第25話:崩落と地獄
side:黒瀬
六層で一泊した。
上層を十層まで踏むなら、
それが一つのセオリーだ。
七層から先は、
奈落の空気が変わる。
消耗したまま突っ込めば、
帰り道が消える。
だから六層。
危険度が跳ね上がる直前で、
一度、体を休める。
焚き火を囲み、
最低限の補給だけ済ませる。
誰も無駄口は叩かない。
——調査だ。
——仕事だ。
それだけで、
全員が動いていた。
翌日。
七層、八層。
順調だった。
いや、
正確には「問題が表に出なかった」。
影犬。
粘獣。
影爪。
見慣れた相手だ。
対処法も分かっている。
だが、八層に入ったあたりから、
違和感が積み重なっていく。
遭遇が、少し多い。
致命的じゃない。
だが、減らない。
「……増えてきたな」
誰かが言った。
黒瀬は否定しなかった。
確かに、
過去より少しだけ多い。
それでも——
まだ、行ける。
九層。
通路に足を踏み入れた瞬間、
それははっきりした。
戦闘回数が、
明確に増えた。
一戦。
二戦。
三戦。
呼吸が重くなる。
軽傷者が出始める。
装備の継ぎ目が悲鳴を上げる。
それでも、
隊列は崩れない。
「……行けるな」
黒瀬が言うと、
ブラックホーンの連中は無言で頷いた。
問題は、
その先だった。
九層の中ほど。
地図を確認しながら、
アウルズパスの連中が口を開く。
「十層まで、
まだ半分はある」
声は落ち着いている。
「この消耗で進むのは、
リスクが高い」
黒瀬は、
歩みを止めずに返した。
「まだ、いける」
「調査依頼だろ。
十層を踏まなきゃ、
報酬は満額出ねぇ」
空気が、
わずかに張り詰めた。
俺たちブラックホーンは常に前を見る。
あいつらアウルズパスはいつも後ろを見る。
進む理由。
戻る理由。
どちらも、
間違ってはいない。
「あと数戦だ」
黒瀬が言う。
「入り口は近い」
事実だった。
数回の戦闘を越えれば、
十層への下りが見える位置まで来ていた。
だが——
状況は、はっきり悪化していた。
軽傷者が増え、
一人は足を引きずっている。
もう一人は、
腕の感覚が鈍いと言った。
アウルズパスの奴らが、
声を強める。
「……これ以上は、
何人か帰れなくなる」
黒瀬は、
初めて足を止めた。
振り返る。
仲間の状態を見る。
——確かに。
舌打ちを一つ。
「……下に合わせるのは、
主義じゃねぇが」
少しだけ間を置き、
「今回は引く」
そう言った。
誰も、
異を唱えなかった。
撤退が決まる。
来た道を戻る。
その瞬間だった。
——ゴゴッ。
低い音。
床が、鳴った。
「——止まれ!」
声が飛ぶ。
だが、遅い。
通路の奥から、
嫌な振動が伝わってくる。
——崩落。
床が、割れた。
逃げ場はない。
「伏せろ!」
黒瀬が叫ぶ。
次の瞬間、
視界が上下反転した。
落ちる。
——落ちる。
衝撃。
何度も。
何度も。
体を打ち、
息が詰まる。
最後に、
強く地面に叩きつけられた。
……生きている。
だが——
周囲は、地獄だった。
悲鳴。
呻き声。
血の匂い。
灯りが揺れる中、
数を数える。
……半分近くが満足に動けない。
そして。
「……来るぞ」
誰かが言った。
闇の奥から、
気配が滲み出す。
粘性の下半身。
定まりかけた上半身。
角。
——半生体。
一体。
二体。
三体。
「視界の外にも、かなりの数がいるぞ」
囲まれている。
「……くそ」
黒瀬は立ち上がる。
まだ、動ける。
まだ、戦える。
刃を担ぎ、
最初の一体へ踏み込む。
振りかぶり。
縦から一撃。
角ごと、上半身を叩き潰す。
反撃が来る前に、
次へ。
突進を半身で躱し、
関節へ一撃。
粘性が弾ける。
——一人で、
戦線を押し返す。
個人最強。
その呼び名は伊達じゃない。
だが——
足元が滑る。
崩落の瓦礫。
そして崩落による怪我。
――万全の状態からは程遠い。
背後から、
別の半生体が迫る。
「……ちっ」
避けきれない。
直撃は免れたが、
衝撃で体勢が崩れる。
その間に、
他の半生体が距離を詰める。
多すぎる。
数が、
状況が、
悪すぎる。
アウルズパスの五人は、
満身創痍の体に鞭を打ち、
互いに背中を預けあっている。
庇う。
守る。
それでも、
一人、また一人と倒れていく。
——ここで、
多くが落ちる。
黒瀬は理解していた。
自分一人なら、
まだ抜けられる。
だが、
それを選べば、
全滅する。
――依頼は失敗で終わる。
歯を食いしばり、
前に出る。
「下がれ!」
誰に向けた言葉かも分からない。
斬る。
斬る。
斬る。
腕が痺れる。
息が荒れる。
——限界だ。
気づけば、
立っているのは三人だけだった。
黒瀬。
そして、
アウルズパスの二人。
他は——
いない。
半生体は、
満足したのか、
あるいは目的を果たしたのか。
奈落の奥へ、
溶けるように消えていった。
沈黙。
黒瀬は、
深く息を吐いた。
「……生き残ったな」
アウルズパスの一人が、
苦笑する。
「奇跡だな」
黒瀬は、
刃を担ぎ直した。
「上まで返してやる」
ぶっきらぼうに言う。
「生きてりゃ、
それでいいだろ」
返事はない。
だが、
二人は黙って頷いた。
帰りは弾丸だ。
野営をできる余力も無い。
休まない。
止まらない。
嵩張る物資は軒並み捨てていく。
敵は避ける。
戦わない。
黒瀬が先導する。
最短で。
最速で。
——帰る。
奈落は、
何も言わない。
第六層に差し掛かる頃には
静かだった。
静かすぎるほどに。
その沈黙が、
何を意味するのか。
黒瀬は、
まだ知らない。
だが一つだけ、
はっきりしている。
これは事故じゃない。
——奈落がこの結末を選んだ。
そういう感触だけが、
背中に残っていた。