命削りの秋茜 ―終わりへ向かう歩みの記録―   作:鈴目蜂

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間章:三話 神鳴り

 

 

 葵さんが倒れてから、じきに一週間が経とうとしていた。

 

 けれど彼女はいまだ床に伏したまま、下がりきらぬ熱に浮かされ、時折苦しげな吐息を漏らしている。

 

 ただの流行り病なのか。

 それとも、名も知れぬ重い病なのか。

 あるいは――質の悪い妖魔に、何かしらの呪いでも受けたのか。

 

 私にできることといえば、葵さんの看病を続けること。

 そして気休めにもならないと分かりながら、近隣に湧いた弱い妖魔を片端から狩って回ることくらいだった。

 

 今日も町外れに現れた鉄鼠を斬り伏せ、宿への帰路につく。

 

 朝方は晴れていた空も、昼を過ぎた頃から雲に覆われ始めていた。

 肌を撫でる風には、いつしか湿った土と雨の匂いが混じっている。

 

 ひと雨来そうだ。

 

 そんなことを考えながら宿へ戻り、私は葵さんの寝間へ続く襖をそっと開けた。

 

 

 「ただいま戻りました。……葵さんの様子はどうですか?」

 

 

 「ちょうど先ほど、ようやく熱が下がり始めたところですよ。……とはいえ、まだ油断はできませんが」

 

 

 葵さんの枕元で穏やかに答えてくれたのは、町医者の先生だった。

 

 年の頃は四十を少し過ぎたくらいだろうか。

 少々ふくよかな体つきに、丸みを帯びた顔。旨いものには目がなさそうな風貌をしている。

 その柔和な顔に違わず、物腰も穏やかだ。おまけに義理堅く、一度受けた恩は決して忘れないらしい。

 町医者ともなれば暇なはずもないというのに、こうして幾度も時間を割き、葵さんの様子を診に来てくれている。

 

 以前、葵さんたちに命を助けられたことがあるらしく、その恩返しなのだそうだ。

 

 ならば今は、その厚意に甘えるしかない。

 私は心の内で改めて礼を述べながら、抱えていた荷を床へ下ろした。

 

 

 「あの……八百屋さんから、大きな林檎をいただいたんです。先生も食べますか? いま切ってきます」

 

 

 「お気持ちはありがたいですが……それは葵さんに食べてもらうためのものでしょう?」

 

 

 「こんなに大きなもの、私たち二人では食べきれません。それに、いつも診ていただいているんですから。遠慮しないでください」

 

 

 そう言って返事も待たず、私は林檎を手に台所へ向かった。

 

 包丁を入れてみれば、案の定というべきか、切り口は大小ばらばら。

 形もいささか不格好になってしまった。

 

 ……まあ、腹に入れば同じだろう。

 

 毒味も兼ねて小さな欠片をひとつ口に放り込む。

 

 しゃくり、と瑞々しい音がした。

 

 ほどよい酸味のあとを追うように、柔らかな甘みが舌いっぱいに広がっていく。

 

 ……うん。味は申し分ない。

 

 

 「葵さん。はい……ぁ、あーん」

 

 

 「……ん、あー……」

 

 

 枕元へ戻り、小さく切った林檎を差し出す。

 

 葵さんは薄く目を開けると、素直に口を開いた。

 

 小さな口で林檎を受け止め、もしゃ、もしゃ、と時間をかけて噛んでいく。

 

 やがて喉が小さく動いた。

 

 

 「美味しい……ですか?」

 

 

 「うん……すごく、美味しい」

 

 

 へにゃり、と頬が緩む。

 

 いつもの、何ものにも臆さぬ凛とした笑みとはまるで違う。  

 ひどく弱々しく、頼りなくて。

 けれど、ここ数日は苦しげな顔ばかり見ていたからだろうか。たったそれだけの笑顔が、どうしょうもなく愛おしく思えた。

 

 胸の奥へ、小さな火が灯ったような温もりが広がる。

 

 ……ちなみに、私は林檎を皮ごと食べる。

 

 別に、皮を剥くのが面倒だからではない。

 食べられるものをわざわざ捨てるという行いが、どうにも性分に合わないだけだ。

 つまり――まあ、貧乏性なのだろう。

 

 そんな益体もないことを考えていた、その時だった。

 

 ぱら、ぱら。

 

 屋根を打つ、小さな音が聞こえ始める。

 

 私は窓の方へ目を向けた。

 

 

 「……降ってきてしまいましたね。先生、雨具はお持ちですか?」

 

 

 「いえ。午前中はあれほど晴れていましたからね。すっかり油断していました」

 

 

 「まあ、この程度の小雨なら……少し待てば止むかもしれ――」

 

 

 ――ドガァァァァン!!

 

 

 「っ!?」

 

 

 言葉を吞み込むほどの雷鳴が、天地を打ち据えた。

 

 一瞬遅れて、雨脚が凄まじい勢いで強まる。

 

 ばらばら、などという生易しいものではない。

 

 轟々と。

 

 まるで空の底が抜けたかのような雨音が、辺り一帯を呑み込んでいく。

 

 

 「……無理そうですね」

 

 

 私はしばし窓の外を眺め、それから先生を見る。

 

 

 「諦めて、今日は泊まっていきますか? こちらの宿は、まだ空きがあると聞いていますし」

 

 

 「そうさせてもらいましょう。……それにしても、すごい雨だ。梅雨にはまだ随分と早いというのに」

 

 

 窓の向こうは、すでに白く煙っていた。

 樽をいくつもひっくり返したような土砂降りだ。遠くに連なる山々は雨霞の彼方へ沈み、稜線さえ朧に滲んでいる。

 

 こんな雨の中を無理に帰れば、今度は先生が身体を壊しかねない。

 葵さんを診てもらっている最中に、医者まで床に伏すことになれば、それこそ洒落にならない。

 

 

 「まあ、今日は他に急ぎの用もありません。峠を越えたとはいえ、いつまた容体が変わるか分かりませんし……このまま私が診ていたほうがよさそうだ」

 

 

 「……ありがとうございます」

 

 

 頭を下げる。

 すると先生は私の顔をじっと見つめ、わずかに眉根を寄せた。

 

 

 「それより、私が気になるのは君のほうです」

 

 

 その目が、私の顔を確かめるように細まった。

 

 

 「顔色が悪い。ここ数日、ろくに眠っていないでしょう?」

 

 

 「……よく分かりますね」

 

 

 思わず苦笑する。

 

 

 「ええ。まあ……まだ三日ほどです。それに私は、あまり眠らなくても平気な質なので。問題ありません」

 

 

 「あるに決まっているでしょう」

 

 

 ぴしゃりと言われた。

 

 

 「いくら丈夫でも、三日もまともに眠らなければ身体は鈍ります。今夜くらい、私に任せて休みなさい」

 

 

 「……でも」

 

 

 「でも、ではありません」

 

 

 先生の声が少しだけ強くなる。

 

 

 「家族が倒れているうえに、いつ妖魔が襲ってくるか分からない。気が気ではないのも分かります。けれど、だからこそ休める時に休むべきです」

 

 

 そこで一度言葉を切り、呆れたように息を吐く。

 

 

 「いざ妖魔が現れた時、疲れ切って刀も振れないのでは、護衛役がいる意味がないでしょう?」

 

 

 「…………」

 

 

 正論だった。

 返す言葉もない。

 

 

 「……ご迷惑をおかけします」

 

 

 「気にしないでください。こう見えても医者ですから。病人の看病には慣れていますよ」

 

 

 「では……お言葉に甘えさせてもらいます。葵さんを、よろしくお願いします」

 

 

 深く頭を下げ、私は部屋を後にした。

 

 自分の寝間へ戻り、布団へ身体を滑り込ませる。

 

 けれど――眠れない。

 

 身体は鉛のように重いというのに、頭だけが妙に冴えていた。

 

 耳を澄ませば、屋根を激しく打ちつける雨音が聞こえる。

 

 葵さんは大丈夫だろうか。

 熱は。

 息は。

 また悪くなってはいないだろうか。

 

 いくつもの考えが、頭の中をぐるぐると回り続ける。

 

 それでも、横になっているだけで少しは違うだろう。

 

 そう思って瞼を閉じていると、やがて意識が緩やかに沈み始めた。

 

 夢を見た。葵さんの夢だ。

 

 

 『ねぇ、姉さんは私の事が好き?』

 

 

 幼い声が尋ねる。

 

 私は迷わず答えた。

 

 

 『当たり前でしょう。血は繋がっていなくても、私はあなたの姉なんだから』

 

 

 すると葵さんは、花が咲くように笑った。

 

 

 『じゃあ、ずっと一緒だよ! 約束ね!』

 

 

 葵さんが笑う。

 私も笑う。

 

 二人で顔を見合わせて、いつまでも笑っていた。

 

 ああ、幸せだ。

 

 そんなふうに思った、次の瞬間。

 

 足元が消えた。

 

 

 『……え?』

 

 

 身体が宙へ投げ出される。

 腹の底が浮き上がるような、不快な感覚。

 

 私も。

 

 葵さんも。

 

 落ちる。

 

 落ちて。

 

 落ちて。

 

 どこまでも。

 

 どこまでも。

 

 底のない闇へ――。

 

 

 

 ばちり、と目を覚ました。

 

 息が浅い。

 

 額には、じっとりと汗が滲んでいた。

 

 窓の外へ目を向ける。

 黒雲が空一面を覆い、雨風のせいで辺りは夕刻のように暗い。

 とはいえ、まだ日は完全には落ちていないようだった。

 

 ……嫌な夢。

 

 胸の奥に残った不快感を振り払うように身体を起こし、そのまま葵さんの寝間へ向かう。

 

 襖を開けると、少し荒いながらも寝息を立てる葵さんと、その傍らで片膝を立て、本を読んでいる先生の姿があった。

 

 

 「あれ?もう起きたんですか? まだ半刻しか経っていませんよ」

 

 

 「……ええ。でも、なんというか……妙な胸騒ぎがして」

 

 

 胸の奥が、ざわついている。

 

 理由は分からない。

 

 けれど、こういう勘は妙によく当たるのだ。

 そして大抵の場合――ろくなことにならない。

 

 

 「私が寝ている間、何か変わったことは――」

 

 

 先生へ尋ねようとした。

 

 その瞬間。

 

 

 ――バア゙ァ゙ァァァァァァァンッ゙ッ!!!!!

 

 

 凄まじい閃光。

 

 続けざまに轟いた雷鳴が、宿全体を揺らした。

 

 空気そのものが震えたかのような衝撃が胸を打ち、心臓が一拍遅れて跳ね上がる。

 

 

 「……耳が……」

 

 

 先生が顔をしかめ、片耳を押さえる。

 

 

 「……すぐ近くに落ちたのでしょうか」

 

 

 思わず喉が鳴った。

 

 火の心配は、この雨ならばさほど要らないだろう。

 だが、もしも今の雷が、人に直撃していたなら――。

 

 

 「……いや、それより……」

 

 

 先生が顔を上げる。

 

 

 「何でしょう、この感じは……」

 

 

 その声から、いつもの穏やかさが消えていた。

 

 

 「まるで……上から、身体ごと押さえつけられているような……」

 

 

 先生にも分かるらしい。

 私も先ほどから感じていた。

 

 肌が粟立つ。

 息が詰まる。

 見えない何かに首根を押さえつけられているような、圧倒的な重圧。

 

 異常が立て続けに起こりすぎたせいだろうか。

 かえって頭だけは、妙に冷えていた。

 

 考えたくない。

 認めたくない。

 けれど、身体はとうに答えを悟っていた。そんな心とは裏腹に、身体だけはとうに答えを悟っている。

 

 ――いる。

 

 この近くに、何かがいる。

 身を潜めてやり過ごすことすら許されないような途方もない何かが。

 

 

 「葵さん……!?」

 

 

 「はぁ……っ、はぁ……!」

 

 

 布団へ駆け寄る。

 

 葵さんの呼吸は、明らかに乱れていた。

 薄く開いた瞳には焦点が合っていない。

 胸元を押さえながら、苦しそうに息を繰り返している。

 

 

 「葵さん、しっかりしてください!」

 

 

 「……っ……」

 

 

 返事はない。

 

 けれど、この様子。

 

 間違いない。

 葵さんも感じている。

 

 ――妖魔の気配を。

 

 それも。

 今まで相対してきたものとは、比べものにならないほど巨大な。

 

 気づけば私は、壁へ立てかけていた波哭へ手を伸ばしていた。

 

 その時だった。

 

 

 「――あれ?竜の匂いがしたから来てみたんだけど……お前、竜じゃないじゃん。なんだ、半妖か」

 

 

 「――っ!」

 

 

 背筋が凍りつく。

 気づけば、窓際に何者かがいた。

 咄嗟に波哭を抜き、構える。

 

 けれど、そいつは刃を向けられているというのに、どこ吹く風で窓枠に肘を置き、ケラケラと笑っている。

 

 

 「あぁ、竜をやったのはそっちで寝込んでるお姉ちゃんの方かな。どうりで気配が中途半端だと思ったんだ。ならどうしよう……これじゃあここに来た意味、半分くらいないじゃん……」

 

 

 笑っていたかと思えば、一転して退屈そうなため息。

 

 まるで、気まぐれな幼子だ。

 それが、目の前の妖魔に抱いた第一印象だった。

 

 姿形は人間の子供と大差ない。年の頃は十二、三といったところだろうか。

 ざんばらに切り揃えられた黒髪は、毛先が好き勝手な方向へ跳ねている。その前髪を押し上げるように、額から二本の細い角が突き出ている。

 深緑の着物に、金色が入った真っ赤な帯。

 目は赤く、口の端からは牙が覗いている。

 

 そんな子どものような見た目でありながら、その身から放つ妖力はこれまで遭遇したことのないほど、桁違いなものだった。

 

 

 「……鬼?」

 

 

 私は、私の中にある知識から目の前の妖魔を推測する。

 

 

 「ん?ぁぁ……まぁ正確には違うけど、まあ似たようなもんだよ」

 

 

 窓枠に肘を預けたまま、少年の鬼が肩をすくめる。

 

 

 「さてと、せっかく遊べそうな奴が現れたって聞いてわざわざ前線からやって来たのに……このままただ帰ったら他の奴から何言われるか。そこの姉ちゃんはどうせ死ぬから、今殺したとしても横取りにしかならないよね」

 

 

 鬼はぶつぶつ独り言を続けている。

 だが、その言葉には到底聞き流せないものが混じっていた。

 

 ――葵さんはどうせ死ぬ。

 

 奥歯を噛み締める。

 問い詰めたい衝動が喉元までこみ上げてきたが、どうにか呑み込んだ。ここで下手に口を挟めば、興味を持たれてしまう。それだけは避けねばならない。

 

 

 「よし、適当にこの街の神に遊んでもらお。大体三分の一くらい焦土にしたら流石に出てくか――およ?」

 

 

 ジロリと鬼の赤い瞳がこちらに向く。

 

 ――しまった。

 

 気づけば刃先の震えが止まっていた。

 恐怖に乱されていた魔力も、今は不気味なほど静まり返っている。

 いつの間にか、私の意識は目の前の鬼にだけに向けられていた。

 

 

 「なに?いい殺気だけど、僕と遊びたいの」

 

 

 「……いいえ」

 

 

 「嘘つかなくても良いよ。君から感じるのは明確な殺意だし」

 

 

「……」

 

 

 もうここで私は逃げ道がなくなったことを悟る。

 同じ轍を踏むなんて我ながら馬鹿みたいだ。

 けれど、仕方ないでしょう。この妖魔はは葵さんと山茶花さんが守ったこの町を焼き払うと言ったのだ。

 あの二人がどれほどの思いで戦い、何を犠牲にしてこの町を守ったのか。

 そのすべてを、ただの遊びで踏みにじるというのなら。

 

 

 ――許せる訳がない。

 

 

 「殺意があるなら話は早い。丁度退屈してたからさ、君が僕の遊び相手になってよ。期待はしないけど」

 

 

 鬼は立ち上がり、背中から白い雲のついた尻尾をふわりと出した。

 それをゆっくりと一振りして、こちらを見やる。

 

 

 「場所を移すよ。こんな町中で争うのは、君にとって都合が悪いんじゃない?」

 

 

 「……えぇ、そうですね」

 

 

 私は鬼の目を見据え、小さく頷いた。

 

 

 ――そして次の瞬間、私の足元に白雲が触手のように絡みついた。咄嗟に後ろに跳ぶが、白雲はあっという間に部屋中に立ちこめる。私の身体は宙に浮き、そのまま白雲に包まれていく。

 

 

 「……ここじゃ戦わないなんて言って捕まえるなんて、少し卑怯じゃありませんか?」

 

 

 「?……あぁ、違う違う。君、大分足遅そうだし僕が連れてってあげようっていう僕の粋な計らいだよ」

 

 

 鬼はそう言うと、足元に筋斗雲のように雲を纏わせ、宙へと浮いた。

 

 

 「さて、彼らに何か言うことある?きっとこれが最後になるだろうから挨拶とかしといた方がいいんじゃない?」

 

 

 そう言われて私は先生の方を見た。

 彼は何が何だかわからないと言った様子でこちらを見やる。

 

 

 「……先生、葵さんのことお願いします」

 

 

 「あ、あぁ。任されたよ。君も死なないでくれよ」

 

 

 先生は困惑しながらも私の願いを受け入れてくれる。

 その次に私は葵さんを見た。

 未だ気を失ったままで私の声には気づいていないのだろう。だがそれでも言いたいことはある。

 

 

 「……葵さん。必ず帰ってきますから」

 

 

 返事はない。それでも私は続けた。

 

 

 「だから、それまで絶対安静にしてて下さいね」

 

 

 「……ぅ、ぁ」

 

 

 ピクリと葵さんの指が動く。

 けれど彼女から言葉が出ることはなかった。

 

 

 「さて、それじゃあ出発進行!」

 

 

 鬼が告げた途端、視界が光に白く染まった。

 

 

 「……っ!?」

 

 

 次の瞬間、凄まじい圧力が全身を襲う。耳を劈く風切り音。上下左右の感覚が失われ、私は雲に包まれたまま、なすすべもなく振り回された。

 一瞬、眼下に町並みが見えた。

 けれど、それすらも瞬く間に遠ざかっていく。

 

 

 「ぐぅ……っ!」

 

 

 再び目を開けると、森が見えた。

 ひとっ飛びとは、まさしくこの事だ。町を離れ、どれだけ進んだのかもわからないまま、気づけば地面に放られていた。

 

 

 「……扱いが雑、ですよ」

 

 

 「君が脆いんだよ。ほら、さっさと始めよ?」

 

 

 鬼はそう言うと、拳を握り、その骨をバキバキと鳴らした。

 先程までとは違う、圧倒的殺意が私を襲う。

 

 

 「僕は雷神。四方軍所属、この南方の地を治める軍隊長の一人。いろいろ付けられた名はあるけど『翼毟り』って名が一番気に入ってる」

 

 

 「雷神」、「四方軍」、そして「翼毟り」。

 どれも馴染みはない。けれど聞き覚えはあった。

 雷神については文献で、残る二つについては、葵さんが竜を討滅した後、この町へやって来た者たちの噂話で耳にしている。

 

 その内容を簡潔にまとめれば、この地の妖魔が活性化、その原因が遥か南方から竜が侵略し、迎撃するため四方軍を名乗る妖魔の集団が動いたからだという。

 「翼毟り」というのは、侵略した竜の約八割。百を超える竜を地へと焼き堕とした妖魔の通り名。

 

 そして、葵さんたちの前に現れた亜竜は一月前に起きた大侵攻の生き残りだと聞いた。

 

 彼がこの地にやってきた理由は、竜を倒した人間が現れたと聞いて興味本位で現れた。先ほどからの言動からして、そんなところだろう。戦う理由が「遊び」なんて全く馬鹿げていると思うが、きっとこれまでもそんな態度で殺してきたんだろう。

 まるで童のようだと思うが、その身に纏う魔力はそこいらの妖魔を凌駕する。本当に面倒だ。

 

 

 「さて、君の名前も教えてくれる?どうせ死ぬからいいかなと思ったけど、何事も知れるだけ知っていて損はないからね」

 

 

 「……言いませんよ。言うわけないじゃないですか。なんで敵に自分の名前を名乗らなければならないのですか?」

 

 

 「そりゃあ、自分のことを全く知らない誰かに殺されるなんて嫌じゃない?まぁ、僕個人として、敵の名を聞くのは趣味であるんだ。よければ聞かせて欲しいんだよねー」

 

 

 雷神はそう言うと、手元の棒をくるくると回す。いつの間にか握っていたそれは、まるで指揮棒のよう粗末な棒切れに見える。

 けれど、ただの無用な品な訳はないだろう。

 

 

 「……断れば?」

 

 

 「言いたくなるまで君で遊ぶだけ。もし間違えて死んじゃったら……ごめんね?」

 

 

 冗談のように軽口を叩いたその刹那、私の身体は反射的に動いていた。

 

 

 ――瞬時にその場を飛び退く。

 

 

 稲妻が光の矢となって、私の足跡をえぐるように突き刺さる。草木が弾け飛び、焦げた匂いが鼻を突いた。

 

 

 「……っ!」

 

 

 背筋が凍る。

 

 あれは……まずい。

 見切れる距離じゃなかった。

 それなのに、避けられた。

 

 理屈じゃない。

 本能だけが叫んでいた。

 直撃すれば、即死すると。

 

 

 「へぇ……」

 

 

 雷神が、にやりと笑った。

 

 

 「今のを避けるなんて、やるね。面白い。やっぱり誘って正解だった。そっちから仕掛けてきてくれるのも嬉しいよ」

 

 

 雷神が指揮棒をくるりと回す。

 それだけで、空気が震えた。

 

 

 「……っ」

 

 私の全身に鳥肌が立つ。

 

 ――来る。

 

 考えるよりも早く、体が動いていた。

 無意識に大地を蹴り、斜め後方へ飛び退く。

 

 

 ドンッ!

 

 

 直後、爆ぜるような音が空間を裂いた。

 私の足がいた場所を、白い雷光が抉り飛ばす。

 

 焦げた土の臭い。

 耳に残る低音。

 

 そして――残像。

 

 (早……すぎる……!)

 

 視認すら追いつかない速度。

 しかも、その威力は冗談にならないほど凄まじい。

 

 掠めただけでも終わりだろう。

 まともに受ければ――想像すらしたくない。

 

 

 「ほら、どんどん行くよ。これからやるのは鬼ごっこだからさ」

 

 

 雷神の指揮棒が、ゆらりと揺れる。

 

 ドンッ!!

 

 二射目。

 地面に転がり、間一髪で回避する。

 

 ドンッ!!

 

 三射目。

 空中で身体を捻り、辛うじて躱す。

 

 

 「はぁ……っ、はぁ……!」

 

 

 肺が焼けるように痛い。

 足は鉛のように重い。

 

 けれど――動かなければ死ぬ。

 

 私は歯を食いしばり、森の中を駆ける。

 

 幹の隙間を縫い、茂みに身を潜め、地形を利用して必死に距離を取る。

 逃げ惑う小動物たちのように、なりふり構わず、全力で。

 

 だが。

 

 

 「ん〜、なかなかしつこいなぁ。けど、逃げるばかりじゃ面白くないよ?」

 

 

 雷神の声が、背後から響く。

 

 いつの間にか距離を詰められていた。

 その指揮棒が、再びゆらりと揺れ――

 

 

 ――その瞬間、私は地面を強く蹴った。

 

 

 「……っ!」

 

 

 前方へ飛び出し、滑るように枝へと足をかける。反動を利用してさらに高く跳ぶ。

 

 ドンッ!

 

 背後で雷が爆ぜる。

 風圧だけで、髪が大きく煽られた。

 

 (速い。強い。厄介。……けど!)

 

 逃げてばかりでは、何も終わらない。

波哭の柄を強く握りしめ、雷神を見据える。

 

 

 「へぇ、やる気になってくれた?いいね!その意気だよ!」

 

 

 雷神は楽しげに笑う。指揮棒をくるりと回し、その先端を私へと向けた。

 

 対して私は、波哭を右手で引き抜いた。

 青白い魔力と共に、刃が水を纏う。そして、まるで刀を振るう時のように大きく波哭を引いた。

 

 

 「“貫け”」

 

 

 「――っ!」

 

 

 投げ放たれた波哭が、唸りを上げて雷神へと飛翔する。

 それはただの投擲ではない。私の魔力を媒介に、より鋭利かつ速さを増した必殺の一撃。

 

 ――が。

 

 

 「あーあ。残念」

 

 

 雷神の指揮棒が弧を描いた。

 同時に走る紫電。

 波哭は、金属音と共に弾かれ、遠くの地面へ突き刺さる。

 

 

 「魔具かぁ。そりゃあ、半妖だって妖魔を斬れるわけだ。けどさ、それを僕にぶつけるには、ちょっと甘い――んぐっ!?」

 

 

 得物は投げた。

 間合いも遠い。

 だから、次の攻撃は届かない。

 

 ――その思い込みを待っていた。

 

 足裏へ意識を集中させる。

 先ほど落とした血が、魔力を帯びて薄い足場を形作った。

 虚空に生まれたそれを蹴り、一息に間合いを詰める。

 

 赤い瞳が、驚愕に見開かれた。

 

 鱗に覆われた右の拳を、その頬へ叩き込む。

 鈍い感触とともに、雷神の顔がわずかに傾いだ。

 

 浅い。

 虚は突けても、傷を負わせたとは言い難かった。

 

 すぐさま水を縄のように伸ばし、奴の胴へ絡める。

 腕を引いた。

 だが、雷神の身体は宙でぴたりと止まり、逆に私のほうが引き寄せられる。

 

 構わない。

 間合いが詰まるなら、同じことだ。

 

 膝へ水の棘をまとわせ、そのまま蹴り上げる。

 今度は掌で受け止められた。

 

 

 「とと、イテテテっ――膝に棘みたいの付けてるけど、これも君の能力かな?見たとこ水の操作だけど、随分と応用が利く良い能力――っと」

 

 

 お喋りな口を閉じさせようと放った肘打ちも、手の甲で弾かれる。

 

 

 「せっかく褒めてるんだから全部喋らせてよ」

 

 

 「無駄なお喋りは嫌いなんです。黙ってて下さい」

 

 

 「そうは言うけど、結構返してくれるよね」

 

 

 「必要最低限のことだけです」

 

 

 言葉を交わす間にも、拳は止めない。

 けれど、打ち合うほどに分かってしまう。

 

 押し負けるのは、時間の問題だ。

 

 手数はこちらが倍近く多い。水を操り、奴の拳をどうにか受け流してもいる。

 それでも、私ばかりが削られていく。

 息は上がり、腕は重く、足場を保つだけでも神経を使う。

 

 だというのに、この妖魔は汗ひとつ掻いていなかった。

 

 何をしても、奴を楽しませるばかり。

 

 打ち合いに紛れて、少しずつ位置をずらす。

 狙っていた樹が、奴の背後に来た。

 

 想定内とはいえ――

 

 

 「少し、不愉快です」

 

 

 胴へ絡めた水縄の端を、背後の樹へ巻きつける。

 勢いよく腕を引くと、縄が縮み、雷神の身体が幹へ叩きつけられた。

 間合いを開けずに追いすがり、その腹へ膝を打ち込む。

 

 硬い。

 刃を立てるように固めた水の棘さえ、腹筋に阻まれた。

 

 衝撃に幹が軋み、木片が散る。

 

 

 「それで?叩きつけるなら樹木の強度が足らないよ」

 

 

 えぇ、わざと脆そうなのを選びましたから当然です。

 

 口には出さず、奴の両手首を掴む。

 一瞬でいい。棒を振るわせなければ。

 

 意識を、幹の根元へ向けた。

 

 波哭にまとわせた水は、まだ消えていない。

 それを一気に引き上げる。

 

 飛沫が弾け、地面から刃が跳ね上がった。

 水流をまとって回転する波哭が、脆い幹を斜めに斬り裂く。

 その先にあるのは、雷神のうなじ。

 

 ――捉えた。

 

 

 「やっぱり、ちょっと甘いね」

 

 

 「……っ!」

 

 

 刃は止まっていた。

 

 腕ではない。私が直接掴み、一秒は動きを遅らせるよう仕向けた。

 

 雷で撃ち落とされたわけでもない。下手に落とせば雷神ごと巻き込むように真下からの急襲だった。

 

 白雲だ。

 

 樹と首の間を埋めるように伸びた雲が、波哭を絡め取り、その刃を食い止めていた。

 

 

 「流石に隙を見せすぎだよ」

 

 

 「しまっ……!?」

 

 

 激痛。

 続いて、言いようのない吐き気がせり上がる。

 

 口の中に鉄錆の味が広がった。

 喉が焼け、視界がぐにゃりと歪む。

 

 ――やられた。

 

 左脇腹に、細い棒が突き刺さっていた。

 裂けた衣が、みるみる紅く染まっていく。

 

 引き抜こうと伸ばした腕を、掴まれた。

 つい先ほどまで押さえていたはずの、雷神の左手に。

 

 

 「狙いはいいと思うよ」

 

 

 雷神は微笑んだ。

 童子のように無邪気で、それでいて、ひどく冷たい笑みだった。

 

 

 「間合いを詰めて、殴り合いだと思わせる。樹を背負わせたのは、後ろからは攻撃されないと思わせるため。けど、選んだ樹が悪かったね。刀の邪魔にならないよう、古くて脆いものにしたんでしょ? そういう不自然さは、かえって目立つんだよ」

 

 

 踵で、こつこつと幹を叩く。

 

 

 「僕の雷を見てから、刀に意識が向かないよう工夫したのも分かる。でも、殴ってるうちに不安になったんだよね。この硬さじゃ、樹を巻き込んだぶん威力が落ちたら、首まで斬れないかもしれないって」

 

 

 棒を握る手が、わずかに動いた。

 腹の奥を抉られ、息が詰まる。

 

 

 「用心自体は正しいよ。結局、足りなかったのは力だ。障害物ごと斬り伏せるだけの出力があれば、もっと選べる手はあった。僕だって、こうまで簡単には止められなかっただろうね」

 

 

 ……大体、あっている。

 私の狙いも、考え方も、弱みさえも。

 けれど、一つだけ見誤っていることがある。

 

 ――波哭の一撃が本命だと思っていることだ

 

 私が本当に狙っていたのは、もっと別のもの。

 奴が見逃した、ほんの少しの隙だった。

 

 口から滴る血が袖口へと流れる。

 小さな虫のように這い、雷神へと移る。

 

 

 「“……回れ”」

 

 

 流血の刃が赤い軌跡を描き、

 

 

 「……ぃ!ははっ!」

 

 

 眼球へと奔った。

 赤い飛沫と共に雷神が僅かによろめく。

 痛みで緩んだ腕から、私はすぐに距離をとる。裂けた衣服を脱ぎ、患部へと押し当てる。

 

 痛い、けど致命傷ではない。

 

 穴の空いた腹部は、底の抜けた桶のように命が零れ落ちる。

 雷神を見やれば、目元を抑えて小さな声で呻いている。血刃は操作はしてないが、魔力維持は依然継続中。未だ雷神の眼球内で留まっていた血液を炸裂させる。

 

 

 「……っ。さっきから攻撃が一々陰湿だね。女の子らしくないよ」

 

 

 眼球を潰されてるのに、よくもまぁ女の子らしさについて語れるものだ。

 

 本当はこのまま追撃する予定だったけど、がっちり固められて波哭が抜けない。波哭がなければ、先ほど雷神が言ったように殺傷力が足らない。

 

 なら、これからやるのは盤面づくり。足りないモノを補う。そのためには逃げるしかない。

 

 

 「真面目だね〜。好機だからって下手に突っ込まない。挑発にも引っかからない。でも、少し落ち着きすぎじゃないかな。もっと殺意を滾らせて向かってくれば、十回に一回は殺せるかもしれないよ」

 

 

 迎撃する気満々で構えてる奴がよく言う。

 首と心臓。この二つは何があっても防げるよう意識している。攻撃しようと魔力を滲み出せばすぐに警戒する。これじゃあ隙はないし、迂闊に攻撃できない。

 

 このまま目を潰している間に準備を整える。決して足を止めてはいけない。捉えられたら雷で焼き払われるのがオチ。

 

 

 「お父さんとは真逆だね」

 

 

 そう雷神は呟いた。私の思考は、その一言に呑まれた。

 

 呼吸が止まり、歩みが遅れる。雷神の言葉は、まるで毒のように静かに私の心臓へ染み込んでいく。

 

 

 「あなたは……」

 

 

 「はい、ドーン!」

 

 

 軽やかな声の直後、雷鳴が轟いた。

 

 

 「っ!」

 

 

 光柱が私の横へと降り注ぐ。

 すんでで躱したものの、余波だけで体が痺れ、足がもつれた。

 倒れはしなかったが、勢いを崩されて大きく減速する。

 

 危なかった。もう少し岸に上がるのが遅れていれば、水の上で感電していた。

 あいつは、もう目が治る頃だろうか。

 

 ……本当はもう少し濃くしたかったけど。

 

 川面から立ち上らせていた霧を、一気に広げる。

 白い帳が、木々も、川も、雷神の姿さえも覆い隠した。

 

 

 「――へぇ、さっきから魔力が捉えきれないし、妙なことしてると思ってたけどさ。“霧”なんて、大層なものを使うんだね。魔力の消費もただじゃないだろうに、そんなに僕と隠れんぼがしたいんだ」

 

 

 河川の一部は濃霧となり、それはたちまち広がっていった。

 

 霧に混じり、私の魔力を浸透させる。これで雷神からの魔力探知は、ほぼ無意味になったはずだ。

 

 さっきは魔力の乱れから居場所を悟られたが、この霧の中ならその心配もない。周囲に満ちた魔力に紛れ込めば、私一人を探り当てることなど容易ではないだろう。

 

 もっとも、ただ隠れているだけでは何も解決しない。

 

 あいつを倒せる手段を用意する。

 

 そのためには、まず雷神の意識を私から逸らさなければならない。

 

 ……とはいえ、普通に隠れた程度で油断してくれる相手でもない。

 

 あれだけの実力差がありながら、奴は私の動きを逐一観察し、策を見抜いてきた。少なくとも戦闘に関しては、見た目相応の幼子などではないのだ。

 

 ならば、どうするか。

 

 答えは単純だった。

 

 ――私が死んだと思わせればいい。

 

 我ながら、随分と馬鹿げた考えだと思う。けれど、勝機があるとすれば、もはやそれくらいしか思いつかない。

 

 私は霧の奥へと身を潜めながら、頭の中で段取りを組み立てていく。

 

 必要なのは三つ。

 

 私が死んだと錯覚させるだけの状況と、それを信じ込ませるための囮。そして、奴が警戒を解いた瞬間に仕掛ける一撃。

 

 問題は、どうやってその状況を作り出すかだ。

 

 現在、私が展開している霧の結界は、半球状に広がっている。内部の魔力を可能な限り均一に保ち、外部からの探知を妨げる仕組みだ。

 

 これがある限り、雷神も私の居場所を正確には掴めない。

 

 けれど、それは同時に、私が霧の内側で何をしているのか分からないということでもある。

 

 ……さて。

 

 雷神は、これをどうにかしようとするだろう。

 

 霧が晴れるまで待つか?

 

 それが一番賢い選択だ。どれだけ消費を抑えても、この結界を半刻以上維持することはできない。時間をかけられれば、それだけで私の負けが決まる。

 

 慎重に戦われれば、絶対に勝てない。

 

 それほどまでに、私たちの実力には隔たりがあった。

 

 けれど、あの雷神がそんな辛抱強い性格をしているだろうか。

 

 ……いいや。

 

 少なくとも、これまでの言動からは到底そう思えない。

 

 奴は戦闘を遊びだと思っている。相手が足掻く様を楽しみ、退屈すれば容赦なく力を振るう。

 

 ならば、この霧に対して取る行動も、おおよそ予想がつく。

 

 ――大雑把に、何もかも吹き飛ばす。

 

 そして、それこそが私の狙いだった。

 

 奴が霧ごと私を消し飛ばそうとするのなら、その攻撃を利用して死を偽装すればいい。

 

 あとは、奴が私の死を確信するまで待つだけ。

 

 ……もっとも、そのためには、雷撃の規模もタイミングも見極めなければならない。下手をすれば、死んだふりどころか本当に死んでしまう。

 

 命を賭けるには、随分と杜撰な計画だ。

 それでも、ほかに道はなかった。

 

 念のため、懐の小さな包みを開く。

 飴で覆った欠片をひとつ、奥歯の陰へ押し込んだ。

 

 使わずに済むなら、それがいい。

 

 私は静かに息を吐き、霧の向こうにいる雷神へと意識を向けた。

 

 さあ、どう出る?

 

 

 「僕さ、そういうのは好きじゃないんだよね。弱者が頑張ってる姿は気持ちがいい。けど、時間をかけるのは感心しないかな。ぜんぶ付き合えるほど僕の気は長くなくてね。そろそろ終わりにするよ」

 

 

 ……ほら。

 

 やっぱり、そう来た。

 

 雷神は手元に白雲を集めると、それを空高く放り投げた。

 

 まるで、種を蒔くかのような気軽さだった。

 

 けれど、その白雲は空の彼方で四方へと散り、やがて渦を巻き始める。

 

 低い雷鳴が、腹の底まで響いてきた。

 

 叢雲の奥では、幾筋もの雷光が明滅している。

 

 ……来る。

 

 私は霧の中で身を低くし、いつでも動けるよう足に力を込めた。

 

 

 《“――僕が示すは雷路の果て 群がる雲海と惑う光に命じる”》

 

 

 空間が軋み、気の流れが変わる。

 

 

 「あははっ!派手に散っちゃえ!!」

 

 《“天燐!!”》

 

 

 次の瞬間、光の奔流が全てを飲み込んだ。

 視界が白に塗りつぶされ、鼓膜が悲鳴を上げる。雷鳴とともに、地が爆ぜた。

 

 私は、すでに霧から脱出しているというのに体中がビリビリと痺れる感覚があった。

 

 地面がひび割れ、木々は跡形もなく炭化している。

 

 

 恐るべき威力だ。

 けど、ふと思ったのは、口ではああ言うけれどその雷撃からは殺意の類いを感じなかった。

 何故かといえば、落雷の頻度と動きだ。

 

 私の予想では、結界全体に一斉に雷を落とすものだと思っていた。

 けれど、実際は違う。

 雷撃は東から西へ、順を追うように振り注いでいた。

 それも、ひとつひとつの結果を確かめるかのように、妙な間隔を空けながら。

 

 ――なるほど

 

 これは殲滅ではない。

 私を逃げ出させるための、あぶり出しだ。

 雷神は、いまだ私のことを意識している。

 それは私にとって大分不都合だ。けどやる事には変わりはない。

 

 私は西側――河川の近くで人形の影を浮かばせる。

 

 以前、父との戦いから着想を得た、水の分身。

 もっとも、父のと比べては出来は雲泥の差。

 色はなく。動きもなく。ましてや、殺傷力なんて欠片もない。分身と呼ぶことすら烏滸がましい、ただの張りぼて。

 

 けれど、今はそれでいい。

 土砂を混ぜて輪郭を曖昧にし、私の魔力を濃くまとわせる。

 直接見られさえしなければ、少なくとも一瞬は誤魔化せるはずだ。

 

 懸念があるとすれば、死体を探されること。

 だが、必要なのは数秒の油断だけだ。

 死体を確かめようと視線を落とすなら、その瞬間を狙えばいい。

 

 木陰に身を潜め、雷の雨が降りそそぐ様子を窺っていた、その時だった。

 

 ――何か、おかしい。

 

 結界の内側に妙な空白が生じている。

 ひとつ、ふたつ……いや、もっと多い。

 

 意識を集中させる。

 

 そして、その空白が人の輪郭をしていることに気づいた。

 計九人が霧のなかで、互いに身を寄せ合うように隠れていた。

 

 霧の結界は触れた存在の隅々まで探れるような高尚な性能ではない。

 充満した霧の中で生まれた不自然な空白を察知しているだけ。だから分かるのは輪郭程度。

 けれど、それでも集中すれば顔を見たことがある人物がいるかどうかくらいは判別できる。

 

 

 「……なんでっ……」

 

 

 だから“それ”に気づいた時には、霧を上空――雷神へと手繰り寄せていた。濃霧の塊が瞬時に雷神を呑み込む。

 

 雷神は一瞬呆気にとられたようだったが、すぐに笑いを浮かべ、その周囲を雷で吹き飛ばした。

 

 降り注いでいた雷撃が、途切れた。

 同時に、結界が大きく崩れる。

 霧の内側で、木々の間を縫って戻ってきた波哭を握る私の姿が、露わになった。

 

 当然といえば当然だ。もともとこうなる可能性があるから却下した案だったのだ。

 けれど、他に選択肢などなかった。

 あの人影の中に見知った少女がいると気づいた瞬間、私は考えるより先に霧を動かしていた。せっかく整えた勝機も、苦労して作り上げた作戦も、そんなものはどうでもよかった。

 ただ、彼女たちを助けなければ、その一心だった。

 

 ……本当に、何故こんな時にいるんだろう、美里ちゃん。

 

 別にこの森は立ち入りが禁止されているわけではない。薬草でも摘みにきた、そんなところだろうとは思う。

 けど、嘆かずにはいられない。少し遅れていれば、彼女たちは今頃この世にはいなかった。

 

 後悔の気持ちが一切ないとは言えない。

 それだけ、私の現在の状態はひどい。

 

 

 「さて、そろそろ万策尽きたかな?もう魔力残量も一割きったでしょ。加えてさっきの霧、無理やり動かしたもんだから代償が重く出ちゃって、もう立って歩くのも辛いんじゃない」

 

 

 「……。」

 

 

 図星だった。

 

 視界が赤く霞んでいる。

 頭の奥で、脈打つような痛みが続いていた。手足の感覚も鈍い。

 霧を動かしたのは一瞬だったが、操った量が許容限界を超えていた。

 頭蓋の内側から、脳を押し潰されているようだった。

 

 それでも、どうにか意識を繋ぎ止める。

 

 

 「終わりだ。せめてもの情けとして、苦しむ間もなく逝かせてあげるよ」

 

 

 ……ああ。

 終わったと思ってくれるなら、まだ、一撃くらいは届くかもしれない。

 

 これまで試したのは三回だけ。どれも胃がひっくり返ったせいで二度と使うものかと思った反面、効果の程は本物だと証明してくれた。

 

 私は、あらかじめ口の中に放っていたモ(・)ノ(・)をカラリと鳴らす。

 

 

 「……飴を纏わせといて良かった。そのままじゃ到底飲み込めない」

 

 

 波哭を構え直す。

 理性を持って戦えるのは、恐らく一瞬だけ。その先のことは、私にも分からない。

 これまで試した妖魔は、せいぜい鉄鼠や妖猫といった下級の妖魔ばかりだ

 それが今回は、竜。しかも灰になることなく残った逆鱗の欠片ときた。

 まったく、我ながら無茶な賭けにでたものだ。

 

 ……きっと死ぬんだろうな。

 

 理性が壊れ、感情のままに暴れ回って。

 殺されるか、身体が壊れるか。

 どちらにせよ、待っているものは同じだ。

 

 それでも、その命を使って葵さんが無事でいられる可能性が少しでも上がるなら――

 

 

 「……さようなら、です」

 

 

 口元が引きつくのを笑いで誤魔化し、

 

 

 ――飲み込んだ。

 

 

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 《雷神視点》

 

 

 「は?」

 

 

 左腕が飛んだ。

 

 僕は一瞬、理解できなかった。

 

 

 「……お姉さん?」

 

 

 戦う前から、彼女には妙に濃い竜の匂いが染み付いていた。

 本人の実力とは釣り合わない、異質な残り香。てっきり竜由来の魔具でも持っているんだと思っていたけど……。

 

 

 「まさか、直接取り込むとはね」

 

 

 さすがに、それは予想外だった。

 何も知らないで飲み込んだ訳じゃないだろうに……。

 

 

 「……まったく、無茶するよ」

 

 

 振り返った先に、彼女はいた。

 

 

 「……」

 

 

 「もう返事も出来ないか。残念だな〜、もっとお話したかったのに」

 

 

 彼女の変化はわかりやすかった。

 

 右半身のみで留まっていた妖魔化が左半身にも及んでいる。

 肌は鱗で覆われ、もともと鱗だった部分は結合が崩れて歪み、分厚く鎧のように隆起している。逆に覆われていない箇所は、血管が青白く浮き出て痛々しい。

 爪はより鋭く、目は虚ろ。腰からは、邪魔じゃないかと聞きたくなるくらい長い尻尾がゆらゆらと揺れている。

 

 周りからは過剰放出された魔力が煙のように吹き出ている。

 つい先程までの彼女とはまるで別物だった。

 けれど、僕が感じたのは恐怖でも驚愕でもない。ただ、どうしようもない落胆だけ、

 

 

 「……はぁ」

 

 

 思わず、ため息が漏れた。

 

 

 「……おかしいな〜。追い詰めすぎると、大抵の奴は自棄になって無茶し始めるからさ。ちゃんと逃げ道を用意しておいたつもりだったんだけど」

 

 

 変な逆鱗に触れちゃったか。

 

 ま、やっちゃったもんはしょうがないか。

 もう少し遊んでいたかったけど、僕だって一軍を預かる身だ。遊びと仕事の区別はつけなくちゃね。

 

 

 「こうなった以上はちゃんと殺してあげる。あ〜あ、せっかく面白そうな子がいると思ったのに、残念。……まぁ、最後の一撃は彼女なりに考えていてだろうし、及第点は挙げるけど」

 

 

 萎えるんだよな〜。結局、彼女がやってることは自殺と大差ない。

 

 

 「昔、僕も試しにやってみたけどさ、それはもうひどいものだったね。分かってるよね、君がやってるそれは毒を直接取り込んでることと大差ないってこと」

 

 

 振り抜かれた刃を受け流しながら、僕は淡々と述べる。

 

 

 「風邪を引けば高熱を出す。くしゃみをする。咳をする。体内の異物を出す免疫機能だったかな……?興味なくて話半分でしか聞いてなかったけど、確かあのド腐れはそんなことを言ってた気がする」

 

 

 つまり、彼女の身体では今、異物を排除しようとする反応が起きているわけだ。

 取り込んだ魔力を押し出すために、自分の限界を超えた力を引き出している。

 けれど、魔力は無から生まれるものじゃない。足りない分を外界から無理矢理取り込もうとするし、それでも追いつかなければ、身体を形作る魔力まで使い始める。

 

 ……まったく、ひどく効率の悪い仕組みだよね。

 

 

 「最後は全身が崩れて消えるんだけど、半妖の君だと、どうなるんだろう。妖魔の部分だけ消えて、まっさらな人間の死体になったりして。どう思う?」

 

 

 「……。」

 

 

 返ってきたのは、手裏剣の形をした水の刃だった。

 

 身を翻して躱し、指揮棒を白雲へ預ける。

 踏み込んできた彼女の顔を、右手で掴んだ。

 そのまま地面へ投げ落とした。

 

 

 「だんまりか。まあ、まともな返事が来るとは思ってないけど。今の君は、本能のままに身を守ってるだけだしね。それでここまで精密に技を使えるのは、どういうわけなのかな――っと」

 

 

 地面へ着地した彼女は、振り向きざまに水の息吹が放たれる。

 

 

 「見た目は竜の力を取り込んだ上での竜の息吹(ドラゴンブレス)だけど、原理的には異物を吐いただけなんだよね」

 

 

 腐っても竜だから内包する魔力量は高いけど、圧縮もされてないからお粗末な威力だ。

 片手で払いながら、ふと嫌な予感が頭をよぎった。

 

 

 「……つまり、これゲロ息吹(ブレス)ってこと?うわぁ、確かに妙にヌメってるし気持ち悪っ……!雲で防ぎぎゃよかった〜……」

 

 

 まあ、竜の性質が混じっているだけなんだろうけど。それはそれとして、気分は悪い。

 後で洗っておこう。

 

 

 「……まぁ、いいや。そろそろ殺そ」

 

 

 「っ!?」

 

 

 上段から斬り下ろしてきた腕を掴み、膝を蹴り抜いた。

 体勢が崩れたところで腕を放し、首を鷲掴みにして持ち上げる。

 

 

 「やっぱ駄目だな〜」

 

 

 思わずため息が漏れる。

 

 

 「せっかくいろいろ喋って盛り上げようとしているのに、全然楽しくならないや。むしろ、喋れば喋るほど虚しくなっていく」

 

 

 さっきまで面白かったのに。

 

 

 「僕はさ、戦いに意味なんて求めていないんだよ。でも、つまらない戦いだけは嫌いなんだよね」

 

 

 「……っ」

 

 

 彼女の尾が足元へ巻きついた。絞め上げようとしているが彼女の身体は限界に近い。崩壊しかけじゃ骨は軋みさえしない。

 

 ただただ煩わしい。

 

 白雲へ彼女の首を預け、空いた右手に指揮棒を握り直すと、邪魔な尾を切り落とした。

 彼女を吊るしたまま、木々の上へ浮かび上がる。

 

 もう、十分に遊んだ。

 最後に、評価くらいは伝えておこう。

 

 

 「君は強かったよ。少なくとも、僕がわざわざ会いに行こうって思うくらいにはね。……でも、僕よりも弱かった。それだけの話さ」

 

 

 次は地獄で遊ぼうね。

 

 

 「どうか、安らかに」

 

 

 彼女の腹を指揮棒で貫いた。

 

 肉を掻き分け、一際柔らかい感触にあたる。更に深く腕ごと突き込み、何かを破る感覚が伝わった瞬間、彼女の身体がビクンッと震え、弛緩する。体から力が抜け、糸の切れた人形のように項垂れた。

 

 腕を引き抜けば、風穴から生温かい液体が、血液が溢れる。

 鱗が徐々に剥がれ、灰のように消えていく。

 

 これで終わり。名前を聞けなかったのは残念だったけど、当初の目的も達成したしさっさと帰ろ――

 

 

 ドンッ

 

 

 「――あれ?」

 

 

 半妖の少女を投げ捨てたところで、異様な衝撃が奔った。

 膝に力がはいらない。身体を支えきれなくなったのか、平衡感覚が崩れて前のめりに倒れ込む。

 

 

 「……はははっ。何だこれ?どこから攻撃を」

 

 

 何気なしに脇腹に伸ばした手が空をきった。

 見れば、拳一つは入るだろうという風穴が空いていた。はみ出た臓腑がこぼれ落ちる。

 

 誰がやった?何をやられた?何故、今攻撃を受けた?様々な問いが頭を巡る。

 

 彼女じゃない。

 いくら油断していたとはいえ、あの少女からの攻撃を見逃すほど、気を抜いていた覚えはない。

 じゃあ、誰が?

 

 

 「……あぁ、なるほど」

 

 

 思わず苦笑が漏れる。

 

 そっか。僕はずっと、あの子だけを警戒していたんだ。

 他にも敵がいるかもしれないなんて、考えもしなかった。

 最後の最後でヘマしたな〜。そりゃあ、外部からしたら今の僕は隙だらけにしか見えないよね。

 

 白雲を解除し、自由落下する。

 途中の木の枝を折りながら地面へと着地した。

 

 遠距離からの狙撃か。

 何を撃ち込まれたのかまでは、分からない。

 魔力探知でも、撃った相手の位置は捉えられなかった。

 

 ……それだけ離れた場所から狙ったのかな。

 

 致命傷ではないけど、再生で結構魔力が削られるな。こうなるんだったら、左腕をさっさと治すんだった。

 

 

 「はてさて誰なのかな。無粋な乱入者は」

 

 

 半妖の少女の関係者ではあるのかな。

 彼女の落下地点へ、立ち寄った誰かに問いかける。返事はない。

 けど僕の捉えた気配は覚えがあった。

 

 

 「たしか、葵……だったっけ?土蜘蛛の病にやられて死にかけてたはずなんだけど、回復したのか。よく耐えたね」

 

 

 葵――……初めて会った時に寝ていた女性の方だ。

 

 

 「……」

 

 

 「ん〜……だんまり。つれないね」

 

 

 傷が治るまで、できるだけ会話を引き伸ばしたいんだけどなぁ。

 ……流石にこの傷。側だけは取り繕ったとはいえ、竜狩り達成者と本格的に事を構えるのは分が悪いか。

 

 肌を刺すような敵意。その殺気を含んだ雰囲気は、ただならない凄みがあった。

 

 

 「いいさ。今日は気分がいいから帰ってあげる」

 

 

 「逃げるの?」

 

 

 ようやく返事が返ってきた。

 

 

 「そうだね。今回は逃げることにするよ」

 

 

 僕は肩をすくめる。

 

 

 「それにしても、不思議な人だね。どうやってそこまで自分を弱く見せられるんだろう」

 

 

 彼女から感じる魔力は、驚くほど微弱だ。

 なのに、先ほどの一撃を思い出すと、どうにも腑に落ちない。

 

 

 「君、相当な実力者でしょ?ここで全部楽しんじゃうのは勿体ないし、続きはまた今度にしようよ」

 

 

 本当に、なんでこんなにも覇気を感じないんだろう。不思議なくらいだ。床に伏せていた時の方がまだ強者らしさがあった。

 

 

 「それじゃあまたいつか」

 

 

 僕は白雲に飛び乗り、遥か高くへと舞い上がる。

 地面からは殺意の籠もった視線を感じるが、直ぐに視界の外へと流れていった。

 あーあ。結局、彼女の名前を聞き出せなかったな。次会った時は教えてもらおう。

 

 手元に握る、赤褐色に染まった石――竜鱗の欠片を眺める。

 

 

 「毒物自体は取り除いたわけだし、運が良ければ生きてるかな。それでも以前のように戦えるかは知らないけど……まぁ、その時はその時か」

 

 

 遊びなんて、それこそ星の数だけあるんだ。彼女が動けなくとも別の遊びを見つけるさ。

 

 ……それにしても、取りこぼした仕事の後始末に来ただけなのに、思わぬ収穫だったね。

 最悪、竜を討った証拠を探して町中家捜しする羽目になるかと思ってたけど。まさか、向こうから持ってきてくれるとは。

 うん、今日は文句なしに運が良かった。

 まったく、姫も僕と同じこっち側だって言うのに変に真面目ぶってさ。でも、これで文句は言われないね。

 

 さっさと帰って、今日起きた面白い出来事をたっぷり報告してあげよう。お土産には何を買っていこうかな?

 

 ――そんな暢気なことを考えながら、私は北方の曇り空を眺めていた。

 

 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 《澪花視点》

 

 

 気づけば、私は暗闇の中にいた。

 上も下も、右も左も分からない。

 ただ、果てのない闇が広がっている。

 

 ……夢なのかな?

 

 これほど現実味のない夢は初めて見る。

 それとも、ここが死後の世界だったりして。だとしたら随分と質素なものだ。あって欲しくないけど、その方が可能性があるか。

 たしか、私は竜鱗を飲み込んで、意識をあいつに任せたんだもんね。 

 

 その後どうなったのかな?

 

 

 『ボロ雑巾のように負けましたよ。えぇ、酷いものでした』

 

 

 「へぇ、彼の本気は見れた?」

 

 

 いつの間にか隣に立っていた“もう一人の私”が、どこか忌々しそうに口を歪める。

 

 

 『見れるわけないでしょう。最初からずっと遊ばれてたんですよ。結局、最後まであれが本気を出すことはなかったんですから』

 

 

 「……なんだ、私よりずっと妖魔に近いくせに、案外弱いのね」

 

 少しばかり、期待外れだった。

 

 

 「初めて表に出たときみたいに、もっと派手に暴れてくれると思ったんだけど」

 

 

 『無茶を言わないでください。貴方が魔力の扱い方を覚えてしまった時点で、私の優位性なんて消えたんですよ」

 

 

 もう一人の私はつまらなそうに肩をすくめた。

 

 

 「今でこそ貴方の影響でまともに見えますけど、所詮は本能の塊です。身体を動かす技術なら、まだ私の方が多少は上でしょう。結局のところ、私は人間としての強みを捨てた、ただのボンクラなんですよ』

 

 

 「本当のことだとしても、自分のことを卑下しすぎない?」

 

 

 『それだけ、貴方に劣等感を抱いてるんですよ」

 

 

 もう一人の私は自嘲するように笑った。

 

 

 『私の役割なんて、所詮は貴方の掃き溜めでしかありません。もう昔のように表れ出ることもないでしょうしね』

 

 

 「だから自分のことを思い出させようと、仮眠の時にあんな趣味の悪い夢見させたの?随分と寂しがりやなのね」

 

 

 『だって“私”だもの』

 

 

 目の前の私は、まるで鏡のように私へ微笑む。

 

 

 「……そうだね。でも、夢だとしてもあんな結末を仄めかすのはやめなさい」

 

 

 『それは、いったいどういう事を言っているの?』

 

 

 「とぼけないで。私と葵さんが闇に落ちていった、あの夢のことよ」

 

 

 

 もう一人の私を睨つける。

 

 

 「下剋上でも企んでるのかと思ったけど……まぁ、それは別にいいわ」

 

 

 それど、

 

 

 「葵さんを巻き込むのだけは、絶対に許さない。地獄へ道連れにしたいなら、私一人にしなさい」

 

 

 『流石の葵さん狂いね。彼女を傷つけるのは許さない、と。貴方もわかりやすく怒れるのね。私に無理な相談をするなんて。人に対する殺意こそが私の本分だって知ってるくせに。……あぁでも、ちょっと手遅れかな』

 

 

 「……?」

 

 

 何の話をして――

 

 

 『さて、そろそろ目覚めの時ですね』

 

 

 もう一人の私は、どこか愉快そうに微笑んだ。

 

 

 『せいぜい、目が覚めたら存分に悩むといいですよ』

 

 

 「……何を」

 

 

 『さぁ? ただ、一つだけ教えてあげます』

 

 

 彼女は私と同じ顔で笑った。

 

 

 『傷つくのを選んだのは彼女自身。でも、その選択をさせたのは――私たちなんですよ』

 

 

 そこで私の意識はプツリと途絶えた。

 

 

 

 

 

 ――……きて

 

 ――起きて!澪花ちゃん!

 

 

 「……葵、さん?」

 

 

 次に意識が覚醒すると、私の名を呼ぶ声が聞こえた。視界がぼやけて、焦点が合わない。でも、すぐに葵さんだってわかった。泣きそうな顔で私を見つめている。

 

 

 「……なんで――ゴホッ、こほっ!」

 

 

 「あっ!急に喋っちゃダメ!さっきまでお腹に穴が空いてたんだから!」

 

 

 葵さんが慌てて私を横向きにさせる。まだ半分ほど意識が朦朧としているせいか、力加減ができず、思いっきり噎せてしまった。咳と一緒に胃液を吐き出してしまった気がする。

 

 

 「うう、ごめんなさい……。今、口の中を拭くから」

 

 

 葵さんが優しく私の口を拭いてくれる。

 

 

 「はぁ……よかった。澪花ちゃんが無事で、本当によかったよぉ……!」

 

 

 葵さんが、泣きながら私を抱きしめた。

 いつもの彼女からは想像もつかないほど、必死な抱擁だった。

 正直、少し苦しい。

 

 ……けれど。

 

 私の無事をこんなにも喜んでくれる人がいる。

 それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。

 

 

 「……ごめんなさい、葵さん」

 

 

 「なんで澪花ちゃんが謝るの?謝るのはわたしの方だよ!わたしが病になんて倒れていなければ、澪花ちゃんがこんなにボロボロになることもなかった!……本当にごめんなさい!」

 

 

 葵さんは泣きながら何度も謝る。いつも前向きで、眩しいくらいの人なのに、今は悲しみを堪えることができずに溢れ出しているように見えた。

 

 ふと、どうして床に伏せていた葵さんが、こんなにも元気な姿でいるのだろうと疑問が浮かぶ。けど、問いかけるのは無粋だと思い、言葉を飲み込んだ。

 

 今は葵さんを励ますのが先決だ。

 

 

 「……葵さんは悪くないです。私が決めたことなので、気にしないでください」

 

 

 「でも!」

 

 

 「それに、こうしてちゃんと生きてるじゃないですか。少し無茶はしましたけど、そこまで心配するようなことでは――」

 

 

 「――澪花ちゃん!!」

 

 

 びくりと、肩が跳ねた。

 葵さんが、私の両肩を掴んでいる。

 

 

 「どうして、そんなこと言うの……!」

 

 

 その声は怒っているようで、今にも泣き出しそうでもあった。

 

 

 「私、本当に怖かったんだよ……! もう二度と、澪花ちゃんとお話できないんじゃないかって……!」

 

 

 その目に浮かんだのは、絶望の淵。救いを求める、悲壮な嘆き。

 

 

 「実際、もしかしてと思って私の血を飲ませなかったら、今頃……っ!」

 

 

 「……え?」

 

 

 ──一拍。

 

 葵さんの言葉が、脳髄に沁み渡るよりも先に、鼓動がひどく速くなった。

 血を飲ませた?誰が、誰に?

葵さんの血が、私の中に?

 

 

 「……今、なんと?」

 

 

 「え、えっと……澪花ちゃん、いっぱい傷ついて、鱗とかそういうのも消えていたから、こう妖魔の血を活性?させる的な?」

 

 

 「……え、えぇ。……だいたい、わかります」

 

 

 あくまで概要だけど、そうか。そう、なるのか。私はその事実を咀嚼し、なんとか口を開いた。

 

 

 「葵さん」

 

 

 「う、うん……何?」

 

 

 「……本当に、ありがとうございます。葵さんのおかげで助かりました」

 

 

 「……え?え、えっと。その、どういたしまして?」

 

 

 まだ混乱しているのか、葵さんは曖昧な言葉を返してきた。それでいい。正直に言えば、私も同じような心境だ。

 

 私は葵さんの袖口にそっと触れる。彼女の血の付いた衣、その上に指を置き、一呼吸。そして――

 

 

 「……やっぱり、そうですよね」

 

 

 「?」

 

 

 血だけでは死にかけの私をどうこうすることはできない。

 ならどうやってと思った。

 

 葵さんの衣の奥――ひどく抉れた腹部があった。

 歪な命の拍動と共に治りつつあるものの、濃い血の匂いは消えない。

 

 彼女は文字通り身を削って私を救ってくれたのだ。私を心配させないよう誤魔化して。

 

 本当は、もう一度お礼を言いたかった。

 けれど、それを口にすれば、きっと葵さんは困ったように笑うのだろう。

 だから、今は胸の奥に留めておく。 

 

 

 (……ありがとう。葵さん)

 

 

 どうかこの想いが伝わりませんように。

 

 

 ――あなたが、私に隠そうとしたのと同じように。

 

 

 私は、そっと袖口から手を離した。




これで2章はおしまい。
次から3章、あらすじ通りの本題に入ります。
更新スピードは変わらず、一月に一回程度になりそうですが、気長に楽しんで頂けると幸いです。
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