「…………すまない。いま、なんて言った?」
拠点を構築し日夜研究に明け暮れていたヴァシリは、帰還した探索組より齎された情報に耳を疑った。いや、正気を疑ったと言ってもいいかもしれない。少なくとも彼女がこれほどまでに現実だと認められなかったことなど、
汚れすら落とさず疲弊し消耗した様子を隠さないマリアンヌが、小さく呟く。
「……女神を名乗る存在に遭遇しました」
「…………どうやら、聞き間違いではないみたいだ。少し待ってくれ。茶を用意するから、軽く顔を洗ってくれ」
ヴァシリの部屋を訪れたのはマリアンヌとフィンとカトリーナ。
アリアは同行することを望んだが、本人が想像しているよりも疲労していたためフィンによって風呂に放り込まれ無事沈黙し、ミューズは特に関係がないからと食事を食べに行った。
あんな目に遭ってそれほど消耗せず我が道を行くのは凄いとマリアンヌはミューズへの評価を一段階引き上げた。
ヴァシリが風で操作してタオルを三人の元へ届ける。
水を生成し温めその場で濡れタオルに仕立て上げられたソレを受け取ったフィンは躊躇いなく顔と首周りを拭った。
カトリーナも恐る恐る同様に顔をタオルで拭い、それを見たマリアンヌは何度か自分のタオルとフィンの間に視線を交互に向け、意を決したかのようにバフっとタオルを顔に叩きつけた。
一足先に拭い終わったフィンがふと隣に視線を向けると、マリアンヌが己のタオルについた汚れを見てなんとも言えない表情をしている。
そんな彼女の顎のあたり。
右頬に近い部分にうっすらと汚れが残っているのを見て、フィンが口を開く。
「……マリアンヌ。ちょっと残ってるぞ」
「えっ……あっ、だ、ダメっ、見ないでください!」
慌てて顔をタオルでゴシゴシと拭うが、汚れている部分ではない。
「マリアンヌ、そこじゃなくてこっちだ」
「……ああ、どうも、ありがとうございます……」
「? ……どういたしまして」
萎むように声がか細くなっていったマリアンヌに疑問符を浮かべつつ、フィンは感謝を受け取った。
「……フィンは女神を名乗る存在にあったのに変わらないねぇ」
「あー……まあ、そうだな。付き合いが長いんだ」
「へ? …………ふぅ。なるほど、なるほど……すまない、もう一度いいか?」
「ああ。それなりに付き合いが長いんだ」
「…………? …………。 …………聞き間違いであって欲しかったんだが……」
「俺は極力嘘をつかないことにしてる。特に、師匠に嘘はつけない」
「それは嬉しいが、嬉しくないな」
ヴァシリは弟子の爆弾発言に意識を飛ばしかけたが、数千年の蘊蓄により堪えた。
サラッとフィンが溢した発言に目頭を抑えるヴァシリを尻目に、マリアンヌが言う。
「……フィンさん。その……先に説明してしまいませんか? その方が早いかと」
「そうだな。師匠、何が起きたかなんだが──」
フィンは森での退却中に起きた出来事を報告した。
アリアが何かを見つけたこと。
それほど遠くなかったために足を運んだこと。
謎の祠があったこと。
フィンを抱きしめるように、マリアンヌに似た黒髪の女が現れたこと。
現れた女は、フィンを我が使徒と呼んだこと。
マリアンヌの攻撃が防がれ、我が巫女と呼ばれたこと。
アリアの攻撃もすべていなされたこと。
カトリーナが場を取りもち説明をしたところで、女神ルルクスは姿を消したこと。
たっぷり時間をかけて説明されたヴァシリは飲み込むのに間を要したが、頭ごなしに否定するでもなく、しかし理解を拒むでもなく、注いだハーブティーが冷め切ったことにようやく口を開いた。
「…………所々気になる部分はあるが、…………いや待て。ふぅ……突拍子もないことだが、認めざるを得ないか……」
「……信じるのですか?」
渋々と言った様子で受け入れようとするヴァシリにマリアンヌが問う。
正直言って、女神エスペランサと戦った女神が現れたなど信じがたいことだ。
まずこれを口頭で説明されて信じる者などこの世界に存在していない。
世界全土に広がっている女神エスペランサの存在はあまりにも大きく、そもそも教団など存在していない頃から信奉されているのだ。人々が無意識に頼り、信じ、心の支えとする存在──それが女神エスペランサである。
親が、師が、先達がエスペランサの存在を教える。
子はそれを学び、自分たちの子へとまた教える。
そうやって脈々と受け継がれてきたものこそが女神エスペランサである。
それは、3000年前から何も変わらない。
マリアンヌは仮にもエスペランサ教の聖女だ。
孤児院に引き取られ善良なシスターによって育てられた。
決して女神の信奉者ではないが、女神が存在しなければ教団も存在しなかった。孤児院もなかった、シスターもいなかった。そう考えればエスペランサ教を否定するような神の存在など認めたくはない。
だが、個人的な意思を優先するほど彼女は子供ではない。
聖女として教団のグレートゲームに参加し枢機卿より薫陶を受け始めているマリアンヌは、現実に起きていることだと捉え思考することを可能としていた。
そんな彼女ですら、目の前で見たからこそ、言葉を聞いたからこそ、その力を目の当たりにしたからこそ信じる選択ができたのだ。
話に聞いただけで現実に起こったことだと理解しようとするヴァシリは異常に見えた。
そういった思惑を感じ取ったのか、ヴァシリは苦笑しながら言う。
「そもそも私にそんな嘘をつく理由がない。もし嘘をついているとして、それに一体なんの意味があるって言うんだ。女神エスペランサが私を反逆者にでも仕立て上げようとして暗躍しているか、反抗勢力に君たちが洗脳されたくらいしか思いつかない。それに、長生きしてるからね。君たちよりもそういう事情を噛み砕きやすい土台があるのさ」
そう言いながら、ヴァシリは手元の手帳を指でなぞった。
「……しかし、そうか。敵対的ではなかったんだな?」
「はい。少なくとも、私達を害そうとする気はなかったように思えます。活動できる時間も短く、それ以上何もできなかったからという可能性もありますが……」
「……それに関しては俺からも謝罪させてほしい」
ここで、フィンが口を挟む。
「フィンさん?」
「先程も言ったように、俺はそれなりに闇……女神とは繋がりがあってな。カトリーナ、君も似たようなものなんだろ?」
「……はい」
「……はぁ。DLCとやらもやっておけ、ヨハンめ……」
ヴァシリが耐えきれずため息を吐いた。
「……よし、続けてくれ」
「ああ。と言っても、実はそこら辺の事情に詳しくなくてな。俺が使徒と呼ばれる存在だと知ったのもついさっきのことなんだ」
「……え? えっ? うそ、そんなわけ……あ、いえ、そんな文句があるとかではなく……はい! すみません! ごめんなさい!」
疑問を溢すカトリーナ。
彼女はフィンの方を見てキョトンとしていたが、やがて威圧を感じたのか必死に謝罪を始めた。
「お、おいおいフィン。脅しすぎだ」
「……すまん、カトリーナ」
「い、いえ。今のは怒るのも当然なので……」
そのまま互いに矛を納め落ち着いてから、改めて口を開く。
「ええと、どこから話すべきでしょうか。どこまで話すべきですか?」
「……そうだな。そこまで大きな話になるなら、全員集めた方がいいか」
「待ってください。セラフィーヌさんと護衛騎士にも話をするのですか? 私よりもずっと教会と近しい分、そういったことを聞かせるにはリスクがあるかと」
裏切るとまでは言わないが、影響が出かねないと懸念する。
マリアンヌはセラフィーヌの心までは知らないしわからない。
もしも邪教認定されてしまえば途端に面倒ごとになる。
「……常にいるわけではない。王都に戻ってる最中にすることにしよう」
ヴァシリはやや考えてから、省くことにした。
宗教に関して扱いが難しいことを理解しているからだ。
現在王都が盤石なのは枢機卿が全てを掌握しているからであり、セラフィーヌが反旗を翻した途端情勢は一気に変化する。
最悪本国から対立勢力の者が送られてきて政争が始まる、なんてことは避けたかった。
「なら今日はなしですね。明日、戻る予定でしたか」
「ああ。話を聞いて、その上で問題ないと判断できたら彼女らにも伝える。正直、手放したくない人材だからね」
はぁ、とヴァシリは何度目かのため息を吐く。
(祠、か。アニカの言った通りだったが、最悪を引いた割には想定していた事態とは異なる。やはりこれも私の介入によって変化があったのか、もしくは……)
その視線を愛弟子に向けた。
自分の運命を変えた男。
この世界の誰よりも英雄と呼ばれるに相応しい人。
運命を変えたその瞬間、彼女は隣にいなかった。
遠く離れた地で全てが終わった後に知らされた。
だから彼女は、現場で何が起きたかを知らない。
(何かあったとすれば、そこしかないだろうな)
マリアンヌを我が巫女と呼んだこと。
【聖撃】の謎に、アニカの言う〈聖女〉と神属性の繋がり。
そして何よりも、フィンを我が使徒と呼んだこと。
(…………。ふむ。──さて、困ったな。存外、不愉快だ)
フィンを我が物とばかりに呼んだこと。
妙に砕けた態度であったこと。
己のものを愛するなどと言ったこと。
女神ルルクスとやらの発言が、何よりも不快だとヴァシリは思った。
(フィンはお前のものじゃない。これではアリアを笑えないな)
さらにもう一度、ため息を吐く。
胸中に湧き出た負の感情を押し込めて。