レッドサンブラッククロス戯典 vol.12' パナマ侵攻03巻 プレビュー版   作:南条匡

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一九四九年〇二月〇二日
ハワイ・オアフ島




1-2 旧友との再会

 太平洋の荒ぶる波濤を越え、中米の結節点へ向かう遣米艦隊の航跡は、鋼鉄の意志そのものであった。

 

その中枢たる総旗艦、超々弩級戦艦〈尾張〉。基準排水量八四〇〇〇トン。五一サンチ砲四門を擁するこの洋上の城塞は、かつて大艦巨砲主義の極致として建造されながら、いまや航空主兵の時代における艦隊防空の要として、あるいは政治的なシンボルとして、太平洋の波を切っていた。

 

 その広大な後部甲板から、一機の回転翼機が慌ただしく飛び立った。目的地は、艦隊の輪形陣内にある飛行艇母艦〈厳島〉である。

 〈厳島〉の舷側に横付けされた機体は、川西航空機が誇る傑作、七式大艇であった。四発のハ五四エンジンが不協和音を奏で、その巨体が白波を蹴立てて冬の空へと舞い上がる。

 

 機内には一人の将官が収まっていた。伊藤整一海軍大将。遣米艦隊司令長官。彼が向かう先は、真珠湾。

 かつての日米関係が、ほんの少しのボタンの掛け違いで破綻していたならば、最初の標的となり、あるいは墓標となっていたかもしれないその場所に、日本海軍の将官が、同盟国の友として降り立とうとしていた。

 歴史の皮肉。あるいは神の悪戯。眼下に広がる真珠湾は、平和な南国の楽園ではない。そこは、傷ついた巨人が血を流しながら休息する、野戦病院にも似た前線基地であった。

 

 合衆国太平洋艦隊司令部。その執務室の窓からは、出撃を控えた合衆国海軍最後の切り札、第一六、一七、七一任務部隊の艨艟の群れが視える。

 レキシントン級航空母艦の直線的なシルエット。

 サウスダコタ級戦艦の短身だが重厚感に満ちた威容。

 傷だらけの巡洋艦たち。

 そして、大わらわで現役に復帰した駆逐艦の群れ。

 だが、部屋の主である男、レイモンド・エイムズ・スプルアンス大将の今の関心は、その頼もしくも痛々しい艦隊にはない。

 彼の視線は、港湾の空に現れた一機の飛行艇に向けられていた。もうすぐ彼がやってくる。かつての友が。

 

 ドアがノックされる。乾いた音。 「提督、お客様がみえられました」 副官の声にも緊張の色が混じる。無理もない。かつての仮想敵国の提督を、司令部の最深部に招き入れるのだ。

 

「入ってくれ」 スプルアンスは短く答えた。ドアが開く。純白の第二種軍装に身を包んだ、長身の男が入室した。その風貌は、以前会った時よりもいくぶん白髪が増え、目尻には深い皺が刻まれていた。

 

 それは彼がくぐり抜けてきた激戦の年月の証であり、同時に、一国の海軍を背負う指揮官の孤独の影でもあった。スプルアンスもまた、鏡を見ずとも知っている。自分も同じ顔をしているはずだと。

 

 儀礼的な敬礼は、十秒ほどで終わった。そこにあったのは、階級や国籍という重苦しい鎧を脱ぎ捨てた、ただの二人の初老の男の姿だけだった。

「久しいぞ、セイイチ」 スプルアンスは、その冷徹な理知のマスク、部下から電子の頭脳と畏怖される表情を僅かに緩め、歩み寄った。

「また会えて嬉しいよ。レイ」 伊藤もまた、柔らかな笑みを浮かべて応じた。お互いをファーストネームで呼び合うその光景は、二つの巨大な海軍組織の頂点にある者同士の会合というよりも、大学の同窓会における旧友の再会にふさわしかった。

 

 副官を下がらせ、スプルアンスは自らの手でコーヒーを注いだ。その香りが漂う室内で、二人はまず、眼前の「仕事」について言葉を交わした。パナマ侵攻艦隊。作戦名〈贖罪〉。それは、ドイツ第三帝国によって奪われたパナマ運河を奪還し、太平洋と大西洋を再び結ぶための乾坤一擲の大作戦である。

「第一六、一七、そして七一任務部隊。どれも今の我々が出せる最良のカードだ」 スプルアンスは、机上のリストを指でなぞりながら、彼が選んだ指揮官たちの名を挙げた。その声には、手塩にかけた子供を戦場へ送り出す父親のような複雑な響きがあった。

「アーレイ・バークの闘志は、時に過剰だが、膠着した戦況を打破するには不可欠だ。奴は駆逐艦に乗っている時と同じ感覚で、機動部隊を回そうとする」

 

「『三一ノット・バーク』か。噂は聞いている」 伊藤が苦笑する。

 

「ああ。だが、モートン・デヨには物事を俯瞰する冷静な観察眼がある。バークが熱くなりすぎた時、冷水を浴びせる役回りだ。そして、グレン・ディヴィスの慎重さは、無謀になりがちなバークの手綱を握るのに丁度いい」

 スプルアンスはそこで言葉を切り、少しだけ皮肉げに続けた。「もっとも、どいつもこいつも一癖ある奴ばかりだ。特にバークは。あいつは空母部隊の指揮官になっても駆逐艦乗りの魂を忘れていない。命令無視も日常茶飯事だ。しかし、あいつはいいぞ。生き残ればいつかは合衆国海軍を代表する指揮官になるに違いない」

 

「生き残れば、か」 伊藤の呟きに、スプルアンスは無言で頷いた。この戦争において、生き残るということほど困難な事業はない。

 

 戦力と人事の確認が一段落した頃、話題はふとした拍子に、かつてあり得たかもしれない「もう一つの歴史」へと滑り落ちた。

 それは、軍人特有の思考実験であり、同時に、回避された破局への安堵でもあった。

 もし、あのまま日本と合衆国が干戈を交えていたら……もし一九四〇年代初頭に欧州でドイツ第三帝国という絶対悪が膨張せず、日米の対立が決定的になっていたら。太平洋は、日米双方の若者の血で赤く染まっていただろう。

 

「自分は前線には出なかっただろうが……」 伊藤は湯気の立つカップを見つめながら、静かに語った。その視線は、カップの中の黒い液体を通して、存在しなかった過去を見ているようだった。「もし出ているなら、戦艦ではなく、巡洋艦部隊を率いていただろうな。夜戦で君たちの戦艦を襲うような、そんな心躍る戦いだ」

 

「自分もだ」 スプルアンスが即座に応じた。「巡洋艦部隊か、あるいは空母部隊の幕僚か。もしかしたら、戦場で相まみえていたかもしれないな」

 

 その言葉は、二人の意識を急速に過去へと引き戻した。昭和二年。ワシントンD.C.。

 狂騒の二〇年代が終わりを告げようとしていた頃。当時、海軍駐在武官として滞在していた若き日の伊藤整一中佐と、海軍情報局に勤務していたレイモンド・スプルアンス中佐。二人の出会う場所は、社交界の華やかなパーティ会場ではなく、薄暗い資料室や、静寂に包まれたポトマック河畔であった。

 二人には共通点があった。派手な振る舞いを好まず、酒席での狂騒よりも静寂を愛する気質。

 多くの海軍軍人がそうであるような、ウィスキーをあおり、武勇伝を語る豪放磊落さとは無縁の、寡黙で控えめ、そして生真面目すぎるほどの性格。彼らは海の男である前に、理性の人であった。言葉を多く交わさずとも、二人は互いの中に自分と同じ種類の人間を見出し、またたく間に意気投合した。

 休日の午後、二人はよくポトマック河畔を散策した。会話の内容は、常に専門的で乾いたものだった。クラウゼヴィッツの戦争論。マハンの海権論。あるいは、最新の条約型巡洋艦の設計思想について。

『次の戦争は、巨砲の撃ち合いでは決まらないだろう』 かつて、スプルアンスはポトマック河の川面を見つめながらそう言った。

『航空機か?』 伊藤の問いに、彼は首を振った。『それもあるが、何よりも兵站。そして情報だ。どれだけ正確に敵を知り、どれだけ迅速に物資を運ぶか。戦争は、巨大な事務処理になる』

 その予見の正しさを、二十年後の彼らは嫌というほど思い知らされている。ドイツ軍の強さは、個々の兵士の勇猛さ以上に、その狂気じみたシステム化された戦争遂行能力にあったのだから。

 

 伊藤の帰国が決まった際、スプルアンスはユニオン駅のプラットフォームまで見送りに来た。周囲の喧騒から切り離されたように、二人の間には静かな時間が流れていた。スプルアンスが別れ際にこう言ったのを、伊藤は鮮明に覚えている。

『こんど会う時は、お互い将官になってからだな』

 それは出世を約束した友へのエールであり、同時に、日米関係の冷却化を予感していた情報将校としての冷徹な予測でもあった。

 当時、日米の関係は徐々にきしみ始めていた。次に会う時、二人の肩には星が輝いているだろうが、その星は敵味方を識別するための標的になっているかもしれない。伊藤はそれに対し、冗談めかして、しかし真摯に返した。

『戦場では出会いたくないな。だが、もしその時は遠慮はしないぞ』

『あぁ、こちらもだ。全力を尽くして君を叩き潰す。恨みっこは無しだ』

 二人は笑い合い、握手を交わした。それは、プロフェッショナル同士の血の臭いのしない、しかし鋼のように硬い約束だった。後にスプルアンスは、自身の日記にこう記している。

 ――日本人に親愛と敬意を抱くことができたのは、伊藤のおかげだ。と。

 

 だが、運命の歯車は、彼らを敵同士として戦場に引き合わせることをよしとしなかった。あるいは神が彼らに別の役割を与えたのか。太平洋での殺し合いの代わりに、彼らはより巨大で、より凶悪な敵――鍵十字の旗印と戦うために、一九四九年の今、同じテーブルを囲んでいる。

 

 ふと、スプルアンスの表情が曇った。理知的な瞳の奥に、隠しきれない疲労と焦燥の色が浮かぶ。それは、数百万の将兵の命を預かる者だけが知る魂の摩耗であった。

「セイイチ、一つ、頼みがある」 その声には、合衆国海軍大将としての威厳よりも、一人の人間としての、わずかな懇願の響きがあった。「合衆国艦隊を……いや、合衆国を頼む」

 スプルアンスは言葉を絞り出した。

「今の我々は、正直に言って破断界にある。ワシントンの壊滅。東海岸の喪失。度重なる敗北。国民の士気も限界に近い。物量はなんとかなっても、魂がすり減っているのだ。だが、君たちの助けがあればなんとかなるかも知れない」

 ドイツ軍による北米大陸侵攻。祖国の半分を奪われた屈辱と、消耗しきった艦隊。

 常に冷静沈着を装い、感情を表に出さないスプルアンスが吐露した弱音。それは、彼が伊藤を心から信頼している証左でもあった。伊藤はカップを置き、居住まいを正した。その眼差しは、二二年前にワシントンで向けたものと同じ、……いや、より力強い光を帯びていた。

「何を言う、レイ。なんとかなるかもしれない、じゃない」 伊藤は言葉に力を込めた。静かな、しかし確信に満ちた声だった。

「なるかも、じゃない。『する』んだ。俺たちがそうするのだ」 伊藤は身を乗り出した。「そのためなら我々は助力を惜しまない。日本帝国海軍軍人として、そして個人としても誓う。友人を絶対に見捨てはしない」

 それは、単なる外交辞令ではなかった。かつて敵として戦うことを覚悟し、その力量を認め合った男が、今度は味方として背中を預けると宣言したのだ。そこには、男子たるものの誓約があった。

 

 スプルアンスは一瞬、驚いたように目を見開き、やがて深々と息を吐いた。その双肩にかかっていた見えない重荷が、ほんの少しだけ軽くなったかのように。

「ありがとう」 そう言って、スプルアンスは右手を差し出した。伊藤は、その手をしっかりと握りしめた。かつてワシントンのユニオン駅で交わした握手と同様に。

 だが、あの時とは違う。あの時は対立の予感を孕んでいたが、今は違う。温かく、そして確かな力強さがそこにはあった。

「頼んだぞ。セイイチ」

「あぁ、任せてくれ。レイ」

 

 こうして、二人は再会を果たした。窓の外には、真珠湾の青い海が広がっている。その水平線の彼方には、硝煙と鉄錆にまみれ、無数の機雷とUボートが待ち受けるはパナマの海が待っているだろう。

 彼らがこれから向かうのは、栄光の凱旋門ではない。血と泥に塗れた鉄血の地獄。

 だが、もしかすれば戦場で相まみえ、互いに殺し合っていたかもしれない二人の数奇な運命は、今この瞬間、鋼鉄よりも強固な新たな友情と信頼となって結実した。

 歴史の女神は残酷だが、時として、こうした粋な計らいを見せることもある。

 

 二人の提督は立ち上がった。コーヒーは冷めていたが、彼らの胸中に灯った火は、もはや消えることはない。

 一九四九年二月。合衆国に残された最後の希望の灯火は、未だ輝き続けていた。




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