『越えない探索者』   作:r_watanabe

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第23話:静かすぎる奈落

第23話:静かすぎる奈落

その日は、奈落に入らなかった。

 

 休養日。

 表向きには、ただそれだけの理由だ。

 

 だが、探協のロビーに足を踏み入れた瞬間、

 俺は違和感を覚えた。

 

 騒がしい。

 いつものざわめきとは、質が違う。

 

 探索者たちが集まり、

 小声で、だが熱を帯びた会話を交わしている。

 

「……聞いたか?」

 「まだ、確定じゃないらしい」

 「でも、指名って話だぞ」

 

 ——指名。

 

 その言葉が、何度も耳に入る。

 

 掲示板には、

 まだ正式な依頼は貼り出されていない。

 それでも、人は集まっている。

 

 探協の職員たちも、

 明らかに慌ただしかった。

 

 資料を抱えて早足で移動する者。

 奥の会議室へと出入りする者。

 

 目が合っても、

 挨拶だけして、立ち止まらない。

 

 「……なんか、張り詰めてますね」

 

 澪が、小さく言う。

 

 「ああ」

 

 佐伯も、

 周囲を見渡しながら頷いた。

 

 「事故の後とは、違うな。

  もっと……準備してる感じだ」

 

 そう。

 慌てているわけじゃない。

 

 構えている。

 

 それが、近い。

 

 ロビーの片隅で、

 聞き覚えのある声がした。

 

 「最近な、

  本当に“何も起きてねぇ”んだよ」

 

 ベテラン探索者の一人だ。

 顔には、警戒が張り付いている。

 

 「半生体の目撃も止まった。

  変異個体も出ねぇ」

 

 「平和じゃねぇか」

 

 別の男が言う。

 

 だが、最初の男は首を振った。

 

 「違う。

  静かすぎる」

 

 その言葉に、

 周囲の空気がわずかに硬くなる。

 

 「上層全体がだ。

  どこも“いつも通り”すぎる」

 

 「……奈落が、

  そうしてるだけだろ」

 

 誰かがそう言った。

 

 その言い方が、

 妙に引っかかった。

 

 そうしてるだけ

 つまり——

 あえて動かしていない。

 

 そう考えた瞬間、

 喉の奥が、ひどく乾いた。

 

 胸の奥で、

 嫌な感覚が広がる。

 

 だが、肝心の“勘”は反応しない。

 

 警告もない。

 痛みもない。

 

 ただ、

 静かだ。

 

 それが、逆に怖い。

 

 探協の受付前では、

 職員が何度も同じ質問を受けていた。

 

 「指名依頼は、出るんですか?」

 「どのクランが対象なんです?」

 

 返ってくる答えは、

 いつも同じだ。

 

 「現時点では、

  何もお答えできません」

 

 否定はしない。

 だが、肯定もしない。

 

 それが、

 噂を加速させていた。

 

 「十階層まで行くらしい」

 「実力者だけを集めるって」

 「帰還できるかどうかを、

  試すつもりだ」

 

 どれも、確証はない。

 だが、誰も笑わない。

 

 俺たちは、

 その場を離れた。

 

 今日は奈落に入らない。

 だが、何もしないわけでもない。

 

 工房に向かい、

 装備を見直す。

 

 第三層。

 まだ未知の領域だ。

 

 俺のナイフは、

 刃の芯を強化した。

 そして防具を新調した。

 

 武具共に耐久性を優先する。

 

 澪は、

 槍の柄に補強を入れ、

 衝撃をより逃がす構造に再調整した。

 

 佐伯は、

 動きを阻害しない小型の盾を新しく作った。

 

 派手な強化じゃない。

 だが、確実に一段上だ。

 

 「……行けそうですね、三層」

 

 佐伯が言う。

 

 「無理はしないけどな」

 

 そう返すと、

 二人とも頷いた。

 

 その選択に、

 勘は何も言わない。

 

 正解なのか、

 間違いなのか。

 

 分からない。

 

 だが——

 少なくとも、今日は踏み込まない。

 

 夕方。

 探協のロビーを出ると、

 奈落の入口が見えた。

 

 相変わらず、

 何も変わらないように見える。

 

 暗く、

 静かで、

 ただ口を開けている。

 

 (……本当に、

  何も起きてないのか?)

 

 答えは、ない。

 

 ただ一つ確かなのは、

 この静けさが、

 長く続くものじゃないという予感だけだった。

 

 その夜。

 

 「探協が、明日指名依頼を出すらしい」

 

 そんな噂が、

 決定事項のように流れ始めていた。

 

 奈落は、静かだ。

 

 静かすぎるほどに。

 

 まるで——

 踏み込んでくるのを、

 待っているかのように。

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