第1話 人生に疲れた男は、奈落を見下ろした
夜勤明けの警備室は、やけに静かだった。
蛍光灯の白い光が机の上を照らし、エナジードリンクが一本、空になって転がっている。
眠気はない。
ただ、ひたすらに疲れていた。
三十手前。会社員から一念発起して始めた自営の仕事はうまくいかず、残ったのは借金だけ。
今は警備員として日銭を稼ぎながら、返済の予定表を眺める毎日だ。
起業して、成功して、人生勝ち組。そんな夢をみてがむしゃらに頑張れた時期はとうに過ぎ去ってしまった。
——人生、思ったほど上手くはいかない。
そんなことを考えながら立ち上がった瞬間、ポケットのスマートフォンが嫌な音を立てながら震えた。
緊急警報だ。
画面に表示された文字を見て、思わず眉をひそめる。
《東京郊外に正体不明の巨大空間を確認》
続けて表示された写真には、見覚えのある風景が写っていた。
郊外の道路。見慣れた住宅地。その中央が、まるで抉り取られたように黒く裂けている。
穴——いや、空間だ。
奥行きが、分からない。
光を吸い込むような闇が、そこに口を開けていた。
「……冗談だろ」
その日から、世の中は一変した。
テレビは連日その“穴”を映し続け、専門家と名乗る人間たちが好き勝手なことを言った。
異世界。未知の空間。ダンジョン。奈落。
呼び名は定まらないまま、ひとつだけ確かな情報が流れ始める。
内部には、地球上には存在しない素材が存在する。
回収された鉱石。生体組織。結晶。
どれも高額で取引され、探索に成功した者の中には、一夜で億単位の金を手にした者もいるという。
当然、希望だけで終わる話じゃなかった。
自衛隊一個大隊の消息不明。
探索者の死亡。
崩落事故。
モンスターによる惨殺。
ニュースの端に、淡々と被害者や傷病者の数字が積み重なっていく。
——それでも。
「……行くしか、ないか」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
借金の残高。
このまま警備の仕事を続けても、返し終わるまでに何年かかるか分からない。
体力は落ちていく。年齢だけが増えていく。
奈落は危険だ。
死ぬ可能性は、確実にある。
それでも——何もしなければ、何も変わらない。
きっと、このまま毎日を過ごしていくより少しはマシだろう。
数日後、俺は支給された簡易装備を身につけ、奈落の入口の前に立っていた。
規制線の向こう側。
巨大な裂け目から、冷たい空気が流れ出してくる。
周囲には同じような装いをした探索者たちが集まっていた。
緊張した顔。興奮した目。
中には、場違いなほど軽い笑顔を浮かべている者もいる。
全員が、人生を変えに来ていた。
—―賭けるのは自分の命。
係員の説明は簡潔だった。
「内部では銃火器は使用不能です。原因は不明。現状、近接武器のみが使用可能という点です」
ざわり、と空気が揺れた。
銃が使えない。
つまり、中に生息しているらしい化け物と直接刃を交えるということだ。
俺は腰に下げた簡素なナイフを確かめる。
護身用として支給されたものだが、命綱でもある。
入口を越えた瞬間、世界が変わった。
コンクリートは消え、足元は不安定な黒い岩肌に変わる。
どこからともなく湿った風が吹き抜けていた。
暗い。
そして静かだ。
——だが、確実に何かがいる。
直感が、背中を冷たく撫でる。
先行していた数人の探索者が、慎重に進んでいく。
その時だった。
足場が、崩れた。
短い悲鳴。
次の瞬間、男の姿は闇に飲み込まれ、音もなく消えた。
誰も、動けなかった。
助けに行けない。
落ちた先が、どうなっているのか分からない。
沈黙の中、どこかで低く、湿った音がした。
——何か来る。
俺はナイフを握りしめ、一歩、前に出る。
人生に疲れた男が、
初めて「戻れない場所」へ足を踏み入れた瞬間だった。