泥濘の中からゆっくりと意識が浮上する。
石造りの牢獄に縁取られる悪夢。
ガルグ=マクの日から、悪夢はいっそう酷くなった。
小鳥の囀りが耳をくすぐる。
頬を撫でる朝の光は優しく。
沈丁花の香りが呼吸を落ち着かせた。
「……ん……」
エーデルガルトが重い瞼を押し上げる。
視界が白く霞み、焦点が合うまでには数秒を要した。
目に入ったのは冷たい石でも、天蓋でもなく。
質素だが手入れの行き届いた天井の梁だった。
まばたきを二度、三度繰り返す。
視線をゆっくりと傍らへ移した先。
木製の揺り椅子の上で、フロルが本の頁を捲っていた。
解かれた碧の長髪が風に揺れる。
パタンと本が閉じられ、傍らの小さな机に置かれた。
「おはよう、エーデルガルト」
その声だけが、切り離された世界のように響いた。
濁流のような記憶がエーデルガルトを襲った。
生贄に捧げられた者たちの悲痛な叫び。
帝都に迫りくる軍勢。
英雄の遺産、飛翔する白き竜。
全てを包み込むような光。
そして、ただ一つ、星灯りを宿した瞳。
激しい心臓の鼓動に、思わず胸元を握りしめる。
「貴方……ごほっ……」
掠れた声が漏れ出た。
喉に触れ、荒い呼吸をゆっくりと落ち着かせていく。
跳ね回る心臓の鼓動は、なかなか収まりそうにない。
その姿を翡翠色の瞳がじっと見つめていた。
「……長い間、眠っていたんだ。
無理もない」
立ち上がると、椅子の脚がわずかに軋んだ。
フロルが水差しから杯に水を注いでいく。
水音だけが部屋の中でやけに響いた。
エーデルガルトは少し躊躇ってから杯を受け取った。
嚥下する度に、全身に水が染み渡っていくようだった。
考えがようやく纏まり、問いを口にする。
「処刑日はいつかしら」
それはエーデルガルトの気高さと覚悟の証明であった。
恐れはない。
もう、掌にはなにも残っていないのだから。
フロルが小さくため息を吐きだした。
「三日後だ」
「……そう」
「君のじゃない。
全ての責を負い、処刑されるのはイオニアス九世だ」
エーデルガルトの眼が大きく見開かれる。
「……父が何をしたというの。あの人は、ただ……」
その情を、フロルは王として切り捨てた。
「足元でドロテアのような犠牲が積み重なる間も、
貴族と権力闘争に明け暮れた。
側室の実家に過ぎない君の伯父を不当に優遇し、
大公位まで与えた。
フリュム領の内乱の件もそうだ。
その傲慢と無謀が闇を招き、歪みは大きくなった。
そして、七貴族の変で全てを失い、
最後に犠牲になったのは……」
投げつけられた杯はフロルに届くことはなく。
落ちた音がやけに長く残った。
転がっていくそれをフロルがじっと見つめる。
「……気づいていないのか。
君の体には、どちらの紋章も残されていない」
屈んで拾い上げ、手の内で回す。
静かに机の上に戻した。
それから、真新しい本の背表紙に触れた。
「君が皇帝に代々伝わってきたと考えている話。
教会の歴史が偽りなのは確かだが、
嘘の下にあるものが真実であるとは限らない。
中立の立場だったハンネマン先生が、
各地を回って集めた資料がある。
読んでみるといい。
……そう間違ってはいない内容だった」
その声色にあるのは、哀れみでも、怒りでもなく。
寂しさだけがあった。
エーデルガルトが小さく笑った。
「それで……。
操り人形に過ぎなかった私を嘲笑いに来たのかしら」
フロルは一瞬だけ躊躇い、そしてただ真実を告げた。
「伝えておくべきだと思った。
君の命を救ったのは女神だ」
エーデルガルトの握りしめた拳が、血の気を引いて白む。
兄弟姉妹が縋った祈りは、届かなかったというのに。
「……なぜ、今更……!」
その言葉にフロルが返せるものはなにもない。
エーデルガルトが非道な目に遭うと知っていた。
ましてあの日、差し出された手を取らなかった。
フロルもまた、なにもしなかった一人だ。
外から、遠く鐘の音が一度だけ鳴る。
フロルが窓の外に視線を向けた。
白い花びらが舞った。
後ろ手に自らの髪を細い紐で結わいていく。
銀の花の髪留めをつけ、最後に袖の釦を丁寧に留めた。
「この屋敷は好きにしてくれて構わない。
もうしばらく誰も住む予定のない屋敷だからな。
近く、限定的とはいえ、
身分を問わず国政に携わる制度ができる。
……地位も紋章も失った君が、
復讐ではなく、真にフォドラの未来を憂うなら、
試験を受けてみるといい」
枕元に半分の長さになった短剣を置いた。
半ばで折れ、亀裂が入った剣身。
幼き頃、エーデルガルトが友人から渡された。
自らの手で未来を切り拓く象徴だったもの。
フロルが二歩分、後ろに下がった。
「さようなら、エーデルガルト。
……君の選択を尊重する」
これ以上、言葉を重ねても意味はない。
扉の前で足を止め、しかし振り返らなかった。
蝶番が、低く乾いた音を立てる。
扉が閉じられ、フロルの背中が見えなくなる。
戻ってくることはない。
エーデルガルトが扉から視線を外した。
枕元の折れた短剣を掴んだ。
刃の上をそっと指でなぞる。
ざらついた表面。
「……こんな終わりも、ある気はしていたわ」
両の手で柄を握りしめ、顎を浮かせた。
刃を自らの喉元へと向ける。
すみれ色の瞳が微かに揺れた。
ふと気づいた。
視界の隅。
肩に垂れ落ちる髪の色は、白ではなく。
長い冬が終わる。
窓の外から、春の風が一筋だけ入り込んだ。
★
戦乱の火種が消え、フォドラの夜に静寂が戻った。
大修道院の風は、冷たくどこか清らかだった。
螺旋階段を上りきったベレスが待ち人を見た。
女神の塔の頂上。
星々を背に、淡い光で翡翠色の髪と瞳が輝いている。
儚さと荘厳さが形を成したようだった。
あの日からフロルはどこか半歩分。
存在が外れてしまったように見えた。
フロルがくつくつと笑った。
「まさか俺がフォドラを統一し、
ここに立つことになるとはな」
どこか寂しげな笑い声に、ベレスの意識は引き戻される。
「ダグザとはまだ交渉中だが、
これでフォドラは、束の間の平和を手に入れたわけだ」
「束の間?」
問いに当然とばかりにフロルは頷いた。
「ああ、束の間だ。
数年かもしれないし、数百年かもしれない。
突然、海の向こうから敵がやってくるかもしれない。
俺が死んで国が割れるのが一番ありそうなことかな」
「それは困るね」
「……そうだな」
沈黙が流れた。
夜風が吹き抜ける。
フロルが所在なさげに、乱れた髪を耳にかけた。
瞳の奥に不安の影が揺れる。
「今から、恥知らずな願い事をする」
短剣を取り出して、刃の腹をそっと撫でる。
それを自らの掌に押し付けた。
滲み出した血が、ゆっくりと掌に溜まっていく。
「ヴァレリアがなんであんなに長生きで、賢いのか。
彼女は俺の傷口を舐めて治そうとする癖があってな……。
それに一応、ザナドの実を俺の血で育ててみたんだ。
そしたら見事に宝果に育って……」
じっと見つめるベレスの視線に気づいた。
増えた口数は不安と緊張の表れ。
気恥ずかしさに、フロルは一度口を噤んだ。
誤魔化すように咳払いする。
「この血を飲めば、ジェラルトさんと同じように、
長き時を生きることになる。
正直、断って欲しい気持ちもあるんだ。
だから、願うのはこれ一度きりだ。
いずれ別れが来るとしても、
少しでも長く共に、いてはくれないだろうか?」
ベレスは一度だけ、視界の隅にいる女神を見つめた。
相変わらず自由気ままな女神は笑みを零した。
おぬしの選んだ道が、わしが選んだ道じゃ。
それとも、わしが代わってやってもよいぞ。
それには及ばない。
差し出されたフロルの手をベレスがとった。
ぴくりとフロルの肩が震えた。
血がベレスの喉の奥へと通り過ぎていく。
体が熱を持って、作り替えられていくような感覚。
それが終わるまで飲み干して、ゆっくりと口を離した。
唇についた血をそっと指で拭う。
「……あまり美味しくないね」
「はは……悪かった。
次は味付けしておくよ」
フロルがほっと胸をなで下ろす。
ベレスが微笑みで返した。
「言わなかったけれど、
自分もフロルに血を飲ませたんだ。
だからこれで一緒」
「ああ、首飾りの時か。
……薄々気づいてはいた」
あの時、不完全だったものが完全になった気がした。
まるで分かたれていたものが、一つになるように。
自然と互いの視線が絡み合った。
静寂が場を満たす。
ベレスが少しだけ躊躇い、覚悟を決めた。
「自分からもお願いがある」
懐から、一つの小さな箱を取り出した。
中に入っているのは指輪。
ジェラルトから渡された、大切な相手に贈るための証だ。
フロルが照れながら、自らも懐を漁った。
「……先を越されたな。
実は……俺もマクイルとインデッハに頼んで、
先生に相応しいと思う物を用意した」
聖銀の指輪が星灯りを受けて淡く輝いた。
「その、俺からでも構わないか?
選ばれるんじゃなく、俺が先生を選びたいんだ」
ベレスがくすりと笑って手を差し出した。
互いの指先が確かめるように触れ合った。
手を取ったフロルが、小さく息を吸う。
「……先生が馬車に飛び乗ってきた日。
胸が高鳴って、そんな自分が嫌になった。
なんで俺を選んだんだって思った。
でも、今なら胸を張って言える。
貴方の選んだ道は間違っていなかった。
そして、これから共に歩む道も──」
歴史は時のよすがを辿り、
フォドラの大地に新たな星が灯される……
世界を滅ぼさんとする邪竜が討たれ、
アドラステア帝国が起こした戦乱は、
およそ一年で終わりを迎えた。
フォドラは春の訪れと共に、
ファーガス神聖王国の名の下に統一され、
新たな時代が幕を開けたのである。
セイロス聖教会は在り方を変えながらも、
かつての祈りと秩序を取り戻していく。
悠久を生きる王を支えたのは、
共に道を歩む聖騎士だったという。
長きにわたる平和と安定をもたらした王は、
民に惜しまれながらも自ら玉座を降りた。
しかし、再び夜が訪れる時、
星灯りは道を照らすだろう。
「時のよすがに導かれて」これにて完結です。
長らくご愛読いただき、ありがとうございました。
ここまで書き進められたのは、皆さまのおかげです。
三級長全員と敵対する展開は緊張の連続でした。
それぞれの理想と対立を書ききれたと思います。
よろしければ、感想や評価をいただけると幸いです。