『越えない探索者』   作:r_watanabe

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第2話 影との遭遇

第2話 影との遭遇

——何かが、動いた。

 

 闇の奥で、空気が歪む。

 獣の足音……にしては、軽すぎる。

 

 視界の端で、黒い塊が地面を這った。

 

 犬に似ている。

 だが、輪郭が定まらない。

 

 影のようで、液体のようで、形を保っていない。

 四足で歩いているはずなのに、足音はぬめりとした音に変わる。

 

 誰かが息を呑んだ。

 

「……なんだ、あれ」

 

 答える暇はなかった。

 

 黒い犬型の化け物が、一気に距離を詰めてくる。

 速い。想像より、ずっと。

 

 すぐ隣にいた男が、反応できずに噛みつかれた。

 

 「ぐ——っ!!」

 

 牙が突き立てられた瞬間、男の悲鳴が変質する。

 叫びではない。溺れる音だ。

 

 噛みついた箇所から、黒い影が男に取り憑く。

 いや、むしろ飲み込まれていく。

 

 「離せ!! くそっ、離せぇ!!」

 

 男は必死に腕を振り回すが、影の獣は離れない。

 そうこうしているうちに、男の体表が——溶け始めていた。

 

 皮膚がただれ、泡立ち、黒いものと混ざっていく。

 

 ——このままだと、完全に取り込まれる。

 

 考える前に、体が動いていた。

 

 俺は踏み込み、ナイフを逆手に握る。

 狙いは、形の中心。

 実体があるかどうかなんて、分からない。

 

 「——ああああっ!!」

 

 全体重を乗せて、何度も突き立てた。

 

 刃が、その不安定な体に沈んでいく。

 

 ぐにゃり、とした感触。

 何度か繰り返すとナイフが硬いものに当たる。

 

 化け物が甲高い音を立てた。

 影が揺らぎ、形が崩れる。

 

 俺はナイフを引き抜き、もう一度、同じ場所を突く。

 三度目で、ようやく抵抗が消えた。

 

 黒い犬型の影は、地面に崩れ落ちる。

 煙のように薄れ、やがて完全に消えた。

 

 静寂が戻る。

 

 ——だが、助かったわけじゃなかった。

 

 噛みつかれていた男は、地面に倒れ込んでいた。

 全身がただれ、皮膚は原形を留めていない。

 

 「た……助かった……のか……?」

 

 声はかすれ、目は焦点が合っていなかった。

 

 俺は膝をつき、声をかける。

 

 「大丈夫だ。今、治療を——」

 

 言い終わる前に、異変が起きた。

 

 男の腕が、崩れた。

 

 骨も肉も区別なく、黒く溶け、地面に染み込んでいく。

 男は驚く暇もなく、短い息を吐いた。

 

 「あ……あぁ……」

 

 それが、最後だった。

 

 体は数秒で原型を失い、

 溶けるように消えていった。

 

 そこに残ったのは——

 

 黒い牙のようなものが、ひとつ。

 

 影の獣が持っていたのか。

 それとも、男が取り込まれる過程で生成されたのか。

 

 分からない。

 

 誰も、口を開かなかった。

 

 助けようとして、間に合わなかった。

 いや——そもそも、助けられる相手だったのかすら分からない。

 

 俺は、黒い牙を拾い上げる。

 

 冷たい。

 そして異様に、重い。

 

 これが——奈落の素材。

 

 金になる。

 人生を変えるかもしれないもの。

 

 だが同時に、はっきりと理解した。

 

 ここは、

 人が簡単に死ぬ場所だ。

 

 この短時間で2回も人生(それ)が終わる瞬間を見た。

 

 しかも、

 死に方を選ばせてはくれない。

 

 俺は立ち上がり、闇の奥を見つめる。

 

 足は、まだ震えていた。

 それでも——引き返さなかった。

 

 借金も、疲れ切った人生も、

 ここに来た理由は全部、消えていない。

 

 だったら進むしかない。

 

 奈落は、

 まだ何も、俺にくれていないのだから。

 

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