第28話:値段のついた生還(噂)
奈落から戻って、二日が経った。
俺だけじゃなく、澪も佐伯も
体よりも心が疲れていた。
動けないほどじゃない。
でも、万全じゃない。
あの先輩たちの姿を見ると
奈落に行く気には、まだならなかった。
今日は、探協のロビーに立ち寄っただけだ。
用事はない。
情報を拾うためでもない。
ただ、
空気を確かめに来ただけだった。
⸻
ロビーは、相変わらず人が多い。
だが、以前とは少し違う。
声が低い。
笑いが少ない。
談笑よりも、
計算の匂いが強い。
俺は壁際に立ち、
掲示板を眺めるふりをしながら耳を澄ませた。
「……聞いたか?」
「どれだよ」
「ブラックホーンの黒瀬のだ」
名前が出た瞬間、
自然と意識がそちらへ向く。
「黒瀬のやつ、
この前のやつ一回で四百万超えたらしいぞ」
——四百万。
一瞬、
数字の重みを理解できなかった。
「マジかよ……」
「半生体の素材まとめ売りだとさ」
「探協通して、
ネクサスに流れたって」
別の声が重なる。
「でも装備、あの有様だったろ?」
「刃も防具も半分以上死んでた」
「物資も捨ててるっぽいしな」
短い沈黙。
それから、
誰かが現実的な声で言った。
「……残っても、
一〇〇万ちょいってとこだろ」
また、沈黙。
「それでも夢あるよな」
「二層〜四層探索、
何回分だよ」
軽く言う。
だが、誰も笑っていない。
数字は、
もう“噂”じゃなかった。
計算だった。
⸻
ロビーの奥。
ネクサス・マテリアルズの連中が、
固まって話しているのが見えた。
スーツ姿。
探索者とは、明らかに違う空気。
その中心に、
一人だけ立っている男がいる。
年齢は四十前後。
眼鏡。
落ち着いた口調。
「あれ見ろよ……神代主任だぜ」
「また出てきてるな」
探索者たちの声が、ひそひそと交わる。
「研究主任だろ?」
「本来なら、
ラボから出てくる人じゃねぇよな」
神代主任。
その名前を聞いただけで、
どこか胸の奥がざわついた。
彼は、
探索者を眺めている。
値踏みするようでもなく、
哀れむでもなく。
ただ、
素材を見る目で。
「……次は、
もう少し数が欲しいですね
あと、あの半生体の素材もできれば」
はっきりとした声が、
ロビーに落ちる。
「今回の半生体素材は、
非常に“扱いやすい”」
「軽く、強度があり、
加工の自由度が高い」
探索者たちが、
微妙な顔をする。
神代は、
それに気づいていないのか、
気づいていて無視しているのか。
「継続的に確保できれば、
装備体系そのものが変わります」
誰かが、
冗談めかして言った。
「――そんなの
命がいくつあっても足りねぇぞ」
神代は、
一瞬だけ間を置いた。
それから、
淡々と返す。
「今回の研究成果と価値を考えれば――
それなりに良い条件は出せますね」
まるで、
数を揃えれば揃えるほど
話が進むと言わんばかりの口調だった。
その言葉に、
ロビーの空気がわずかに冷える。
条件。
命と金。
どこまで出せるか。
どこで契約するか。
――そういう事だろう。
⸻
俺は、
その場を離れた。
聞きすぎると、
頭が重くなる。
外のベンチに腰を下ろし、
息を吐く。
黒瀬の顔が、
自然と浮かんだ。
あいつは、
金で動く。
だが、
無意味な金には興味がない。
命を張った分だけ、
しっかり回収する。
それだけだ。
——手に入れたから、売った。
そこに、
感情は介在しない。
それなのに——
噂は、
別の形で膨らんでいく。
「命が、
金に換算された」
そんな言葉を、
誰かが言っていた。
否定できない。
だが、
肯定もしたくない。
⸻
クランハウスに戻ると、
澪と佐伯がいた。
「……聞きました?」
佐伯が、
控えめに切り出す。
「ああ」
短く答える。
「黒瀬の話だろ」
澪が、
少しだけ眉を寄せる。
「……数字が、
独り歩きしてますね」
「そうだな」
俺は、
テーブルに肘をついた。
次の返済日が、
頭をよぎる。
あと7日
探索を重ねたから
今回はギリギリ払える分は手元にある。
だが、この先の余裕があるわけでもない。
四万。
四万。
金額を考えないようにしても、
返済期日は勝手に近づいてくる。
佐伯が、
ぽつりと言った。
「……同じ生還でも、
あっちには値段が付くんですね」
否定できなかった。
黒瀬は、
大きく値段を付けられた。
先輩たちは、
値段が付けられなかった。
だが、
値段が付く探索を続けた末に、
あの依頼が回ってきたのも事実だ。
俺たちは——
まだ、
値段の外にいる。
それが、
良い事なのかどうなのか。
わからない。
⸻
夜。
いつものように屋上から、
奈落の入口を見下ろす。
今日も、
静かだ。
だが、
静かさの質が違う。
人の、
奈落を見る目が変わったことを知った。
挑戦じゃない。
探検でもない。
投資だ。
回収できるか。
割に合うか。
生きて戻るか、
金を残すか。
あるいは——
両方か。
俺は、
手すりに手を置いた。
生きて戻った。
それだけで、
十分だったはずなのに。
いつの間にか、
俺の側にも
数字が隣に並んでいる。
奈落は、
何も言わない。
だが、
人間の側が、
勝手に値札を付け始めた。
そのことだけが、
やけに重く胸に残った。