プリベット通り四番地
「ダメ元で」
訪ねてみるものだね。
サレー州リトル・ウィンジングプリベット通り四番地、ダーズリー家の居間に穏やかな声が響く。声の主はゆったりと椅子に腰掛けていた。卓に肘を突き、ゆるく指を組む。向かいに座る、叔母の青い目を見やった。
「ドアを吹き飛ばされたらかなわないし」
庭をジャングルのようにされるのもごめんだよ。
母方の叔母――母の妹である、ペチュニアが刺々しく言う。甥っ子の訪問を歓迎していないのは明らか。フライパンを振り回して、あるいは包丁を持ち出してきて甥――フェンネルを叩き出そうとしないだけいいのかもしれない。叔母夫妻は一応フェンネルと弟の身元引受人であったし、これまた一応養育した。ざっと十数年後……十五年ほどか。諸々の問題が片付き、ポッター家の兄弟、ダーズリー家にとっての厄介者たちがプリベット通りをおさらばしたのは約三年前。十五歳の誕生日のときだ。さっさと荷物をまとめてあっさりとダーズリー家を出たのだ。涙の別れなどありえない。互いにせいせいしていた。よって、叔母がフェンネルを歓迎するはずもないのだ。筋金入りのマグルである叔母は、魔法使いである甥に怯えている。
「壁の一部に亀裂があった。お望みなら直していこう。そうだな、あとは」
ノミ、ダニ、鼠を一掃できるけど? と言ってやれば叔母はたいそう嫌そうな顔をした。うちには鼠なんて……と言いたいのだろうが、やつらはどこにでもひそんでいるものである。
「おやめ」
鼠なんて言葉、聞きたくもない。叔母はぶつぶつと言う。フェンネルは思い出した。昔、エヴァンズ家について調べたことを。叔母……と母の出身は、とある工業地帯である。上流では間違ってもない。いわば労働者階級。困窮するほどではないが、豊かではなかった。もしかして、ちょろちょろと鼠が走り回っていたのかもしれない。家のどこか、それか町を。
「ふくろうを飼っていれば、おなじみなのだけど」
フェンネルは軽口を叩く。叔母が唸った。
「お前たちみたいなへんてこなことなんてするもんか……ふくろうじゃなくて、鴉でも……」
「鳩のほうがよかった?」
電話でもよかったんだけど、切られそうでね。
携帯電話を持っていればしつこくかけたんだけど、と笑顔で言ってやる。世の中に行き渡るのはもう少し先になるだろうし、仮にフェンネルと叔母が携帯電話を手にしたとして、番号を交換するかは……しないだろうな。結局手紙か固定電話でのやりとりだろう。ロンドンの公衆電話の場所は把握しているから連絡はつけられるが、叔母が出るかわからない。やはり手紙が楽である。今度は鳩に託そう。
「お前は切手も知らないのか」
「やだなぁ、叔母さんにまともに育ててもらったのに」
ちゃんとした格好もしてるのに。甥っ子は悲しいよ。
さらりと言っても、叔母は片方の眉を上げるだけ。完璧なマグルの扮装にもなにもおっしゃられない。黒いコートを羽織り、銀色のマフラーを巻き、黒の革手袋――ドラゴン革だが――それに、スーツ。マグルの若いビジネスマンに見えることであろう。ご近所に見られても「ああ、ポッターの双子の兄が訪ねてきたのだな」で済む。途中でフィッグばあさんに会って「大きくなったことだ」と歓迎されたのは、叔母に言わなくていいか。実はご近所のフィッグばあさんがスクイブ――魔法界関係者――であることも伏せたほうがいいだろう。叔母はここがマグルだらけのマグル地区だと思い込んでいればいい。
「まとも、ね」
叔母が鼻を鳴らす。その眼はフェンネルの左手薬指に向けられている。穴が空きそうなほど。
「リリーじゃあるまいし」
ありありと滲む非難。眼は吊り上がり、眉間には皺。口から牙でも生えそうな具合だ。
あなたと母はそんなに年が離れていなかったはずで、私たちとダドリーは同い年で、つまり母をけなされる筋合いはないのだが。
フェンネルは鼻を鳴らし――叔母そっくりな、嫌味な感じになった――片手で指輪を撫でる。
「さっさと結婚して子どもを産んで、押し付けた、と」
叔母さんにとってはたまったものじゃないですよね。わかっていますとも。一人育てるのも大変なのに、そこに二人も追加だ。
「母さんだって叔母さんに押し付けるつもりはなかったでしょうよ」
諸事情で仕方なくだ。リリー・ポッターだって予想していなかっただろう。その「事情」がなければ誰かに――たとえばシリウス・ブラックが、ポッター家の双子を養育しただろう。マグルだらけのマグル地区で、隔離されるように育てられることはなかった。
邪魔者扱いされることもなかった。母が雌犬だの、父がろくでなしだの言われることはなかった。
――来るんじゃなかった
フェンネルは唇を引き結ぶ。頼るあてがなかった。意外なことに、一番に思い浮かんだのが叔母だった。
養父のシリウスだって手に余る問題だ。フェンネルは十五歳で彼の養子になった。四歳の女の子なんて、彼にとっても未知であろう。シリウス・ブラックは少年たちを養育することはできても、幼児はお手上げだ。
ブラック別邸にポッター兄弟ことハリー・ポッターとフェンネル・ブラックが居を移し、名付け親と暮らしても支障はなかった。どうせ一年の大半はホグワーツに行っているわけで、支障などあるはずがなかったのだ。炊事洗濯などは妖精のクリーチャーに任せていたし。強いて言えばブラック家当主たるもの本邸に、と主張するクリーチャーと、そんなもの知るかというシリウスを仲裁するのが面倒だった。
話が逸れた。ブラック家問題はいいのだ。フェンネルが成人したのと同時に、ブラック家の主はフェンネルとなった。ひとまずめでたしである。
おおむねめでたしだったのだが、先日、問題が転がり込んできた。というかフェンネルが引き取った。叔母のように嫌々ではなく。成り行きでなし崩しであったが、孤児院にやる気にはなれなかった……。
革袋を卓に置く。ガリオンが詰まった袋――ではない。マグルの札束を入れてある。グリンゴッツでガリオンから換金するのが、いささか面倒だったと言っておこう。銀行にお勤めの婚約者殿の仕事は早い方だったが。主に金庫への案内は小鬼がし、マグル――マグル生まれの親など――の案内、換金はヒトが行うのだとか。グリンゴッツの事務職と言いながら、業務の範囲には接客も含まれるようだ。とはいえ、マグル対応の頻度はさして多くもない。よって、フェンネルが婚約者を指名しても差し障りはなかった。
「いままでの養育費」
ハリーの分も含めてある。概算だから、これじゃ足りないようなら言ってくれればいい。
叔母が眼を丸くする。恐る恐る革袋に手を伸ばし……引っ込めた。噛みつきやしないよ。見た目と中身がちぐはぐなのは魔法界おなじみだよ。
「……もらっておく。いや、返してもらう」
ぽつ、と叔母が言う。そわそわとフェンネルの左手を見た。
「お金のことはいいんだよ」
「へえ、僕らのことを金食い虫と言ってたくせに」
すかさず返す。フェンネルは執念深い性質である。三つか四つの頃に言われたのを、はっきりと覚えてる。残念ながら叔母も甥と似たような性質をお持ちなので、さっさと清算しようと思ったのに。お金のことはどうでもいいと? へえ。
「ある朝起きたら、玄関前に双子が置き去りにされてたら、誰だって驚くしお金の心配もする」
手紙だけで事情を説明されて、それきりだったんだから。
避難所に隔離したのに魔法族がうろつくわけにもいかず、魔法嫌いの一家――ダーズリー夫妻に懇切丁寧に説明したところでこじれるだけだとダンブルドアは思ったんだろうさ。
数十文字分の反論を、フェンネルは飲み下した。叔母には文句を言う権利はある。なんの罪もない双子に八つ当たりする権利はなかったが。
「お前は私を鬼とでも思っておいでかい?」
リリーにも、チュニーはひどいと言われた、と叔母は呟きを落とす。
「あなたにとって、私たちのほうこそ鬼で悪魔で怪物では?」
皮肉った。叔母は眼を見開く。大当たり。どうやら母にそういう風なことを言ったのだろう。怪物とまではいかなくても、へんてこだとか、奇妙、おかしいとか。魔女め、とか。
いや、出来損ないくらいは言ったのだろうか。叔母の顔色の悪さからおしはかる。子どもとは残酷なものだ。
「お前達は、まともじゃない」
元々まともじゃないのに、さらにいかれた真似をしようとしてる。
「子どもが子どもをつくって……」
叔母がぶるぶると震えた。フェンネルは眼を瞑った。勘違いしてるとは思ってたが。
「これは婚約指輪。結婚はまだ先」
「お待ち! 結婚前に……そんな……」
「去年に結婚してたとしたら、ギリギリいけるけどね」
僕らのことはいいんだよ。だからまだ婚約で、できるできない以前の問題で。
言って、床に置いた紙袋を見やる。何着か服が入っている。やたらと物持ちがよい叔母の、幼い時の服、らしい。エヴァンズ家からダーズリー家に嫁ぐ際、実家から持ってきたそうだ。どうやら叔母は男の子と女の子がほしかったらしい。可哀想なことに、男、男、男で実子も押し付けられたのも男であった。
「階段下の物置に放り込まれてた女の子を保護しました。とりあえず今は男の子の服を着せてるけど、どうしたものかと思って相談に来ました」
これで満足? と唇をゆがめる。鴉に託した手紙には「よかったら絵本や女の子の服を引き取りたい」とだけ綴ったのだ。どうせ誤解されるだろうとは思っていたけれど。
階段下の物置で、叔母が呻いた。己の行いを客観視して傷ついているのか否か。それは神のみぞ知る。フェンネルはどうでもいい。
「……婚約者の連れ子とかじゃないだろうね」
「叔母さん、僕は品行方正に生きてきたんですが」
「お前が引き取る必要はあるの?」
「汚らしい、痩せてる孤児なんて誰も引き取りたがらない」
ここでお前が苦労することない、と素直に言わないのが叔母である。フェンネルも、弟もダーズリー家で褒められた記憶はない。たとえテストで良い点をとっても、家事を頑張っても。なにをしても。
フェンネルと弟は……みなしごの兄弟はいとこよりも下でいなければならなかった。テストの点もなにもかも黙殺された。
嘆息する。なにをとち狂って、ダーズリー家を訪ねたのか。女の子を保護して、動揺していたのだきっと。周りに育児経験者が乏しいせいもあった。もちろん、ウィーズリー夫人ことモリーに訊くこともできた。が、フェンネルは慎重に動かなければならなかった。銀髪に紅の眼の女の子の出自をモリーが察しないとは言いきれなかった。彼女の生家はプルウェット家。とある血筋の特徴について、知っていてもおかしくはない。
――どいつもこいつも
ナルシッサもあてにならない。そもそも、生まれたばかり――正確には目覚めたばかり――の赤ん坊を金と引き換えに他家に押し付けたのがナルシッサもとい、マルフォイ夫妻である。まったく薄情なものだ。ナルシッサとフェンネルが引き取った女の子は、叔母と姪の間柄だというのに。血は水より濃いなんて嘘だ。
「もう行くよ」
席を立つ。マグルだらけのマグル地区から脱出しようではないか。そんな地区で、穴場だから叔母に相談したのだけど。フェンネルが女の子を引き取った話は、まだ公表したくない。なにせまだ三日しか経っていない。
婚約者にも話さないとなぁ、と考えを巡らせる。どういう反応をするのか読めない。彼女がブラック邸に越してくる話はなしになるかも。
ブラック邸に侍女を迎えたとき、浮気は許さないと言われたな……と思い出す。今度は子どもを引き取ったわけだ。愛想を尽かされるかも。保護はいいわよ。子どもがかわいそうだもの。だけど育てるですって? とか。
鬱々としながら、振り返りもせず居間を抜けようとする。
「お待ち」
「夕食の誘いなら結構」
振り返る。叔母はきっとフェンネルを睨み、無言の圧をかけてきた。そうして居間を出ていって、階段を上る足音。しばらくして、戻ってきた叔母は、数冊の本をフェンネルに押し付けた。
「これも持ってお行き」
「養育費を追加しようか?」
「素直に礼も言えないのかい」
「叔母さんが悪いんですよ」
言い合い、居間を抜ける。叔母はフェンネルが玄関を出ていくまで、なにやら言っていた。
お前なんてまだ子どもなのに、まったく自覚が足りない無謀だ馬鹿だ、とのことだ。
これでも読んで勉強しろ、と。
「……あなた、子育て失敗したじゃないか」
ペチュニア叔母さん。
紙袋に本を放り込む。題名は様々だ。幼児の病気とか、育て方とか、育児のお悩みとか。
たぶん、ダドリーに子どもができたときのためにとっておいたのだろう。物持ちがよすぎる。
子ども用の食器ももらっておけばよかったかな。あれこれと考えを巡らせ、そっと息を吐く。ブラック邸は問題ないだろうか。出ていくとき、フェンネルは苦労した。デルフィーニが足にしがみついてきた。クリーチャーがどうにか引き剥がし、その隙に脱出したのだ。
ちょっと杖を怖がるんだよな。どうしたものかな。
考え、考え姿くらまし。ロンドンはグリモールド・プレイス十二番地に到着。
邸の居間に顔を出せば、ソファの傍らに膝を突いていた女が、顔を上げた。
「おかえりなさいませ、フェン様」
黒髪に金色の眼のその女は、深く深くため息を吐く。
「泣き疲れて眠ったか」
「ロウルの女のほうが」
主に躾ていたのでしょうね、と女――侍女は囁く。その言の葉に、しゅっという音が混じった。女は、ごく普通の感性を持っている。その経歴はいささか特殊だけれど。
――誰も
この女が呪われていたなどと思うまい。有能な侍女。二十代の、ほっそりしたただの女……にしか見えない。
呪いを解除するのに苦労したものだ。
異形戻しに一手間加えた。延々と歌い、舞うはめになった。
お前の手足はすらりと長く、髪は闇の色……その眼は黄金。その唇は紅。
牙はなく、尾もない。鱗もなく。その血はあたたかい。
思い出せ、思い出せ、お前が誰であったのか
その魂は、どんな形か……。
かつての一幕。過ぎ去った一幕を頭の隅においやった。今は未来について語るときだ。
「そのうちお前に慣れるさ」
フェンネルはソファで眠る養い子の、短く切った髪に触れる。
「なあナギニ」
我が侍女よ?