レッドサンブラッククロス戯典 vol.12' パナマ侵攻03巻 プレビュー版   作:南条匡

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一九四九年二月一〇日
パナマ市街地・臨時汎米会議場跡




2-7 尊敬と別離

 唸りを上げる空調設備は、その喧しさで自身の無能を主張していた。会場内の空気は淀み、攪拌され、そして今は熱狂に近い恐怖に支配されている。

 

 もっとも、その原因は気候のせいではない。

 

 たった今もたらされた凶報――ドイツ太平洋艦隊の壊滅。そして、パナマ地峡への枢軸軍侵攻の確報。それは、かろうじて保たれていた「外交」という名の薄氷が、鋼鉄の軍靴によって無残に踏み砕かれた音であった。

 

 怒号。悲鳴。あるいは悲痛な命令。多言語が飛び交う混乱の坩堝にあって、そこだけが台風の目のように凪いでいた。二人の将校が、静かに向き合っている。

 

「呼び出して申し訳ない、高梨博士」 ドイツ空軍降下猟兵大佐、フリードリッヒ・フォン・デア・ハイテは、この状況に似合わない、つとめて穏やかな口調で言った。「御国の艦隊が近づいているようだからね。そこにドイツ人がいては、どうにも厄介なことになるだろう。しかも軍人とあっては」

 

「言い訳をするようですが」 日本帝国海軍法務少佐、高梨俊一は苦い砂を噛み潰したような表情で言った。彼の中にある法務士官としての――あるいは学者としての矜持が、適切な言葉を探そうとして空転する。

 

 結局、口をついて出たのは陳腐な事実の羅列のみだった。

 

「私も、この事態は知らされていなかったのです」

 

 対峙するハイテは、その貴族的な相貌に薄い笑みを浮かべただけであった。法学博士の肩書きを持つインテリであり、同時に第一級の野戦将校。この狂騒の場において、事態の推移をもっとも冷徹に、かつ残酷に理解している。

 

「君を疑うように思われたなら心外だよ、高梨博士」  ハイテの声は穏やかだった。まるでハイデルベルクの大学のカフェテリアで、法理学の議論を交わしているかのように。

「これが戦争というものなのだ。個人の善意や信義などが入り込む余地のない、国家同士という巨大な機構の軋みでしかない。私にとり残念なのは、博士と話す時間がもう無くなってしまったことだ。君との国際法解釈をめぐる議論は、この不毛な会議におけるコーヒーのようなものだった」

 

 ハイテが、脇に抱えていた軍帽を被る。影が落ちる。それは、彼が法学者という仮面を外し、軍人へと戻る儀式であった。これより先、二人は敵同士となる。

 しかし、それでもなお、二人の間には戦争よりも重きをなすものがあった。たとえ敵となろうとも、敬意を尽くさなければならない。矜持、人が人たりうる尊き拠り所。高梨とハイテは、それを知る者であった。

 

「貴方と再び会えただけでも、ここに来た価値がありました」 高梨は居住まいを正し、相手の青い瞳を直視した。日本海軍式の肘を伸ばした敬礼をとる。 「ありがとうございました。ドクトル・フォン・デァ・ハイテ。貴方の無事を祈っています」

 

 高梨の敬礼に、ハイテの旧ドイツ式の――プロイセン伝統の、手掌を帽子のひさしに当て答礼を返した。

 

「私も同様だ。願わくば、君と私が生きている間にもう一度再会できんことを。高梨博士」

 

 そう言って、ハイテは優雅に踵を返した。迷いのない足取り。その背中は、高梨にとっては残念というほかなく、法学博士ではなく、軍人としての空気を纏わせていた。

 しかし、高梨は、雑踏に紛れてその灰色の軍服が見えなくなるまで不動の姿勢で敬礼を続けた。一人の法学者への、あるいはかつて理性が支配していた時代の残滓への敬意を込めて。

 

 ゆっくりと敬礼を解く。その高梨の背後に、足音もなく近づく影があった。振り返らずとも、それが誰であるか、高梨には察しがついた。この会場で、これほど気配を消して歩く人間は、あの男しかいない。

 

「どうかしましたか、シェーメル少佐」 高梨は努めて事務的に問いかけた。ヴァルター・シェレンベルクSS少将。親衛隊の諜報部門を統括する若き将軍は、シェーメル少佐という安っぽい偽名のコートを羽織り、何食わぬ顔で随員席に座り続けていた男だ。

 

「いや、なに」 シェレンベルクは、混乱する会場を面白そうに眺めながら、独り言のよ

うに言った。その視線は、壊れた玩具箱を眺める子供のように無邪気で、かつ冷淡だ。 「尊敬するべき日本の博士と、もう一度話をさせていただく機会をいただければ、と思いましてね」

 

 高梨は軽く息を吐き、視線をハイテが去っていった方向へと向けたまま応じた。皮肉の

一つでも言わなければ、やりきれない。彼は、一七世紀、欧州全土を荒廃させた三十年戦争の時代を生きた、ある作家の言葉を借りることにした。

 

「国家は理性でなく、激情によって戦争を遂行する。ゆえに戦争は常に愚行の所産であ

る」  高梨は、合衆国人がするように肩をすくめた。「グリムメルスハウゼンの時代から、我々は何も学んでいないようです」

 

 シェレンベルクは、意外そうに眉を上げた。文学的な引用は彼の好みではないかもしれないが、その内容は彼の琴線に触れたようだ。

 

「全く仰せの通りです」 シェレンベルクは肯定した。「我が祖国も、一人の指導者の激情に突き動かされて、わずか二〇年で大国となりました。その意味において、私は祖国の支持者なのです。しかし、後半についてはいささか疑問ですな。少なくとも、我が祖国は最近『愚かな結末』を迎えていないもので」

 

 自信。あるいは傲慢。欧州を席巻し、英国本土とロシアの大地だけでなく、北米をも飲み込もうとしている第三帝国の実績が彼にそう言わせているのか。高梨は一瞬だけそうも考えたが、即座に否定した。シェレンベルクという男は、盲目的な人物でも愚か者でもない。彼は計算機のように正確で、それゆえに絶望的に醒めている。

 

 高梨は冷ややかに切り返した。

「戦争の愚行こそ、政治の技芸が成長する源泉でもある。……つまり、貴国は幸運だったのでしょう」 高梨は、グロティウスの著書を脳裏に浮かべながら、皮肉を込める。三十年戦争の惨禍こそが、国際法という理性を産んだという逆説。

「勝利より悲惨な光景は敗北しかありません。貴国が英国やロシアで行っているのがその証左です。焦土と化した都市、飢えた市民。……いや、第一次世界大戦を経験している貴国ならあえて語る必要もありませんな」

 

 その言葉を聞いたシェレンベルクの顔から笑みが消えたわけではない。だが、瞳の温度が数度下がったのを高梨は感じた。痛いところを突かれたというよりも、核心に触れられたことへの反応だ。

 

「ええ、お説の通りです。愚行の背景にはただ豊穣さがある訳ではない。むしろ困窮こそが更なる愚行を生み出します」 シェレンベルクは口元を緩め、同意の言葉を吐いた。顔にはいささかの後ろめたさが浮かんでいるようにも見えるが、それは演技かもしれない。

 

「戦争は常に罪ではない。しばしば必然なのである」

 

 若き将軍は続ける。 「運命とは車輪や歯車のようなもの。くるくると廻りつつ、いつまでも幸運であることを許さぬということでしょう。三十年戦争の傭兵隊長たちもそう考えた。少なくとも私はこの言葉を信じます。人間誰しも、幸運の続くことを信じられるでしょうか。そんな人間がいるとしたら愚か者か、お調子者のどちらかしかありえない」

 

「いるではないですか。この世に一人。幸いにも我が国の人物ではありませんが」

 

 高梨の指摘に、シェレンベルクは口元を歪めた。諧謔を理解する者に特有の、嘲りの意味をもたない笑み。その人物の名を口にすることは、彼にとって大きな罪悪でもあった。

 

「存じています。ですが、その名を挙げることは寛恕いただきたい。私はこれでも愛国者なのです」

 

 会場の騒ぎはさらに大きくなっていた。どこかの国の代表団が、怒鳴り声を上げながら退室していく。歴史の奔流が、このちっぽけな会議場を押し流そうとしている。シェレンベルクはそれを横目で見やり、声を潜めた。

 

「……戦争が愚行であるとしても、愚行へと向かわせる利害がなくてはそもそも始まりません。高梨博士、我々はその利害のしぶきを浴びる職業ではありませんか? 西暦の以前から、傭兵とスパイと法律家だけは、常に仕事にあぶれることがなかった」

 

「つけくわえるなら娼婦も。えぇ、しかし、全くその通り。そして私もどうやら本業に戻らなければならないようです」 高梨は軍帽を被り直した。法務将校としての仮面を被り直す。「どうも、締まらない形で終わりそうですが」

 

「あなたの本業がうまく行かないのは、私にとっては喜ばしいことなのでしょうな」

 シェレンベルクの言葉には、この時はじめての棘があった。日本の法務工作が失敗するということは、すなわちドイツ側の謀略が成功することを意味する。だが、高梨は動じなかった。

 

「これは手厳しい。しかし、この土地と汎米会議は、私にとっては全く目新しい知見を得ることができました。この経験は、今後に役立つでしょう」 高梨は一度言葉を切り、ウェストファリア条約の成立に奔走した外交官たちのことを思った。戦いは続く。銃声が止んだ後も、インクと紙と、そして裏切りによる戦いは続くのだ。平和とは、戦争と戦争の間の休戦期間に過ぎないのだから。

 

「戦争は、武器が沈黙した場所では終わるものではないのですから」

 

「同意します。博士、少なくとも貴方とは、のちのちまで友誼ある別れをしたい。私はそう思っています。たとえ敵国であっても、尊敬するべき人物はいるでしょう。貴方にとってのハイテ博士がそうであるように」

 

「シェーメル少佐、貴方と友人にはなれそうにないが、かと言って敵でもありませんよ。少なくとも今だけは」

 高梨は、ハイテ大佐にしたように敬礼を行った。「貴方の無事を祈ります。シェーメル少佐――いや、ヴァルター・シェレンベルク少将」

 

 その言葉に、「シェーメル少佐」は表情を緩ませた。演技の時間は終わりというわけだった。

「ありがとう。高梨法務少佐。私にも少佐の無事を祈ることを許していただければ光栄です」

 シェレンベルクは、右腕を高く掲げて答礼を行う。それが彼にとっての祖国であるが故に。

 高梨が歩き出すと同時に、シェレンベルクもまた、反対方向へと姿を消した。

 会議場の外では、南国の容赦ない太陽がアスファルトを焼き尽くしていた。これから、この地で流される血の色を予感させるように。

 

 会議場を出たハイテ大佐の前方から、一人のドイツ陸軍軍人が歩み寄ってくる。グロスマイスター少佐だった。

「ご挨拶は済みましたか、大佐」 その声には、かすかな悲しさの響きがある。

 

「あぁ、別れは済んだよ。少佐」 ハイテの声にも、寂しさの含みがあった。「慣れないものだよ。友人との別れは。しかもおそらくこれが最後の別れになるとあればなおさらだ」

 

 ハイテの言葉に、グロスマイスターは慰めの意味をもたない口調で言った。

 

「貴方が友人と呼ぶほどの人物に、一目お会いしたかった。間違いなく尊敬に値する人物なのでしょう」

 

「あぁ、間違いない。それは保証しよう。彼と君も、きっと良き友人になれたに違いない」

 

「そう言っていただけて光栄です。ハイテ大佐。しかし」 グロスマイスターはそこで言葉を切った。

 

「どうしたね?」

 

「パナマ軍団からの命令が来ました。我々は、どうやらこの地で戦うことになりそうです」

 その言葉に、ハイテは一瞬だけ、虚無に近いなにかを浮かばせる。

 

「……仕方が無いようだな」 次の瞬間、ハイテは毅然とした表情で言った。「グロスマイスター少佐、部隊の準備は?」

 

「問題ありません、大佐。私の大隊は大佐の指揮下となります」

 

「よろしい。なら急ごう。時間は無いぞ」

 グロスマイスターが手配したらしい車が二人の傍らに止まる。確かに時間は無かった。

 こうして、高梨とハイテの再会は唐突な終わりを告げた。

 二人がもう一度再会できるかは、神のみぞ知る未来に他ならない。




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