底冷えのする二月の夕暮れ時、ハリー・ポッターはロンドンに足を運んでいた。
それほどたいした手間ではない。十八歳のハリーは、現在ロンドンに住んでいる。十四歳の時に「諸々」の問題が片づき、十五歳で育った家を――プリベット通りを家とは思わないが――出た。そこから十七歳までは名付け親所有の別邸で暮らし、ホグワーツ卒業とともにゴドリックの谷に引っ越した。そこには本当の生家があったのだ。ジェームズ・ポッターとリリー・ポッター、そしてハリーと兄のフェンネルが暮らした「家」が。いつまでも名付け親と暮らすのは格好がつかず、休みのたびにせっせと整えていた家に居を移した形になる。
が、その「ポッター家」でゆっくりしている暇は、残念ながらなかった。ハリーは闇祓い試験を突破し、現在新人闇祓いとして研修中。つまり、魔法省のあるロンドン――闇祓いの宿舎に放り込まれている。朝から晩までみっちりしごかれ、時に「先輩」に連れられて、犯罪者の捜索、捕縛に噛むこともある。基本、外出申請は必須。休みの日であっても変わらない。
宿舎は別名アズカバンと呼ばれている。ありとあらゆる逃亡防止策が巡らされ、容易には出ることは叶わない。おうちに帰りたいと泣いても無駄である。これは、がっちりみっちり丹念に闇祓いを育てようというお上の慈悲……らしい。先の戦で闇祓いは数を減らした。特に、若手が多く死んだ。手が足りないので即実戦投入だったらしい。激戦の中をくぐり抜けた猛者――ジェームズ・ポッターも、ヴォルデモートと対決して敗れた。そう、父は闇祓いだったのである。
若い芽を摘まれまくった闇祓い局は、戦後十数年かけて、じわじわと回復した。ハリーの代から「宿舎ぶちこみ二十四時間鍛えます」方式になったのである。先輩のニンファドーラ・トンクスには大変同情されている。彼女はそれなりの研修こと、マッド・アイによるしごきも兼ねて実戦に放り込まれていた世代である。彼女によると「それでもきっちり研修を受けていたほうがいいでしょうよ」らしいが。
ハリーが貴重な休みを潰し、外出申請を出したのには理由がある。
と、と転移した場所はグリモールド・ブレイスという区画。一から十一番地と綺麗に並び、なぜか十二番地だけがない。飛んで十三番地……と続く。
欠けた十二番地、その門扉に手をかける。肌をなにかが撫でる――かすかな痺れ。奇妙な感覚が過ぎ去って、ハリーは息を吐く。忠誠の術で守っていないだけで、ありとあらゆる魔法がここにはかけられている……らしい。そっと門扉を開き、前庭に足を踏み入れる。綺麗に整えられた庭園を突っ切り、玄関に至る。
「……なんだか緊張するな」
実はここを訪ねるのは二度目である。数ヶ月前に一度。ホグワーツを卒業して少しした頃。闇祓い試験を受けるためにロンドンに赴き、泊まったのである。グリモールド・プレイス十二番地は兄の邸である。正確には、兄が養父から譲り受けたものだ。
フェンネル・エムリス・ブラック。それが兄の正式名であった。ブラック本家当主でもある。
このまま帰ろうかな。魔が差し掛けて、首を振る。兄から呼び出しを食らい、のこのこと参上したわけだけれど。あの兄の呼び出しってなんだか不吉である。
玄関の前で、ハリーはぐずぐずと迷った。夕食の誘いではないだろう。問答無用で「話があるから来い」なのだから。ブラック家の黒ふくろうに監視されて、ハリーは返事を書くはめになった。拒否権はなかった。そもそも、ハリーが兄に敵うわけがないのだ。なにせ兄は「ヴォルデモートを討ちし者」。十四歳で偉業を成し遂げた男である。もはや「生き残った男の子」は霞んでいる。助かったけれど。ものすごく、ありがたかったけれど。
そんな兄は貴族街道を驀進中である。若きブラック本家当主。シリウスの養子になってからというもの、縁談が降ってきていた。兄は面倒がって全部お断りしていたようだし、たまにハリーに横流ししてきた。たぶん、双子の兄弟ならどっちでも可なんだろう、と冷めた声で言っていた。
――さすがに今はないだろう
と、思う。兄にはお付き合いしている女性がいる。ついでに言えば、兄は十七歳になったのを機に、婚約もしている。縁談は降ってこなくなった、と思いたい。
悩みながら『双狼』のノッカーに手を伸ばす。そっと打ち付けるまでもなく、扉が開いた。
「……お待ちしていました」
弟君。出迎えてくれたのは、黒髪に金色の眼の魔女である。妙齢……ハリーは女性の年齢はよくわからない。三十にはなっていない、と思う。
「あー……そんな、かしこまらなくても」
ナギニ、とぎこちなく言う。その名を口にするたびに、妙な気分になる。彼女の「前」の姿を見たことがあるだけに。
ハリーの戸惑いを知ってか知らずか、ナギニはそっと首を振る。
「私はフェン様に恩があります」
「まあ、そうなんだろうけどね」
返し、奥に踏み入った。なんだか心臓が暴れているではないか。ナギニの姿を見て、つくづく兄の壊れっぷりというか、無法っぷりというか、好き放題に生きていることを突きつけられる。
誰が思うだろうか。黒髪の魔女が蛇だったなんて? しかもヴォルデモートの使い魔である。いや、ほんと……ブラック邸を訪ねてみれば、なんと黒髪の「侍女」がいたときの衝撃よ。えっ、フェン……君、婚約者がいるのに女の人と同居しているの? と尋ねたら殴られた。
滔々と兄は説明してくださった。彼女はナギニ。呪いのせいで長い間蛇になっていて……ああそうだ、ヴォルデモートの蛇。あれは蛇語使いだったから、ナギニを縛り付けていて。あのとき、僕は墓場で彼女と別れたんだけども、この前――邸に移った頃に再会してね。呪いを解いたんだ、云々。
なにがどこまで本当なのか。だいたいは本当なのだろうが、都合よく再会したとかなんとか、少々怪しかった。が、兄を問いつめたところで無駄だと分かっていた。これでも双子の兄弟なので。
結果、ハリーはその件に触れないことにした。未だにナギニ=大蛇=そもそも人間という図式に慣れないが。ヴォルデモートが死んで早数年。今更大蛇のことなんて、誰がほじくり返すだろうか。しかも「ヴォルデモートを討ちし者」の手元にいるのだ。ナギニ=大蛇=そもそも人間だなんて誰も思わない。
元大蛇を侍女にするし、この前は暴れていたし……十四歳でヴォルデモートを倒すし、マーリン勲章勲一等を授与されるし……諸々「まあ兄だし」で飲み込むしかない。いちいち驚いていられない。
「……フェン」
ねえ、何の用事なの、とハリーは居間に入った。そうしてあんぐりと口を開けた。
もう驚かないぞ! という決意はがらがらと崩れた。
「やあ弟よ」
ソファに座った兄が、片手を上げる。が、立ち上がろうとしない。その膝に身を埋めるようにして――小さな子がいるので。
「……ちょ、あの、生まれたんなら知らせて……? というか、いつ!」
口が勝手に動く。頭も勝手に動く。待てよ、今は一九■■年二月で。十八歳と数ヶ月。成人、婚約後ならばいつだって……?
「あのな、お前の心の扉はがばがば過ぎるんだよ。この子はざっと四歳。お兄ちゃん、十三、四でけしからんことをしなきゃいけなくなるぞ?」
婚約者と出会う前じゃないと計算が合わないし。
「プリベット通りで、いつ隠し子をつくるあれこれができると思うんだ? 弟よ」
げんなりと兄が言う。とにかく座れ、と促され、手近なソファに腰を下ろした。
「話ってこのこと?」
あいまいに、手を動かす。兄の膝に突っ伏している、謎めいた生き物を指さすのは、躊躇われた。四歳の――。
「フラーの親戚とか? 女の子……だよね、たぶん」
銀色の髪。とにかくちっちゃい。着ている服は女の子のものだ。少し古びているけれど、きちんとアイロンがかけられていて、保存状態がよい。
「……親戚になるのかな? 私の養女にする。フラーには許可をとった。一応、お前にも話はしておこうと思って」
許可、と首を傾げる。フラーの親戚の子を引き取る、というわけではないのか。考え込みながら、ナギニが運んできた茶器を手に取った。
「私くらいしか引き取り手がなくて」
ものすごく、嫌な予感がした。それでは、フラーの親戚ではないのだ。しかし、兄くらいしか引き取り手がない。ここが重要だ。なぜ兄なのか?
「ベラトリックスとヴォルデモートの娘で」
「……片や監獄、片や霞、しかもフェンが始末したから」
約四年、いや四年数ヶ月前にそういう接触は無理じゃない?
かろうじて返す。手が震え、紅茶が飛び散った。
「子どもをつくる方法って、倫理の問題をすっ飛ばしたら色々あるんだ。魔法界では」
「うわ……」
「ざっと言うとマルフォイ――ルシウスのところに押しつけられていて、四年前に目覚めて。紆余曲折の末に私が引き取ることに」
いや、その紆余曲折とか、マルフォイどうこうが聞きたいんだけれども。兄を睨んでも「ほらあ、お兄ちゃん、失せもの捜しが得意だから。この子が引っかかったのさ」で片づけられた。
「それで、どういう筋書きにするの?」
「ブラック家の遠縁を引き取ったことにする。書類上はそうなっている。問題なし」
「……ヴォルデモートの子を」
「誰も証明できないよ」
あれの亡骸は魔法省が処理したし――下手に器を残したらなにがあるか、と燃やされたと聞いている、と兄は飄々と言った。ハリーは額を押さえた。別に兄が引き取らなくても。だってヴォルデモートの子だぞ、と言いたいことはたくさんあった。
「他に誰かさあ」
結局、出てきたのはそんな言葉だ。なにを言えばいいやらわからなかった。こんな事態、想定していないのだから。
「純血派に渡してやれない。火種になる。ルシウスがすぐに厄介払いしたから、その可能性は低いけれど。私が引き取るのが、一番丸くおさまるんだ。ブラック本家当主、その他諸々の箔もあるし」
一生、階段下の物置に閉じこめるなんてことはしたくなかった。
ぽつ、と兄が呟く。ほんの少し、室温が上がった。ハリーの背筋に、冷たいものが流れた。ああ、兄はお怒りだ。ヴォルデモートをたった十四歳で討ち取った彼――竜騎士と呼ばれる彼は、かつての己の境遇と、この小さな女の子を重ねているようだ。
「フェンが決めて、フラーが納得したならいいよ」
ため息とともに告げる。そっと、付け加えた。
「君たちになにかあれば……面倒をみるよ」
「若い後見人だ」
「やあ、十八歳のパパ」
「黙れ」
軽くじゃれあう。ハリーは、突っ伏し、ぐずぐずと泣いているらしいその子に眼を向けた。
「早速子育て失敗かい? ごきげんななめ?」
兄が天を仰ぎ、きつく眼を瞑った。その間にも、彼の片手は、養女の背をさすっていた。
「なんで自分の眼は赤いのか。私やフラーの眼と違うのは嫌だ、と」
泣かれた。理不尽だ。仲間外れみたいで嫌なんだとさ。
それは誰も予想できない。兄のうんざりした様子に、ハリーは噴き出した。が、一秒の半分で冷静になった。
「赤い眼」
「綺麗な眼だよ? 石榴の眼だね」
「ブラック家の遠縁で通るの?」
「通すんだよ。私が言えばどうにかなる。あながち嘘でもない。ポッター家にはブラック家の血が流れてる」
兄が断言する。ハリーはこっくりと頷いた。数年前も兄は押し通したのだ。闇祓い資格を寄越せとかなんとか。ハリーの蛇語についても「僕ら、竜騎士の末裔だったみたい」で通した。母・リリーの系譜に「ロディア」と書かれていたので、そういうことなのだろうで受け入れた。
かなり、怪しいと思ってはいるが。
ハリーは唸り、額の傷跡に触れた。もう痛まない、ただの名残。実は蛇語の能力も失っている。本当にロディアとやらの末裔なのか? とは思っているのだ。ハリーの能力は、ヴォルデモートの魂の欠片がついていたせい、らしい。兄が本体を倒したので、連動して消えたのだとか。血筋由来ではなかったのだ。
いったい、僕にいくつ隠し事をしているのやら。ロディアの末裔云々も、嘘なような気がしている。単なる勘でしかないが。
それに、女の子を引き取ったのも、単なる同情や計算に基づいてのことではないのかも……とも考えている。思うだけ、考えるだけで踏み込むつもりはないのだが。
兄は、ハリーの不利益になるようなことはしないのだから。嘘を吐いているとしても、それは優しい嘘なのだろう。
フェンネルという男は、自分が勝ち取ったマーリン勲章を半分に割ってしまったのだから。
お前と僕は双子の兄弟なんだぞ、と言って躊躇いなく片割れを差し出してきたのだから。
「僕の姪っ子の名前は?」
そう問えば、兄は目元を和ませた。柔らかく、その名を告げた。
「デルフィーニ」
いるか座のデルフィーニだ。