……
……いつも通り、一つの命が終わる感触が腕を伝って感じられる。
硬い甲殻を割り、筋肉を裂き、血管を掻き分ける。
その先に、ブヨりとした弾性の塊があった。それが感じられると共に、広げられた傷口から大量の血液が溢れ出てる。
私の視界を真っ赤に染め上げていく。
やがて、その血も勢いを失い、体を魔力へと還し完全に世界から消える。妖魔でありながらも、それに微かな物寂しさを感じた時でした。
「えっ……?」
私は思わずそんな声を上げた。
何故か?それは、ゴボッ――と水気を含んだ固体が墜ちる音が聞こえたから。
普通なら、それは気にすることではない。
それが、私の横……竜の口元からだとしても、ただ吐血しただけだろうと流す所。
でも、私の中でいつも私の命を幾度となく救ってくれた危険信号が、頭痛がするほどの爆音として鳴り響いていた。
――その場から離れろ!
そんな単純な命令が、体を無意識に動かす。
しかし、足元にはヌメッとした赤く鉄臭い液体が地面を覆っていて、まぁ要するに――私は滑って転んでしまいました。
そして、
顔を上げ振り向いた、振り向いてしまった先には――爛々と輝くもう一つの太陽があった。
この時の私は、俗に言う走馬灯……を見れる状態だったのでしょう。コンマ数秒にも満たない時間の中、その熱量だけで体を蒸発させるんじゃないかと錯覚する程で、私は声を出すことすら出来ずにただその光景を呆然と見つめていました。
しかし……そんな時でも私の頭は冷静に働いていた。
あの光の正体は、固形化するほど圧縮された油……のような物。その最後っ屁が起爆したのだと。
それで死ぬんだ。と、終わりを悟った形で、ただ純然たる事実としてそう思った。
人の一生なんてそんな物。何でもないような理不尽は、いつでも牙を抜いて襲ってくる。
そもそも、神様に会ったあの日から生と死は隣り合わせ。
むしろ、今日まで五体満足で生きてこれた事の方が奇跡と言える。
……でも、それでもやっぱり悔しいですね。
私は思わず下唇を噛んでしまいました。
――まだ、死にたくないなぁ……
そんな思いが胸中を駆け巡る。
吐き出された火球がその熱を一気に高めて、加速度的に広がる熱波が全身を叩く――
直前だった。
――ズザッ!
と、私の目の前に人影が飛び込んできた。
それは見間違いようもなく傷たらけの師匠で、それを認識すると同時に……腹部へ衝撃が奔った。
師匠が私を蹴り飛ばした。
私を庇った?何故?どうして?
疑問が浮かぶ間にも火球は広がっていき……やがて師匠の影を包み込む様に消えていった。
そして、現在――
一帯が焼け野原となったこの場所に、大蜥蜴の亡骸が斃れる。
それを背にして、私は呆然と己の無力さを嘆くばかりだった。
「い……や、勝手に、殺す……な…」
「ぇ……師匠!!」
私は両手で口を覆い、大きく目を見開く。
太腿に下ろした視線の先――
私の足元に横たわる師匠が、力を振り絞り声をあげていた。
「まだ……死んでな、いよ。
そう呟く師匠の様子から、彼はそう長くないのだと私は無理矢理にでも気付かされます。
その右腕部は肩から先が炭化し、体も所々黒く焼け焦げ、肌は赤黒く変色して重度の火傷を負っていました。ですが、まだ辛うじて息はありますし心臓だって鼓動を刻んでいました。
「大丈――大丈夫な訳ないじゃないですか!どうしてあんな無茶をしたんですか!?私なんか庇っても意味がないのに!」
私は思わず叫びました。それは、純粋な怒りでした。自分の命を蔑ろにした師匠への怒りと悲しみ……そして、私の無力さに対する憤りでした。
「ふぅー……、まぁだ、葵ちゃんはそんなこと言ってるの……?自己肯定感が低いなぁー……っ」
そう言って、頬を引き攣らせながら苦笑する。
師匠は、口を動かすだけでも相当辛いはず。だというのにいつもの調子で私に言葉を投げかけた。
「……じゃあさぁ、葵ちゃんが僕と同じ状況になったら、どうする…?」
それ、は……ちょっと卑怯な質問です。
「私も……そうするかもしれません……」
「でしょ?」
師匠は、少しだけ得意そうに笑った。
「君も僕も、似た者同士なんだよ」
そう言って、左手にはめられた銀の指輪を持ち上げる。
その表面には、細かな亀裂が走っていた。
「これ……生命力を無理やり魔力に換える呪物でね。これがあるから、まだ喋れてる」
「……それって」
「うん。つまり、もう長くはない」
あまりにもあっさりと告げられて、返す言葉が見つからなかった。
「……ねえ、最後に一つだけ。師匠として言わせてくれる?」
私は必死に涙をこらえながら、頷いた。
「人は、いつか必ず死ぬ。だからって、悲観し続ける必要はない」
師匠の声は弱い。
けれど、その言葉だけは不思議と真っ直ぐ届いた。
「葵ちゃんは、ちゃんと生きて。今を、精一杯生きて……この世を回って、できる限り人生を楽しんでほしい」
「……はい」
「あと……澪花ちゃんを、大切にしてやって」
「はい……!」
それだけは、震えながらでも即答できた。
師匠は満足そうに目を細める。
「……じゃあね、僕の愛弟子。短かったけど、君と過ごした時間は……幸せだったよ」
その言葉を最後に、師匠の呼吸がふっと浅くなる。
指輪が、小さな音を立てて砕けた。
私はしばらく、動けなかった。
目の前の現実を理解したくなくて、ただその顔を見つめることしかできない。
やがて、堪えていたものが決壊した。
「……っ、ししょう……」
頬に触れる。
もうその肌から、命の熱はこぼれ始めていた。
「……ありがとうございました」
震える声で、それだけを言う。
そして私は、最後の別れとして、そっと唇を重ねた。
それは恋ではなく、感謝と、敬意と、弔いだった。
顔を離した時、もう師匠は何も言わなかった。
それでも私は、涙で滲む視界の向こうにあるその顔を見つめながら、心の中で誓った。
これから先、どれほど苦しい道が待っていようと、私は生きる。 師匠が残したものを、無駄にはしない。
だから――
「……行ってきます、師匠」
小さな熱が、頬を落ちていった。