宇宙歴七九五年 八月
「兄ちゃん兄ちゃん、帝国宇宙軍入らんか?」
と、ヤン・ウェンリー自由惑星同盟軍中佐が話しかけられたのは、宇宙歴七九五年の八月。銀河帝国の首都にして帝星、その経済的中心部と言っていい初代皇帝の名がつけられた街にある離宮を、周囲を隔てる堀越しにぼーっと眺めていた時だった。何しろ周囲には多数の高層ビルが建ち並んでいて、腰を掛けられそうなところもほとんどなかった。ヤンが現在いる場所は官公庁街であり、歓楽街は広大な離宮を挟んでその逆側に立ち並んでいるため、一般人が入りやすい店もなかった。そんな状態で途方に暮れて、慣れない街の中を公共交通機関でどう逆側まで行くか、いっそ覚悟を決めて歩くか、そんなことを考えながら茫洋と離宮を眺めていたのだった。
「はあ?」
ヤンには一瞬、男が何を言っているのか理解できなかった。これまでの人生でそんなことを聞かれたのは初めてだったからだ。
ヤンは呆気にとられた顔をしながら、声のほうに振り返った。小柄な冴えない東洋系のおじさんがいた。フォーマルな恰好ではなかったが、けしてだれてもいない服装をした男の胸には帝国軍徴募官の印章が張り付けられていた。そこまで理解したところで、ヤンの頭は再稼働した。
「ああ、いえ、私はこういうものでして」
と言うと、ヤンはポケットから身分証を取り出した。ヤンが自由惑星同盟市民であり、同盟軍中佐であることを証するものだった。その内容をさっと確認するなり、徴募官は一瞬で砕けた態度を豹変させ
「失礼いたしました、中佐殿」
と敬礼を返してきた。ヤンは、ええ、と曖昧な声を出しつつ敬礼を返した。
「小官は
そう言った後で、チョン少佐はまじまじとヤンを見た。
「はあ、あなたがあのヤン・ウェンリー中佐殿ですか。なるほど」
「私を知っているのですか?」
「ええ、我々帝国宇宙軍の中でも高名でいらっしゃいますよ。『エル=ファシルの英雄』のことは」
それを聞いて、ヤンは心の中で苦笑いした。どうやら外国でもその虚名からは逃れられないらしい。
「あのような脱出行を成功させられるとはどのような英雄かと思っていたのですが、いやはや、このようなところで出会う事が出来るとは、光栄です」
「それはどうも」
ヤンは内心苦笑いを続けながら答えた。
「さて、休暇の間に思わぬ手間をかけてしまいましたお詫びをしたいのですが、こんな時間ですが、一杯いかがでしょうか?」
「お酒は嬉しいですが、あいにくとただ今持ち合わせがありませんので。奢ってもらうのも悪いですし、その他にもまあ、いろいろありますから」
あいまいに言ってヤンはお茶を濁したが、拒否の意思だけははっきり伝えた。こんな風体の人間で美人局でもあるまいし、別に今のヤンが大それた機密を持っているなどということはないのだが、だからといって出会ってすぐの外国軍の人間からそこまでしてもらうのも問題であろう。チョン少佐は小さく頷くと
「それもそうですな。では、また機会があれば」
そういってヤンと別れた。
ヤンは小さく手を振って答え、改めて離宮と、その先にあるビル街を見た。よく晴れた空の元、木々に覆われている広大な敷地の向こうに様々なビルが何事もないように建ち並ぶ様は、平和と言う印象を強く与えていた。
『