てんとう虫は、幸運の象徴なんだ。

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てんとうむし

雨が地面を打つ音が聞こえてくる。昼間だというのに外は薄暗い。湿気と熱気が混じり合って、じめじめとした不快な暑さが世界を、アパートの一室を支配している。

 

暑い。

 

五月の終わり際。

 

汗ばむ背中にシャツが張り付いて、ひんやりとして気持ちが悪い。気圧のせいで頭が痛い。畳にめり込む膝がじんじんと痛い。

世界の全てが不快でイライラする。

 

こんな雨音が妙に耳に入る日。

 

碌でもない世界。

 

父は誰だか分からない。母が私を妊娠したと知って逃げたらしい。

母の事は覚えている。いつも疲れた様子で、でも優しく笑う人だった。

 

私が小学校から帰ってきた時、母はいつもいなかった。電気のついていない部屋。入った瞬間に目につくのは、ラップのかけられたおにぎりと玉子焼き。もちろん冷めきっていた。

おにぎりの具は塩昆布か、のり玉で、玉子焼きは甘みが強かった。いつもレンジで温めて食べていたが、ある日、体育で疲れ切って温める気力も無かったので、冷めたままの状態で食べた事があった。

そうしておにぎりを頬張った時の、ひんやりとした冷たさが今でも忘れられない。

なんだかその冷たさが、余計に虚しさを際立たせた。

疲れた心と身体に染み、涙が流れた。

 

 

母が帰ってくるのは夜遅く。私が眠っている間に帰ってきて、私の頭を撫でてくれた。寂しくて眠れなかった私は、それを知っていた。困らせないための寝た振り。それで報われた気がした。それが入眠の合図だった。

 

しかしある日、母がリビングで倒れていた。過労だった。

 

母は女手一つで私を養うために毎日遅くまで働いていて、昼はスーパーで働き、一度家に帰って晩御飯を作ってから、家事をこなした後に工場で働いた。そしてもう一度帰ってきたら寝て、私より早く起きていた。頬はやつれ、目にはいつも隈ができて、けれど私に向ける眼差しは優しかった。

 

母は倒れてから、あまり働けなくなったので、私も小学生なりに母を支えようとした。洗い物をしたり洗濯物を畳んだり。

 

"ありがとう"と、微笑んでくれたから、私もつられて笑顔になった。役に立てて嬉しかった。二人で支え合って生きている気がした。

 

暮らしは以前より貧しくなったけれど、それでも良かった。お風呂はシャワーしか使えないし、ご飯も量が少なくなったし、服もボロボロになっていったけれど。

 

夕方、二人で並んで台所に立って、ご飯を作りながら歌を歌った。私もあなたも笑顔だった。心が満たされた。

 

しかし、そんな私の意思とは裏腹に、母は私を養護施設に入れると決めていた。

 

「やだ!」

 

泣き喚き抵抗した。

母と離れ離れなるのは嫌だった。

 

"あなたの為なの"

 

と母は泣いていた。意味が分からなかった。私にちゃんとご飯を食べたり、お風呂に入ったりして欲しいから、養護施設に入れるのだと。

 

「いかないでおかあさん!」

 

そんなものはどうだって良かった。お腹が空いたら何だと言うのか。お風呂に入れなかったら何だと言うのか。私はただ、一緒にいたかった。私にとってあなたはお母さんだったんだよ。

 

結局、泣き喚く私は引き摺られ、強制的に施設に入れられた。毎日涙を流した。ご飯はいつも温かく、お風呂にも入れたが、それの何が良かったのか。心の中の空虚感はあの時よりも強くなっていた。

寂しい。見捨てられた。そんな思考が頭を巡り続けた。

 

心の傷。

 

だからいつか、自分に子供ができた時、何があろうとずっと一緒にいると決めた。

 

今、私が馬乗りになって、首を絞めているこの娘とは、ずっと一緒にいると決めていた。

 

誰の子かは分からない。色んな男に体を許した。こんな私でも求められていると嬉しかった。誰の娘であるかなんてどうでも良い。あなたは私の娘なの。お腹に宿った命。それを感じるだけで幸せを感じられた。

 

ああ、じめじめした熱気が肌に張り付いて気持ちが悪い。気圧で頭が痛くてイライラする。前頭葉に血流が詰まったようなぼんやりとした感覚。抑えられているのか。コーティングされているのか。とにかく、しんどい。

 

○学生になった娘。

ジタバタと手足を動かし、何とか私から逃れようとしている。顔を真っ赤にして、口をパクパクさせ、必死に空気を取り込もうとしている。しかし気道を塞がれているので、ゴッゴッと、まるで豚の様な音が鳴るのみだった。その虫みたいな必死さと豚みたいな声がなんとも滑稽で、思わず笑った。

 

ああいつからなのだろうか。愛おしい我が子を、虫ケラのように思うようになったのは。

 

いつもはこうじゃない。けれど、どうしょうもなく嫌悪感を思えてしまう時がある。

 

夜。眠れなかった。あなたの夜泣きで。いつもいつも眠れなくて。何が不満なの? あなたには私がいるじゃない。私にはお母さんがいないのに。泣いて泣いて泣いて。私が泣いている時、涙を拭ってくれる人は居なかったのよ。何が悪いの? 私の何がいけないの? どうして良い子でいられないの?

あなたの泣き声は、私の傷に響いた。

私の今まで全部を否定された気がした。

 

 

 

〜〜〜

 

 

 

息ができない。苦しい。顔が張り詰めるように痛い。絞められる喉が、むせたように痛い。実際喉元に親指が食い込んで、むせている。爪も食い込んで痛い。しかし咳も出来ず、ただ苦しい。

段々と意識が遠のいてきた。

 

走馬灯が頭をよぎる。ママは普段は優しいのに、定期的にわたしを傷つける。ママがわたしを掴むとき、力が強くて爪が食い込んで痛い。嫌がるわたしを引っ張って洗面所で髪を切られた。その時の腕の皮と筋肉が引っ張られるミシミシとした痛みも、雑な切り方で髪が引っ張られる痛みも忘れられない。でも、優しく微笑みながら頭を撫でたり、全部が終わったあと泣きながら抱きしめてくれる。

 

涙で歪んだ視界に映るママの顔は、ほっぺたが凹んでいて、目に隈があった。ボサボサの白髪交じりの髪。笑っているけれど、憎らしそうに私を見つめる歪んだ瞳。

 

わたしはしぬんだ。

 

恐怖と苦しみ、段々と身体の感覚が無くなっていく。嫌だ。剥き出しの否定。それがママに伝わったのか余計に力が込められた。

 

そして不意に股にじんわりとしたあったかい感触が広がった。

 

すると私を抑える力が緩んだので、急いで力を振り絞ってママを身体からどかせて、ゴホゴホと咳き込みながら、久しぶりの空気を吸った。

 

段々と物を考えられるようになり、さっき自分が何をしたのかを理解した。

ズボンに張り付いた液体は肌を刺激し、畳の上に染み、広がっている。

 

わたしはもらした。

 

ママの膝も濡らしてしまっていたようで、淡黄色の液体がテカテカしていた。

わたしが咳き込んでいる間に、ママは立ち上がっていて

 

「舐めろ」

 

「……はい」

 

わたしに差し出された右脚。

膝から下へ水滴が伝う様がまざまざと見せつけられ、本当に恥ずかしい。いつの間にか出ていた鼻水を啜りながら、すぐにママの下に向かい

 

「あぇ……」

 

跪いて舌を出した。

 

伝い落ちた淡黄色の水滴が、ママの足首に留まっている。仄かに独特のアンモニア臭がする。

 

ハァハァと、まるで犬のように惨めに舌を足首に近づける。吐息が足首に当たる程に近づくと、ママの肌に当たった吐息が少し跳ね返ってきて、わたしの唇に熱を伝えた。口呼吸をしているため、段々舌が乾いて冷めていき、じわじわと、舌先と淡黄色の水滴が触近づいていく。

 

そうして舌先と触れるか触れないかという時

 

ピチャ

 

わたしの舌先が尿に触れ、水滴が弾けた感覚が分かった。まだ少しほかほかしていた尿が、乾いた舌先にじんわりと広がり、潤していく。そのぬくもりが鋭敏に感じられる。じわじわと、わたしの舌に染み込んでいく。

 

たまらずママの足首に舌を押し付けると逆に、肌の冷たさがわたしの尿のぬくもりをはっきりとさせ、寒気が走った。

 

一気に膝まで舌をスライドさせると、水滴がどんどん溜まっていき、膝を舐めしゃぶる頃には、口の中が唾液とおしっこが混じった液で溢れそうだった。

それが口から垂れそうになり、思わず飲み込んでしまい

 

苦みと塩気が一気に鼻に広がった。ぬくい液体が喉を伝っていき、お腹の中に入るのを感じた。その感覚の気持ち悪さに脳髄が震えるような心地。鳥肌が止まらない。

 

〜〜〜

 

雨が止み、虹が渡る青空の下。

公園の葉っぱの上に小さなてんとう虫がいた。お腹が空いたので食べようと掴むと、黒い手足をバタつかせている。それと同時に指先に温かい感触が染みた。

 

手を離すとてんとう虫は飛んでいき、わたしの指先にはオレンジ色の苦い臭いの液体がついていた。てんとう虫の粗相。

なんだかそれはわたしの尿みたいで、舐めなければならないと思った。

舌先に生暖かい感触が染み込み、強い苦味が鼻腔に広がった。

 

「オエェェェ……」


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