程よく可愛い感じです。
「えっと、化け狸についてお話を集めているんでしたっけ?」
Aさんは、幼稚園に通っていたころに母と姉を事故で亡くし、以来男手ひとつで育てられてきた。
小中高を父と過ごし、今や大学生として勉学に励む彼女にとって、もはや母と姉というのは額縁の中にいるだけの存在だ。二人を事故で亡くす前の、あれをしたこれをしたという思い出は何一つ覚えていない。
しかし、一つだけ、事故後に姉と過ごした日々の記憶があるのだという。
「あの頃はまだ、母の遺品整理がすこしもされていなかったんです。ショックから立ち直っていなかった父が、あえてそうしていたのだと後から聞きました」
当時小学校低学年だったAさんの伸長を大きく超える、母の使っていた姿見が、父の部屋に置かれていた。そのころのAさんは、自らよりはるかに大きい鏡の前で遊ぶのがブームで、よく服を着替えては鏡の前に立って、ファッションショーじみたごっこ遊びに励んでいた。
そうした日々の最中だった。
「姉が現れたんです。鏡のあった場所に、私ほどの伸長で、私みたいな服を着て……」
松山鏡という話がある。病で亡くなった母親から鏡を託された娘が、その鏡の中に映る母親に似た自分を母親だと勘違いして、慕うという話だ。
当然まさかAさんがそのころ鏡というものを知らなかったというわけもなく。しかし、それまでに幾度か「お前も姉と一緒で母に似ている。将来は美人さんに育つだろう」と親戚に言われていたものだから、鏡の中の自分を見て、姉がいればこのようにお揃いの服を着て遊んだのかもしれないと思うことはあったそうだ。
「その、信じてもらえないかもしれないけど、ほんとうにいたんですよ。あの鏡があった場所にいつも座っていて、私がお姉ちゃんと呼ぶと抱きしめてくれた」
「抱きしめて……?」
「はい。両手を広げて、私が駆け寄るとそっと包んでくれるんです。体温だってありました。暖かかったって覚えてます……もしかしたら美化しちゃった記憶なのかもしれないけど、いたんですよ。あそこに」
それからしばらく、姉と父の部屋で過ごした記憶があるのだという。
必ず姉とAさんの二人きりで、そして会話はなかった。ただお互い抱きしめて、体温を確かめるようにその場にずっととどまるのだ。
しかし時々、不思議なことがある。父の部屋を訪れると、姉が背中を向けているのだ。駆け寄っても反応はなかった。そういう日は決まって父が仕事を早く終えて帰ってきていた。ただどうしてか、怖くて姉の前に回り顔をのぞき込むことができなかった。
そういう日以外は必ず姉はこちらを向いていてかまってくれるから、深く気にしたことはなかった。
「楽しかったわけじゃありません。でもなんとなく幸せでした。父が姉に会ったという様子はなくて、だから私にしか見えていないんだって、父に話したらいなくなってしまうかもしれないとすら考えていたと思います」
ある日のことだ。
いつもより学校が早く終わり、真っすぐに家に帰った。父は仕事中のため自ら鍵を開いて、姉に会いに父の部屋へ向かった。
ランドセルも背負ったまま、父の部屋の戸をそっと引くと。カタリとも動かない。
普段何のつっかえもなく開く扉が、その時ばかりはうんともすんともいわなかった。力をいくら込めても、開く様子はなくて、そのうちにAさんは疲れ果ててしまった。
「きっと姉は今、背を向けているんだなと思いました。父がいないのに。わけがわからないですよね。でも、今日は背中を向けている日なんだって確信しちゃって」
どうにか部屋の様子を探ろうと、扉に聞き耳をたてて、姉の気配を探った。実は父が家に隠れているのではないかと想像して、家の中を探し回った。
あるいはAさんの何らかの所業に姉が腹を立てて扉を閉ざしてしまったのではないかとも考えて、何度か扉に向けて謝りもした。
だからだろう、自分以外の謝っている声が聞こえたのは。
だからだろう、閉じた扉に向いた自分を、背後から抱きしめる何者かが現れたのは。
部屋の中から成人男性のうめくような声が聞こえる。彼女の父だった。
ひたすら何かに謝り続けているようだった。いや何かではない、きっと姉だ。父は姉に謝り続けているのだ。
そのワケが不思議でならなかった。もし父が何かしでかして、姉がいなくなってしまったらと思うと部屋に飛び込みたくなる。だが、そうやって考えを巡らせるほどの余裕はない。
自らを抱きしめる何者かに注意を取られて、部屋の中のことをそれ以上深く考えることができないのだ。
背後からそっと、しかしキツく、Aさんの両腕ごと腹を全身を包むように腹をぐぐぐと。
回された腕は味のなくなったガムのように真っ白で、グニグニとしていてひどくひんやりとしていた。
抱きすくめられたその時は、感触のおぞましさに思わず叫びそうになったが、直後耳元でささやかれたことで途端に落ち着いたのだ。
「お父さんはねえひどいよねえだって勘違いしてるんだもんねえ。ごめんねえ守ってあげるからねえ」
姉だと思った。
理由は全くわからなかった。
背後の誰かは暖かくも、優しくもない、幸せにもならない。
しかし背後にいるのは間違いなく、姉だと思った。
そうしている間にも背後の姉の手は腹を伝って、胸、首、頬、と順々に、体を擦るように上に登ってくる。ざらざらとして痛い。
「大丈夫だよう大丈夫だよう」
間延びしたささやき声とともに、その真っ白な手のひらがいよいよ目にかかろうという瞬間。
戸がスッと開いた。
そして中からズルリと影が飛び出した。
茶色くびしゃびしゃに濡れた毛のようだった。直後目を覆われてからも、あの塊の飛び出す光景が、目にやきついて離れない。
目を塞がれてからも、しばらく水のような音と、何か軽いものを引っ張り出すような音は聞こえ続けていた。
いつまでそうしていたのかはわからない。やがて終わりは訪れて、音は聞こえなくなっていて、気づいたときには目を覆う手も、後ろに密着する冷たい体も消えていた。
そうしてから立ち尽くしている自らに気付いて、慌てて部屋に飛び込むと、いつもいるはずの姉も、代わりの姿見もない。まるでここを出て行ってしまったみたいに。畳を見ると父が土下座をするようにうずくまってデジカメと首にかける紐型ストラップを握りしめていた。
謝り続けている。もしいたのなら、姉か姿見があったであろう場所に向けて。呼び掛けても揺らしても応じない。明らかに正気を失っている父親を目覚めさせようという幼少のAさんの努力が叶ったのはその数時間後のことだった。最後は泣きながら父親を叩いていたそうだ。
「その、それで、話のオチってわけじゃないんですけど。そのときのデジカメ今、手元にあるんです。……父は、私が姉といるのに気付いたらしくて、どうしても会いたかったからこっそりカメラを仕掛けていたんです。
だから、あの日の後ろを向いた姉が振り返って、部屋を出ていく瞬間が映ってて……見ます?」
それが狸なのか否かにさておいて、私は断った。