玄関ロビーの中央。
巨大なシャンデリアの真下に、私と彼女は立っていた。
天井から吊るされた無数のガラス片が、赤い光を反射し、床に複雑な模様を落としている。
それはまるで、血で描かれた幾何学模様のようだった。
互いの距離は、およそ十メートル。
西部劇の決闘で、ガンマン同士が銃に手をかける、あの間合い。
視線だけが、空間を切り裂く。
私は全身に影をまとい、足元から伸びるそれを絡め取るように体に定着させていた。
背中や腕、脚の影が蠢き、数十本の触手として形を成す。
緑色のオーラが、体表を覆う。
魔力が濃縮され、空気が微かに歪む。
瞳孔は大きく開き、視界は極限まで拡張されている。
床の細かな傷、空気の揺らぎ、シャンデリアのわずかな振動――
すべてが、情報として流れ込んでくる。
いつ、どこから、何が来てもいい。
完全な迎撃態勢。
対するメイドは――
あまりにも、自然体だった。
背筋は伸びているが、力は入っていない。
両腕はだらりと下ろされ、指先にさえ緊張が見えない。
視線こそこちらに向けられているが、それは警戒ではなく、ただ「見ている」だけ。
戦場に立つ者の佇まいではない。
従者は主人に似るというが、まさにそれだった。
こちらを脅威とも、敵とも認識していない。
どこか億劫そうで、仕方なく付き合っている――そんな空気。
その態度が、ひどく癪に障った。
「……戦う気が、ないんですか?」
思わず、口をついて出た言葉。
私自身、こんな問いを投げるとは思っていなかった。
だが、それほどまでに、彼女の態度は現実感を欠いていた。
メイドは、ほんの一瞬だけ首を傾げる。
「そう見えるのなら、そうなんでしょうね」
感情の起伏を感じさせない声。
突き放すでもなく、煽るでもない。
ただ、事実を述べただけのような口調。
「……いいでしょう」
私は、低く息を吐いた。
「後悔しないでくださいよ」
その言葉と同時に、思考を切り替える。
これは試合ではない。
これは、余裕を崩すための一撃だ。
触手が一斉に蠢いた。
床から、壁から、空間そのものから生え出すように、影の触手が展開される。
数は数十本。一本一本が太く、重い。
質量攻撃。
速度を犠牲にせず、圧倒的な物量で叩き潰す。
逃げ場を奪い、回避の選択肢を消す。
前後。
左右。
上下。
全方位から、触手が迫る。
逃げ場は、ない。
――はずだった。
「はあ……」
その声は、私の背後から聞こえた。
「なんで私が、こんなやつと……」
触手が着弾した感触は、どこにもない。
空を切った、虚無の感覚。
背中を、冷たいものが撫でた。
私は、ゆっくりと振り返る。
そこにいた。
メイドは、余裕そのものの表情で、私のすぐ後ろに立っていた。
距離は、腕一本分もない。
まただ。
何の前触れもなく。
空間の歪みも、風圧も、魔力の動きも感じさせずに。
警戒態勢の私の目の前で、
私に悟られることなく、背後を取った。
「……ははっ」
思わず、笑いが漏れた。
「初めてですよ」
喉の奥から、熱がこみ上げてくる。
「こんなに、不気味な相手と対峙したのは」
恐怖ではない。
それよりも、もっと厄介な感情。
好奇心。
理解できないものに対する、純粋な興味。
理屈はわからない。
だが、このメイドは、確実に“人知”を超えた何かを持っている。
その事実に、私は僅かな賞賛すら覚えていた。
「そりゃあ、そうでしょ?」
メイドは、肩をすくめた。
「あなたと私は、初対面なんだから」
そう言いながら、彼女は太もものベルトに手を伸ばす。
金属音。
ナイフが、一本、二本、三本――
指の間に収まる。
磨き抜かれた刃が、赤い光を反射する。
「ナイフ使い、ですか」
私は、距離を取りながら影を再展開する。
「接近戦は、私の本領です。期待できそうですね」
触手が、地面を這う。
「何にも、わかってないのね」
メイドの声が、冷たく響く。
「ナイフは接近専用だとか、そうやって決めつけて戦うやつは――」
次の瞬間。
彼女の姿が、消えた。
「――いつだって、予想外に対応できない」
その言葉と同時に、頭上に“気配”が生まれた。
空を見上げる暇はなかった。
無数のナイフ。
それらが、突然、空間に“出現”していた。
落下ではない。
投擲でもない。
ただ、そこに在る。
刃先は、すべてこちらを向いている。
「――ッ!」
私は即座に触手を振り上げる。
影が叩きつけられ、金属音が響く。
一本、二本、三本……次々とナイフが弾き落とされる。
(何が起こった……!?)
思考が追いつかない。
メイドの姿を探す。
彼女は、いた。
最初に立っていた位置。
そこから、一歩も動いていない。
そして、私がナイフを叩き落とす様を、黙って見ていた。
観察するように。
「……なぜ」
最後の一本を弾き落とし、私は問いかけた。
「なぜ、攻撃して来ないんですか?」
メイドは、また首を傾げる。
「なぜって……」
本当に、不思議そうに。
「勝負が、終わっちゃうからよ」
その言葉は、あまりにも当然のように告げられた。
「これは、お嬢様を楽しませるためのものなんだから」
視線が、シャンデリアの上へ向く。
「早々に蹴りをつけても、面白くないでしょう?」
――ああ。
そういうことか。
理解した瞬間、胸の奥で何かが煮え立った。
手加減されている。
それも、徹底的に。
彼女にとって、私は――
いつでも倒せる存在。
少なくとも、そう“認識されている”。
腸が、煮えくり返る。
このまま、いい気にさせておくつもりはない。
私は、静かに息を吸った。
魔力が、全身に満ちていく。
影が、うねりを増す。
骨格が、筋肉が、内側から軋むような感覚。
姿が――
少しずつ、変わり始めていた。
骨の内側から、軋むような音がした。
それは悲鳴でも苦痛でもなく、ただ「形が変わる」音だった。
私の全身は、内側から押し広げられるように伸びていく。
背丈は、人間の尺度をあっさりと超えた。
床に映る影が、ぐにゃりと歪み、天井へと迫る。
腕も脚も、それに応じて太く、長くなる。
関節の位置がずれ、筋肉の付き方が書き換えられていく感覚。
皮膚の奥で、魔力が沸騰する。
同時に、頭皮が熱を帯びた。
茶色だった髪は、根元から色を変え、赤へ、さらに濃い深紅へと染まっていく。
額が割れるような感覚とともに、何かが突き出した。
角だ。
最初は小さな突起だったそれは、キシキシと嫌な音を立てながら成長を続ける。
左右に枝分かれし、湾曲し、天へと伸びていく。
やがてそれは、大型のヘラジカを思わせるほどの大きさとなり、シャンデリアの光を受けて鈍く輝いた。
耳も変わる。
人間のそれではない、鹿のように長く尖った耳が生え、周囲の音を過剰なまでに拾い上げる。
衣服が、一瞬だけ抵抗するように揺れた。
学生服じみた装いは、魔力に耐えきれず、空気に溶けるように形を失う。
代わりに現れたのは、赤いスーツ。
深い血の色を思わせる、光沢のある生地。
身体の変化に合わせて寸分違わず馴染み、私の輪郭を強調する。
顔も、変わった。
骨格が歪み、顎がわずかに前に出る。
頬のラインは鋭くなり、歯列が獣じみたものへと変形していく。
鏡がなくとも分かる。
今の私は、人間ではない。
私は――戻ったのだ。
悪魔に。
その一部始終を、メイドは黙って見ていた。
驚きも、恐怖も、警戒すらない。
ただ、視線を逸らさず、変化の過程を観察している。
一方で、頭上からは、はっきりとした「喜び」の気配が降ってきた。
「随分と、可愛い見た目に変わったわね」
シャンデリアの上。
吸血鬼の幼女が、心底楽しそうに笑っている。
その声を合図にしたかのように、メイドの手元が動いた。
ナイフが、静かに構えられる。
「ええ、待たせてしまって申し訳ありません」
私は、低く息を吐き、マイクを握り直した。
影が、足元で蠢く。
次の瞬間。
私の影から、異形が生まれ落ちた。
出来損ないの人形のような、布と糸の塊。
人の形を模しているが、どこか歪で、顔の位置も曖昧。
それが、一体、二体、十体、数十体。
床を蹴り、一直線にメイドへと突撃する。
同時に、私自身も影を使って前に出た。
触手が、地を抉り、空間を裂く。
メイドは、即座に姿を消す。
ナイフが空間に出現し、迎撃に放たれる。
だが――
私は、そのナイフを影で呑み込んだ。
金属音すら立てず、刃は闇に沈む。
「……っ」
わずかな、反応の遅れ。
私は、すかさず触手を放った。
メイドは、消えない。
回避行動を取る。
だが、その動きは、わずかに遅れていた。
触手が、足首を掴む。
「――捕まえました」
床へと叩きつけようとした、その瞬間。
空気が、裂けた。
大量のナイフが、再び飛来する。
だが、今の私にとって、それは脅威ではなかった。
触手が防ぎ、影が弾き、勢いは殺されない。
メイドの身体が、床に叩きつけられる。
鈍い音。
「がっ……ああ……」
肺から空気が絞り出されるような、苦しげな呻き。
私は、間合いを詰め、喉元へと触手を伸ばした。
その瞬間――
「はい、そこまで」
澄んだ声。
次の瞬間、触手に衝撃が走った。
紫色の槍のようなものが、正確に、触手を貫いている。
視線を上げる。
シャンデリアの上から、吸血鬼の幼女が、投げ放ったのだ。
私は、舌打ちを抑え、触手を引っ込めた。
魔力を収束させ、姿を人間へと戻す。
「いいものを見せてもらったわ」
幼女は、手を叩きながら降りてくる。
「まさか、勝つなんて」
感心したような声。
「お嬢様……申し訳ありません……」
メイドは腹部を押さえ、ゆっくりと立ち上がり、深く頭を下げた。
「いいのよ」
幼女は、軽く手を振る。
「これは遊びなんだし。それに、まだ霊夢との戦闘の疲れも取れてないでしょう?」
従者を宥めるその仕草には、見た目以上の重みがあった。
支配ではなく、信頼のそれ。
まあ実際、彼女は見た目の何十倍も生きているのだろうが。
「あなたの従者、なかなかのものです」
私は、率直に言った。
「まさか、悪魔に戻らないといけなくなるとは」
吸血鬼は、楽しそうに目を細める。
「理屈は分かりませんが……」
私は、視線をメイドへと向ける。
動き。
間。
消失の仕方。
「あなた、時を止めますね?」
あるいは、それに準ずる何か。
「少なくとも、時間に干渉したでしょう」
私は、探るように、メイドを観察した。