秋の陽は釣瓶落としと言うが、教室を染め上げていた茜色は、粘りつくような執着を持って床に張り付いていた。放課後の静寂は、時折聞こえるグラウンドの掛け声によって、かえってその輪郭を際立たせている。私は、ダンボールに詰め込んだ私物を抱え、努めていつも通りの、平坦で丁寧な声で扉の向こうへ返事をした。
「失礼します。」
ノックしたドアの向こうから了承の意を聞いた千奈がしずしずと中に入ってくる。ぎこちない足取りで机の方へ向かい、僅かに軋むパイプ椅子へ座ると向かいにいるプロデューサーの方へ顔を向けた。
「お疲れ様です。やはりライブの疲れはまだ抜けていませんか?」
「ええ、何とか歩くことができるくらいですわ。アイドルの皆さんは、こんな大変なイベントをこなしていらっしゃるんですね。」
「ええ、アイドルは大変なんです。」
「本当に、そうですね。」
とりとめのない言葉を交わしながら、手際よく作業を行うプロデューサーを、引っ越しで空になった部屋を見つめるときのように悲しい目で見つめる。
「倉本さん、荷物はこれで全てですか? ……あとの引き継ぎは済ませてありますから、次の担当の方ともうまくやれますよ」
窓際に立つ千奈は、俯いたまま小刻みに震えている。夕日が彼女の影を長く伸ばし、その影が足元まで届いていた。まるで、行かないでくれと縋り付く子供の手のように。
「……本当に、よろしいのですか?」
絞り出すような声だった。
「わたくしが、最後に転んだせいですわ。先生の計画は完璧でしたの。……わたくしが、ぽんこつなばかりに……先生の未来を、潰してしまいましたのよ……!」
彼女の華奢な肩が跳ねる。先日のライブ。最終局面。彼女は足をもつれさせ、ステージの上で無様に転倒した。パフォーマンスは中断され、結果は惨憺たるものだった。
『結果を出せなければ、相応の責任を取る』。
彼女の活動を認めてもらうために交わした契約。その履行として、指導力不足の責任を取り、彼女の担当を外れることになった。ある種の反逆は最後の最後で失敗し、契約が、今は彼女を最も傷つける刃となっている。
「俺の力不足です」
それ以外の言葉は、言い訳になる。けれど、その言葉すらも彼女を否定する響きを持っていることに気づき、プロデューサーは唇を噛んで視線を逸らした。これ以上、ここにいてはいけない。優しさが、互いの首を絞めるだけだ。彼は背を向け、教室の扉に手をかけた。
「……先生」
背中越しに、震える声が投げかけられる。
「……もしも、あの時。わたくしが転ばなかったら。……先生はまだ、隣にいてくださいましたか?」
扉のノブを握る手に力がこもる。冷たい金属の感触が、熱を持った掌に痛い。
『当然です。』
喉元まで出かかった肯定の言葉を唾と一緒に飲み込む。こんな結末にしてしまった自分にそれを言う資格はない。だがその沈黙は何よりの肯定であり、それに気づかないほど二人の距離は遠くない。衣擦れの音と共に、彼女が顔を上げた気配がした。
「先生。最後に、一番のわがままを聞いていただけますか?」
振り返ると、彼女は袖で目元を抑えていた。潤む瞳に宿る、最後の灯火のような、悲痛なほどの意志が、やわらかに、しかし重く突き刺さる。
「もう一度だけ、『初』をやらせてください。……今度は、転びませんから。先生が育てたアイドルが、本当は凄いんだって……その目に焼き付けていただきたいんですの!」
無事借りられた学内のスタジオは、コンクリートに熱を奪われ肌寒かった。窓の外は既に夕日が掛かっている。プロデューサーは二人分には明るすぎる照明を点け、千奈はスピーカーを調整する。観客はひとり。これが、ふたりで作る最後のステージ。
イントロが流れ出す。可愛らしい、けれどどこか切なさを孕んだ音が、静まり返ったスタジオを満たしていく。
千奈が、踊り出した。その一歩目で、彼は息を呑む。硬さも、迷いもない。指先の角度、視線の配り方、ステップの軽やかさ。その全てが、本番の時以上に洗練されている。
(……ああ、綺麗だ)
教え子が見事なパフォーマンスを見せる中で、脳裏に、走馬灯のように記憶が蘇る。
基礎体力作りでへばってへろへろの悲鳴を上げていた姿が。ステップが踏めずに何度も転んだレッスン室が。初めて練習についてこられた時、汗だくで見せたあの嬉しそうな笑顔が。
それら全ての時間が、血となり肉となり、今の彼女を形作っている。
ああ、よかった。教えてきたことが今、見事に花開いている。
曲は終盤へ差し掛かる。ボルテージが上がり、振り付けが激しさを増す。あの日、彼女が転倒したあの場所が近づいてくる。思わず拳に力が入り、祈るように彼女を見つめた。
千奈の表情は真剣そのもの。涙の跡が残る頬を紅潮させ、唇を引き結び、床を見据える。
ステップ、そしてターン。軸足が、床を噛んだ。重心はブレない。スカートが花のように広がり、そして収束する。転ばない。完璧なバランスで着地し、彼女は最後のフレーズを歌い上げた。まさに今をつかみ取ったのだ。
右手を上げたポーズでしばし静止する。指先まで神経の通った、完璧なフィニッシュだった。
そして曲が終わる。余韻すら吸い込まれた静寂で、スタジオには、千奈の荒い息遣いと、私の心臓の音だけが響いていた。
「……っ、うぅ……!」
ポーズを解いた瞬間、千奈はその場に崩れ落ちた。膝をつき、床を叩いて、子供のように泣きじゃくる。それは成功の喜びを大きく塗りつぶしてしまうほどの、あまりにも残酷な後悔の涙だった。
「……どうして、本番でこれができませんの……! どうして今なんですの……!」
今できたということは、あの時もできたはずなのだ。「もしも」という可能性を、彼女自身が証明してしまった。いま成功した、成功させてしまったという事実が、逆に「本番での失敗」を取り返しのつかない過去として、鋭利な刃物のように彼女を突き刺す。
プロデューサーは彼女に歩み寄り、膝をついて目線を合わせた。これからは共に夢を見た、共犯者たちの別れ話だ。
「……本当に素晴らしかった。今まで見た中で、一番いいステージでした。」
千奈が濡れた瞳で彼を見る。
「……先生、褒めてくださるんですか? ……わたくし、ちゃんとできましたか?」
「ええ。あなたは立派なアイドルです。」
震える彼女の肩に手を伸ばしかけて、すぐに止めた。その資格はもうない。
代わりに、精一杯の強がりで告げる。
「……俺がいなくても、あなたはどこへだって行ける」
それは、私なりの最大限の賛辞であり、そして別離のはなむけだった。安心して送り出せる。だから、もう振り返るなと。
けれど、千奈はその言葉を拒み激しく首を横に振る。
「……違いますの、そんなことどうでもいいんですわ!」
彼女は私のジャケットの裾を掴み、悲鳴のような声を上げた。
「わたくしは一人前のアイドルになりたい。でもそれは、先生と一緒に進まなければ、意味がないんです!!」
その言葉は、一番聞きたくて、そして一番聞いてはいけない言葉だった。胸の奥が張り裂けそうになる。
「俺もだ」
そう言ってしまえば、どれほど楽だろうか。 だが、それは彼女の未来を閉ざすことになる。彼女はこれからアイドルとして花開いていく。そこに自分の存在が、彼女の足枷になってはならない。
彼はゆっくりと、けれど冷酷に、裾を掴む彼女の手を解いた。指先が離れる瞬間、彼女の瞳から光が消えるのが見えた。
立ち上がる。もう、顔を見ることはできなかった。
「……どうか元気で。」
短く、それだけを告げて、彼は出口へと歩き出す。背後から、押し殺したような嗚咽が聞こえた。振り返りたくなる衝動を、足元の床に叩きつけるようにして進み、重い防音扉を開けると、廊下へと出る。
バタン、と閉まる音が、二人の時間を完全に分断した。
廊下の窓から見える夕日は、熱も、涙も吞みつくしに冷たく、赤く輝いている。ただひとつ完璧な『初』の記憶だけが、そこに残っていた。
小町蜘蛛という蜘蛛は母が子を守り、最後はその身を子に喰わせるという習性がありますが、プロデューサーはまさに小町蜘蛛の母のようでしょう。
そして12月31日(2日目 水曜日)
東6ホール キ-02a
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