《澪花視点》
八折さんが亡くなった。
あの人は、少し苦手だった。軽薄で、距離感も近くて、何を考えているのか分からない。
けれど、死んだと聞いた時、胸の奥が鈍く痛んだ。
……あぁ、じゃあ私は、まだ人間なんだ。
そんなことを思ってしまう程度には。
半分妖である自分が、時々どうしようもなく分からなくなるから。
自分は半分妖の身でありながら、同じ妖を斬り、人の側に立っている。
これは結局、『同族殺し』なのではないか――そんな問いが、幾度となく胸裏をよぎる。
自分の中でとっくに答えが出てるのに、最近はどうも思考が後ろ暗い方へ傾いていた。
……疲れてるのだろうか?
無理もない。あれから焼けた屋敷の始末に、弔いの支度。心を休める暇など、ひと時たりともなかった。休める時に休まなければ、葵さんのように倒れてしまう。
そう、葵さんが熱を出して倒れた。
医者の見立てでは、心身の疲れが一気に噴き出したのだという。
当然だ。家族のように親しかった人を失い、精神が限界にある中で、焼け落ちた屋敷の始末から麓の町への申し開き、果ては弔いの差配まで、そのほとんどを一人で背負っていたのだから。
私も少しでも負担を減らそうと動き回ったが、ろくに役には立てなかった。もっと知識や術を蓄えておけばよかったと、自分の無力さを強く後悔した。
だが、過ぎた時間を悔やんでも意味はない。
今の私にできることをする。葵さんが一日でも早く元気になれるように。
「……ひどい汗。葵さん、新しい布巾を持ってきますから、少し待っていてくださいね」
葵さんは荒い息を吐き、苦しそうに眉根を寄せる。
私の声が届いたのか、彼女はぼんやりと首を縦に振った。
私は寝間をあとにし、宿の人から水を分けてもらう。
宿のおかみさんが「食べなきゃ力が出ないよ」と持たせてくれた、湯気の立つ粥が胸に沁みるほどありがたかった。
部屋へ戻り、熱に赤らんだ額の汗を丁寧に拭う。
少しでも身体を起こして、お粥を口に運んでもらおうとした――その時だった。
「うっ……ぅう……澪花ちゃん……」
「はい。今お粥を冷ましますから――え?」
目を覚ました葵さんは、焦点の定まらない目で私を見上げると、そのまま私の胸元へとすがりついてきた。
不意を突かれ、身体が硬直する。
けれど、背中に回された腕があまりに弱々しくて、振り払う気など起きなかった。
熱い。驚くほどに体が火照っている。
私は彼女の背中を静かに撫でながら、匙ですくったお粥を口元へ運んだ。
椀の中には、梅干しをほぐした粥が湯気を立てている。
これなら喉を通りやすいはず。
……そういえば葵さんは、甘みのない酸っぱい梅干しが苦手だったか。今更ながら思い出して少し焦ったが、杞憂だった。
「えっと……はい、あーん」
「……ぁむ……おいしい」
「それは、よかったです」
葵さんは、あっという間にお粥を平らげた。
高熱を出しても衰えない食欲に少しほっとしながら、静かに水を飲ませる。
「……葵さん、やっぱり疲れが溜まってるんです。しばらくは何も気にせず、休んでください」
「うん……ありがとう、澪花ちゃん」
「お礼なんていりません。それに……葵さんはもっと、私に甘えてくれていいんですよ」
「…………そうしようかな」
葵さんは照れたように微笑むと、そのまま力尽きるように布団へ身を沈めた。
いつもの凛々しい佇まいとはまるで違う、幼子のような姿。
……いや、実際に私より少し年上なだけで、彼女だってまだ若いのだ。けれど普段の葵さんはいつだって頼もしいお姉さんで、私やみんなを守り、導いてくれていた。
だからこそ、こうして気弱に甘えられている事実が、誇らしくもどこかくすぐったい。
「ねぇ澪花ちゃん……」
「なんですか?」
「……手、握って欲しいな……」
「……はい!」
布団から差し出された掌を、両手でそっと包み込む。
……こんな私でも、少しはこの人の力になれているのだろうか。
緩む頬を誤魔化しながら、微睡んでいく彼女を見守る。
やがて葵さんはすーすーと規則正しい寝息を立て始めた。苦しげだった表情は和らぎ、安らかな寝顔へと変わっている。人知れず安堵の息が漏れた。
目元の深い隈が痛々しい。
葵さんはいつだって頑張りすぎるのだから、今日くらいは世界中の誰に咎められようと、泥のように眠ってほしい。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
――翌朝。
夜が明けても、葵さんの熱は下がらなかった。医者から渡された薬を飲ませても快方へ向かう気配はなく、顔の赤みは昨日より増しているように見える。
「……大丈夫、ですか?」
「……うん」
熱で頭が朦朧としているのか、返事も空虚だ。
熱を測るとさらに上がっていた。
濡れ布巾を絞り直し、額に当てる。ひんやりとした感触が、少しでも熱を奪ってくれることを祈りながら。
できることなら、このまま付きっきりで看病していたい。
けれど、今日ばかりはそれが許されなかった。
町外れの川辺で、再び妖魔を見たとの報せが入ったからだ。
八折さんが逝き、葵さんまで伏せっている今、町の外で妖魔と刃を交えられる者は、私しかいない。
場所は北の川辺。外見の特徴から河童の類だろうと推測されている。
あそこは子供たちの格好の遊び場であり、私もかつて気晴らしによく足を運んでいた。昔、子供たちから「一緒に遊ぼう」と声をかけられたこともある。
あの時は人見知りが勝って逃げてしまったが……今思えば、半妖だと見破られ、疎まれる可能性を思えば、それでよかったのだろう。ほんの少しだけ、未練はあるけれど。
……そこで、ふと胸を騒がせるものがあった。
川辺で、子供が、拐われる。
嫌な連想が頭を駆け巡る。母親のことだ。
かつて、私という半端者が生まれるきっかけとなった、あの惨劇。
状況があまりにも似通っていた。
……まさか、そんなはずはない。母を害した妖魔は、とうの昔に退治されたと聞いている。
けれど、万が一にも術を用いて生き延びていたとしたら?
一度そう考えると、胸のざわめきを抑えることができなかった。
「葵さん、私、川辺を見てきます。……代わりの看病は宿屋のおかみさんに頼んでありますから、安心してください」
「……そう。……気をつけてね、澪花ちゃん」
「はい。葵さんはしっかり休んで、元気を戻してください。行ってきます」
「……いってらっしゃい」
部屋をあとにし、私は腰に佩いた刀の重みを確かめながら、川辺へと急いだ。
………
……
…
宿を出て半刻ほどで、目的の川辺が見えてきた。
苔むした岩と丸石の連なる川辺は、一見すればいつもと変わらぬ長閑さを湛えていた。
だが、一歩足を踏み入れた瞬間、肌の裏側がぞわ寄りと粟立った。間違いない。
――何か、いる。
ねっとりとまとわりつく視線。向こうもこちらを明確に認識している。
私は息を潜め、全身の感覚を研ぎ澄ませる。
「……そこにいるのは、誰?」
木立ちの暗がりへ問いかける。
返ってくるのは、風が葉を揺らす寂しげな音だけだ。
……潜み続けるつもりか。
腰に佩いた愛刀『波哭』の柄へ手を添え、いつでも踏み込めるよう腰を落とす。嫌悪感を催す不快な気配の源を捉え、私は一気に地を蹴った。
――!?
対岸の茂みで気配が大きく揺らいだ。しかし、逃げるには生え茂る草木が邪魔をする。
その隙を逃さず地を蹴る。
宙へ身を躍らせると同時に波哭を抜き放ち、上段から一息に斬り下ろした。
「……なっ?!」
『……グッ!?』
手応えは硬質だった。
一閃を弾いたのは、蒼玉の鱗に覆われた腕。
その質感、色合い――見紛うはずもない。私の右腕と同じものがそこにあった。
一瞬、思考が凍りつく。
その致命的な隙を逃さず、相手の鋭い蹴りが私の腹部を穿った。
「ガぁ……ッ!?」
対岸まで吹き飛ばされ、河原の石原を派手に転がる。
胃液が逆流するほどの吐き気を強引に飲み込み、膝を立てて刺客を睨みつけた。
最初に視界へ飛び込んできたのは、やはりあの蒼い腕だった。
見覚えがあるどころではない。鱗の並び、指の歪み、そのすべてが私の半身と酷似している。
「……やっぱり」
違いといえば、奴の腕が太く無骨であるのに対し、私の腕は細く華奢だという点くらいか。
いや、全身を見比べれば一目瞭然だった。奴は顔面まで蜥蜴のように厳つく醜悪で、背後では太い尻尾が川面を叩いている。完全な化け物だ。
「……あなたは、何者ですか」
波哭の柄を強く握り直す。
喉は、ひどく乾いていた。
「蜥蜴の……妖魔……?」
「その言葉、そっくり返してやろうか、まがい物。なぜお前から、俺と同じ血の臭いがする?」
質問の答えになっていない。だが、「同じ匂い」か。
体を洗う習慣もない化け物に言われたくはないが、意味するところは嫌というほど理解できた。
……ふふ、まさか本当に、こんな場所で出遭うなんて。
袖を捲り上げ、己の右腕を晒す。怪物の腕と鏡写しになった異形を、奴の目前に突きつけた。
「……少し考えれば分かりますよね。この腕を見せられても理解できないほど、頭まで醜悪なんですか?」
妖魔の顔が怪訝に歪み――直後、その細い瞳孔が限界まで見開かれた。
「そっか……そっかぁ、ハハッ! お前……俺の娘か!?」
「……ようやく、気づきましたか」
声が喉の奥でつっかえた。
それでも私は、唇を歪めて嘲笑ってみせる。
「お父さん」
生涯、口にすることなどないと思っていた呼称。
「やっと気づいたねぇ……。だが無茶言わないでくれよ。そんな殺気を滾らせて現れた奴を、誰がひと目で自分の娘だと思うよ?なんだ、人間に石でも投げられて辛い人生でも送ってきたか?」
石を投げられ、蔑まれて生きてきたのは事実だ。
だが、お前に殺意を向ける理由はそこにはない。
「……聞きたいですか?」
「い〜や?他人の不幸話ほどつまんねぇものはねぇ。お前だって、俺の人生話なんて興味ないだろ?」
「……えぇ、そうですね」
『他人の不幸話ほどつまらない』――そんな言葉を吐くとは思いもしなかった。人の不幸を舐めしゃぶって生きるのが妖魔の性質だと思っていたからだ。
私の中で勝手に作り上げられていた「父」という幻影が、音を立てて崩れていく。
代わりに、血の滲む事実だけが明瞭に刻み込まれていく。
ああ、けれど、どうでもいい。
血縁という事実に思うところがないわけではない。だが、今の私には何の意味もなさない。
母に私を産ませた理由も、人間を襲う理由も、問う必要すらなかった。
目の前の化け物と殺し合うという結論は、何一つ揺らがないのだから。
震える右手で波哭を構え直し、奴を見据える。
先ほどの一閃は本気だった。
それなのに削れたのは体表の鱗のみ。浅い切り傷しか作れなかった。
体表を覆う鎧は鋼のごとき堅固さ。初撃の油断があったとはいえ、このままでは致命傷を与えられない。
ならば。
一太刀で届かぬのなら、百太刀でも重ねるまでだ。
悟られぬよう、静かに息を整えた。
「……それじゃあ」
開戦の言葉を紡ごうとした、その時。
視界を黒い影が埋め尽くした。
――石っ!?
察知した時には遅かった。顔面に撒き散らされた鋭い砂利が炸裂する。
咄嗟に目を閉じたため失明は免れたが、初動の体勢を完全に崩された。
たたらに踏む私へ、妖魔が開手で飛びかかってくる。
間合いに踏み込んでくる巨体。迎え撃つため、右腕を引き絞る。
掌の中で、波哭の柄が軋んだ。
凝縮した間合いを弾き返すように、首筋を狙って刀を振り抜く。
しかし――手応えは空を斬った。
妖魔は避けも防ぎもせず、刃の間合いへ入る寸前で、ぴたりと足を止めた。
空を切った刃の重みで、今度は私が大きな隙を晒す。
研ぎ澄まされた一瞬の中、脳裏にただ一文字が浮かんだ。
――死。
だが、妖魔は追撃せず、大きく後ろへ飛び退いた。
無防備な私を仕留められたはずなのに、なぜ?
私は立て直し、再び波哭の刃を妖魔の腕と交錯させる。
嫌な金属音が響き渡り、鍔迫り合いの構えとなった。
「……どうして、引き下がったんですか?」
けれど、すぐにその疑問は解消された。
別に妖魔がご丁寧に答えてくれたからではない。その黒い瞳から彼の感情を見たから。
そこに浮かんでいたのは――紛れもない怯えと、戸惑い。
そうか、前提が違っていたのだ。
私は一撃で倒せないからこそ捨て身の覚悟で挑んだが、奴は違った。鱗が割れる程度の傷に怯え、主導権を奪うために汚い手を使ったのだ。
「……鱗が少し割れた程度、妖魔なら一瞬で治るでしょうに。随分と臆病なんですね」
「化け物だって痛いのは嫌なんだよ。半端者のお前にだってそれくらい分かるだろ」
「……申し訳ありませんが、私としては、痛覚すら人からかけ離れていてくれた方が殺しやすかったのですが……っ!?」
ぐぐ、と腕が押し込まれる。強い!
――押し負ける……!
強引に力で対抗せず、押し込まれる力を利用して間合いを取る。
直後、風を裂いて貫手が迫る。型も理もない。ただ膂力だけに任せた、暴威そのもの。爪が空気を引き裂き、岩を粉砕する威力が迫る。
私は波哭で打撃を受け流し、背後へと滑り込んだ。追撃の一刃を背中に走らせる。
「グッ……!?くそ、痛ぇな!」
返す脚が、頭上を薙ぐ。身を沈め、紙一重でかわした。
髪の毛が数本切り飛ばされた。だが、片足立ちになった奴の重心が浮いている。
「もらった……!」
「ヤベっ……!?」
足元へ潜り込み、膝裏めがけて鋭く横一文字に斬り払う。
関節部の鱗は薄い。軸を奪われた巨体が、崩れるように膝をついた。
――好機。
「殺しきれずとも……!」
腕を叩き落とす!
体重を乗せ、一刀のもとに振り下ろした。
「……え?」
カキン、と冷ややかな金属音が響く。
波哭がピタリと止まっていた。
「……片手で……!?」
波哭が微動だにしない。
妖魔は蒼い腕一本で、私の全力の斬撃を完全に受け止めていた。
「――参ったぜ、本当に」
背筋を冷たい蛇が這い上がる。
「魔力をろくに扱えてねぇのにこのキレか。流石は俺の娘と言うべきか……いや、俺がこの歳の頃はこんな動き出来なかったな。才能か。……親として凹むぜ」
隙だらけに見える立ち姿。
だが、刀を捕らえた腕は、岩へ根を張った古木のようにびくともしない。
先ほどまでの軽薄さが、嘘のように消え去っていた。
「……っ」
ガチガチと奥歯が鳴る。
堰を切ったように、濃密な妖気が溢れ出す。
まるで今まで猫を被っていた化け物が、ようやく牙を剥いたかのようだった。
肌を刺すほど濃密な妖気が、辺り一帯を満たしていく。
「おい、お前、いくつだ?」
「……十四」
「そうか。そんなもんか。一応聞いておくが、おめおめ逃げてくれたりはしないよな?」
「……何が言いたいんですか」
「俺は無駄な殺生が嫌いでね。斬らずに済む命なら、わざわざ手を汚す趣味はねぇんだ」
「……面白い戯言ですね。ですが、答えは『否』です!」
固着した波哭を諦め、柄から手を放す。
支えを失った妖魔の体勢がわずかに傾いた。狙いはそれだ。
無防備になった奴の左脇腹へ、腰を捻り、全身の力を拳へ乗せて叩き込む。
激痛が走ったのは、私の指先だった。
打突の感触は肉でも骨でもない。命を宿した大樹のごとき、途方もない強固さ。指が異常な方向へ折れ曲がり、己の見誤りを悟る。
まるで、道場脇に立つ百年ものの神木を素手で殴りつけたようだった。鉄よりも硬く、それでいて生きている強靭さ。
圧倒的な密度の差に、私は一瞬、呆然としてしまった。
「――じゃあ、死ね」
意識の隙を突くように、死の宣告が落ちる。
咄嗟に両腕を交差させ、身を庇えたのは奇跡だった。
バキバキと、小枝を折るような嫌な音が体内に響く。
振り抜かれた拳が私の腕を叩き潰し、景色が猛烈な速度で後ろへ流れた。背中から岩場へ激突し、爆発的な衝撃が全身を襲う。
「――カハッ……!?」
……痛い。
……あんな大振りの拳を避けられないなんて。
やはり妖魔には技量の欠片もない。反応は早いが、どうとでもなる程度。けれど、威力は本物。
口から溢れる血を拭おうとして、絶望的な光景が目に入る。
両腕が、あり得ない方向へ折れ曲がっていた。
少なくともこの戦闘中、二度と武器など握れない。
……逃げる? 背中の激痛で立ち上がることも難しい。
命乞いをする? 無駄だ。
奴は私を絶対に生かして返さない。最初からそうだ。死を恐れる臆病者の目。私と同じ、冷たく凍りついた目。
平和主義などと口では言いつつ、己の保身のためなら我が子だろうと躊躇なく切り捨てる。人でなしの目だ。
こんなところで血の繋がりを感じたくなどなかった。
「やっぱお前の左半身ってほぼ人間なのか? もう少し硬いかと思って全力で殴っちまった。本当は綺麗に殺してやりたかったんだがな」
「……綺麗な殺しって、何があるんですか」
「うーん、そう言われると困るが……」
妖魔は空を見上げ、ポンと手を叩いた。
「やっぱり一番有名なのは毒だろ。だが俺は蛇じゃなく蜥蜴だから毒はない。……だから、こうするか」
首筋に強烈な圧迫感が巻きついた。奴の太い尾だ。みりみりと骨が鳴り、呼吸が止まる。
――およそ三十秒。それが私の意識が途絶えるまでの時間。
死が迫っているというのに、頭の中だけが不気味なほど冷え切っていく。
何をすべきか。
何が足りないか。
奴を殺す。
そのためにはまず、この尾から逃れなければならない。
そして逃れるには――この折れた腕を、再び動かせなければならない。
ならば、治せ。
妖魔の血がこの身にも流れているというのなら。
今こそ、それを証明してみせろ。
右腕さえ動けば、波哭を拾って目でも喉でも抉り抜ける。
では、再生の手段は?
妖術。妖魔が持つ荒唐無稽な力。
傷を塞ぎ、失われた肉さえ再び形作る、人ならざる力。
浅手なら瞬く間に塞がり、たとえ腕を失おうとも、時を置けば再び生えてくる。
それこそが、妖魔の持つ人外の生命力。
それは半端者の私も持ち得ているのか?
「……いや゙、ある゙」
一年前。私が母を失い、初めて妖魔を殺したあの日。
本能に身を任せていたため記憶は曖昧だが、私は確かに、素手で化け物を殺した。
妖魔は特殊な武具でしか殺せないはずなのに。
目線を、地に転がる波哭へ送る。
奇怪な刃紋を浮かび上がらせる愛刀。
これが鍵だ。刀に答えがある。
――残り十秒。
ある仮説が頭をよぎる。試したことのない方法。
私は折れ曲がった右手を手繰り寄せ、波哭の“刃”を――直接力強く握りしめた。
「……お前、何を?」
鋭い痛みが走り、赤く熱い血が溢れ出す。
柄をどれほど握ろうと、何も応答はなかった。
刀の本質は、斬るための『刃』にしかない。
肉が裂ける。熱い。痛い。
だがその激痛の奥底で、ついに『何か』が私の血に応答した。
「……こ、れかっ……!」
これまで知らなかった感覚。
百年を生きた大樹すら両断する、波哭の刃。その鋭さを支えていたもの。これがおそらく妖力というもの。異質な手応え。
大樹すら裁断する切れ味の正体――私の中に眠る『妖力』だ。
だが足らない。ただ感じ取っただけ。深い淵へ落ちまいと、崖の縁へ指一本を掛けているような、危うい感覚。
血潮とともに吐き出すような心持ちで、妖力を解き放つ。
下手に扱えば、この感覚も泡沫のように消えてしまう。
何が足りない?
この力を完全に解放するには――
切り裂いた掌の痛みが、さらに深くなる。
――血だ。
思わず、口端が上がる。
血と共に噴出させるイメージで妖力を解放する。心臓の激しい鼓動に合わせて爆発させ、ひしゃげた両腕の奥底へ、強い意志とともに叩き込んだ。
瞬間、ボキボキと異音を立てて砕けた骨が噛み合い、切れた筋繊維が強引に結びつく。痛みを塗り潰すほどの熱が両腕を支配した。
おおよそ二秒。
それが再生に要した時間だった。
「なっ……!?」
驚愕に目を見開く妖魔の顔面へ、再生したばかりの指で目潰しを放つ。
額を掠めた隙に距離を取り、足で波哭を跳ね上げ、今度は正しく柄を握りしめた。
波哭の妖力と私自身の血を混ぜ合わせ、刃の表面へ高密度に纏わせる。
「ハッ!土壇場で一皮剥けたな!だが妖力を多少扱えるようになったところで――!」
一閃。
キン、と硬質な音が響き、離れた川面でバシャンと重いものが落ちる音がした。
私の首を締め上げていた分厚い尻尾の先が、容易く切断されて宙を舞っていた。
「……尻尾くらいだったら、簡単に切れるんですよ!」
「やってくれたなッ!」
激高した妖魔が襲いかかってくる。
私は腰の巾着から目潰しの粉を取り出し、奴の顔面へ叩きつけた。
「ンあぁ!?」
粉塵に悶絶する隙を逃さず、背中へ渾身の一太刀を振り下ろす!
だが、手応えが異様だった。
水が弾ける音がして、両断された体がドロリと崩れ落ちる。肉ではなく水の塊。切断面に残っていたのは、先ほど切り落とした尻尾の骨だった。
異質なそれを視界に入れた瞬間、背後へと刃を通した。
ギン、と鉄を打つ音と衝撃が響き、私は前方へと投げ出される。
足元の水に足を引っ掛け躓きそうになる。けれど咄嗟に足を動かし、体勢を整えることに成功した。
「……貴方の妖術。切り離した尾を芯にして、水の身代わりを作る術ですね」
背後から現れた本物の妖魔に問いかける。
「……いきなり種を明かしにくるかよ」
「えぇ。私の中の血が、そう教えてくれましたから」
私は自分の頬の擦り傷から滲む血を指で掬い、空中に掲げた。
「……浮かべ」
意思を込めて命じる。
赤い一滴が、ふわりと宙へ浮かび上がる。
右へ、左へ。落ちることすら忘れたように、私の意のまま揺蕩った。
――成功だ。けれど、これだけじゃ終わらない。
その血液を、足元の川面へと落とす。
ポチャン、と小さな王冠が弾けた瞬間、一滴の血は川の水へ溶け込み、波紋とともに私の意志を広げていく。
気づけば、足元を流れる水そのものが、私の手足のように感じられていた。
「俺は、そこまで行くのに十年かかったんだがな……」
妖魔が忌々しげに呟く。
私の足元から這い上がった水が、まるで何匹もの大蛇のように蠢き、私の周囲でとぐろを巻いて侍っていたからだ。
だが、まだ足りない。
暴れ狂う妖魔の本能の手綱を、人間としての理性で握り潰し、支配する。
父から受け継いだ忌まわしい血の力。それを、葵さんから教わった剣の型に乗せる。
私を人間たらしめてくれた、優しくて凛々しいあの人の技術と共に。
「……いきますよ。私が持つ、私のすべてで貴方を殺します」
「……へっ、こいよ、青二才。原石だろうが娘だろうが関係ねぇ。俺の命を脅かすお前は、今ここで踏み砕く」
私たちは同時に駆け出した。
十ほどの水の玉を生み出し、身の周りへ円を描くように巡らせる。
その一つを薄く引き延ばし、四方へ刃を伸ばす。
形作ったのは、十字の手裏剣。
だが形を保てたのは、ほんの一瞬だった。崩れかけた水刃の半ばを、そのまま牽制に放つ。
「邪魔だ!」
「……かすり傷にもなりませんか!」
ならば、斬ろうとするのはやめる。再び水を手元へ引き戻した。
顎を突き上げる拳を、身を反らしてかわし、続く右拳には左手をかざす。
左手へ纏わせた水を、絶えず渦巻かせる。
固める必要はない。
流れ続ける水そのものに、拳の勢いを呑ませればいい。
伸び切った腕を取り、その勢いを殺さぬまま懐へ潜る。
肩を差し入れ、腰を沈め――巨体を一息に投げ飛ばした。
「ガハッ!?」
河原の石畳に叩きつけられ、派手な水しぶきが上がる。
無防備な伏倒。すかさず波哭を構え、額へ向かって突きを放つ!
「危ねぇな……!」
しかし、両掌で刀身を挟み込まれた。
それだけではと思ったが、波哭は奴の顔の真横の石を粉砕するにとどまる。
すかさず、周囲に漂わせていた五つの水球を、至近距離から奴の肉体へ叩きつけた。
形を変えず、単純な質量打撃として叩き込む。
その方が早いし有効打になり得ている。
苦悶の声を上げる妖魔を見下ろした、その時。
「見下してんじゃねぇよ」
首に再び強烈な圧迫感。既に生え変わっていた尻尾だ。
切断する間もなく視界が回転し、今度は私が叩きつけられた。肺から空気が吐き出される。
即座に起き上がろうとするが、奴の動きの方が早かった。
バチンッ!
眉間に突き刺さる鋭い刻み突き。一瞬、視界が真っ白に染まる。
立て直すのに一秒。だが、その一秒が命取りになる。
次こそ本命の一撃。
大きく腕を引かれる。
メリメリと拳を固める音が響く。
恐らく放たれるは、私の左腕をめちゃくちゃに砕いた正拳突き。
顔面にでも喰らえば、致命傷は免れない。
このおぼつかない頭じゃ、まともに水は使えない。
脳裏に、炎を纏って戦う葵さんの凛々しい姿が浮かんだ。
あの人は槍を――炎を操る際に、いったい何をしていた?
脳裏に閃いた言葉を、そのまま口に放つ。
《“止まれ”》
妖魔の拳が、不自然な形でピタリと止まった。
原因は水だ。先ほど懐に潜り込んだ際、四肢へ絡ませておいた水滴。
手裏剣のような複雑な形状変化ではない。「拘束する」という極めて単純で強固な命に、妖魔の動きが縛り付けられた。
長くは持たない。千載一遇の好機。
今の私が御しきれる水には限りがある。
周囲に浮かべた十の水玉、そのうち七つを奴の四肢へ絡ませる。
残るは――三つ。
《 “――纏え”》
残りの水を波哭の刃へ絡め落とす。自身の妖力と溶け合わせ、髪の毛一本の歪みもなく、滑らかな水膜を刀身に形成する。
斬撃を加速させる。それが刃に纏わせた水の目的。
奔る水に押し出され、波哭が銀の閃きと化す。。
狙うはただ一点――首。
抵抗はなかった。
薄氷を刃で叩き割る程度の、あっけない手応え。
水を纏った刃は、妖魔の分厚い首を易々と断ち、そのまま対岸の樹木まで真横に切り裂いた。
宙を舞う、一つの首級。
驚愕に目を見開いたままの顔が、宙で一回転し、ドボンと音を立てて川の中へ落ちる。
遅れて頭部を失った胴体が膝から折れ、朱に染まる川面へと倒れ伏した。
胴体から噴き出す血が、せせらぎを赤く染めて流れていく。
溢れ出ていた強大な妖気が、急速に霧散し、消えていくのが分かった。
――終わった。
宙に浮いていた水球がバシャリと形を失って地面に落ち、あたたりにはただ、川のせせらぎだけが虚しく響いていた。
「……死ん、だ?」
分身の可能性を疑い、波哭を構えたまま周囲を警戒する。
だが、漂うのは川のせせらぎと、赤く染まっていく水面だけだった。
もう二度と立ち上がらないのだと、理屈より先に魂が悟った。
死んだ。
殺した。
私が、実の父親を殺した。
「……なんだ」
掠れた声がこぼれた。
「こんな……ものなのか」
もっと大きな何かが押し寄せるものだと思っていた。
身を焦がすほどの怒りか。血を吐くような悲しみか。あるいは、腹の底から込み上げる嫌悪か。
けれど胸の奥は、拍子抜けするほど静まり返っていた。
今日まで顔すら知らなかった男だ。
生涯まみえることなどないものとして、とうに心の外へ追いやっていた。その程度の関係。
それでも。
あの顔を見た時、私の中から込み上げた情念は間違いなく本物だった。
親を殺す罪悪感を理性が訴えもした。話し合えば、何か分かり合えるのではないかという甘い幻想もあった。
でも臓腑の奥からあふれ出た殺意はそのすべてを押し流し塗りつぶした。
私が抱いた殺意は、本物だった。
けれど、その根源が正しいのかと問われれば、分からない。
母を不幸にしたから。
私に、半妖としての苦しい人生を送らせたから。
知り合いの子供たちを襲ったから。
あの妖魔を殺す理由なんて、いくらでも挙げられる。そのすべてに、思うところがないわけではない。
けれど、どれも少し違う気がした。
自分のことなのに、分からないことが多すぎる。
何もかもが、白と黒のように分かたれているわけではない。
でも、やっぱり一番大きい理由は、
――ただ殺したかったから
肉親に刃を振るったのは、そんな単純な理由だったと思う。
首を絞められ、死を覚悟したあの瞬間から、妙に頭が冴えている。
それまで胸中で絡まり合っていたものが、今は嫌になるほどよく見えた。
……だからこそ、今まで盾にしていたものがなくなった分、腹の底が重い。
嫌な息苦しさが満ちていて、ひどく気持ち悪い。
想像より想定以上が無いって、こんなにがっかりするんだ。
実際に父の命を断ち切った私の心情は驚くほど凪いでいた。
強いて言うなら、死んでもう会えないのは少し残念だという他人事のような人でなしの気持ち。
言葉を話す妖魔を殺したのも、今回が初めてだというのに。
「……墓でも、作ろうかな」
首を失い、河原へ倒れ伏した骸。もう言葉も発することはなく、地に野ざらしのその姿。
憐れだと思ったのだろうか。
気づけば、そんな言葉が口をついて出ていた。
……フフッと苦笑が漏れる。
結局これも、自分が人であると信じたいだけなのかもしれない。
やっぱり私、お父さんの子供なんだ。いくら存在を切っても、その血の繋がりは変わらない。
父の血を使って、父を斬った。
そんな私が、あの人の隣にいていいのだろうか。
「……私なんかが、葵さんの隣にいて良いのかな」
……なんてね。
頭を振って、弱気な思考を強引に振り払う。
葵さんの役に立つ。
それだけが、私の生きる目的で、存在理由だ。
資格なんて関係ない。生きて前に進んで、絶対にあの人を守るのだから。
「……フー……」
……妖魔は、死してなお人の姿には戻らないのか。
もし地獄という場所があるなら、奴はあの蜥蜴の姿のまま落ちていくのだろうか。ならば、人と妖の狭間に生まれた私は、死ねばいったいどこへ行くのだろう。
私は振り返ることなく、川辺をあとにする。
きっともう、ここへ来ることはない。
何歩か進んだところで、足だけが止まった。
「……さようなら」
喉の奥で一度、言葉がつかえる。
それでも最後に、一度だけ。
「お父さん」
当然、返事はない。
それでよかった。
「もし、また生まれることがあるのなら……」
川音に消えてしまいそうな声で、私は告げた。
「今度は、最期まで人として生きてください」