『越えない探索者』   作:r_watanabe

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第42話:境目のない層

第42話:境目のない層

縦穴の降下は、思ったよりも静かだった。

 

風もない。

反響も、ほとんどない。

 

縄梯子を伝って降りながら、

俺は何度も探協の測定器を確認する。

 

深度は、ゆっくりと下がっていく。

だが——

境目が、ない。

 

「……今、四層くらいか?」

 

先行して降りている佐伯が言う。

 

「表示上は、な」

 

俺は、違和感を飲み込んだ。

 

縦穴にありがちな圧迫感がない。

空気が、軽い。

 

むしろ——

広がっている感覚がある。

 

数分後。

足が地面に触れた。

 

その瞬間、

測定器の表示が、静かに切り替わる。

 

《Depth:Layer 5》

 

誰も、すぐには口を開かなかった。

 

「……五層?」

 

澪が、確認するように言う。

 

俺は、周囲を見渡す。

 

岩壁はない。

天井もない。

 

ただ——

光る苔と、森。

 

――五層、のはずだった

 

 だが、

 俺が聞いていた五層とは、まるで別物だった。

 

「……本当に五層、だよな」

 

 佐伯が、周囲を警戒しながら言う。

 

「表示は、そうだな」

 

 俺は前を見たまま答えた。

 

 空気が違う。

 匂いも、湿度も、音の反響も。

 

 ここは、掘り下げた場所じゃない。

 “広がっている”。

 

「なあ」

 

 佐伯が、歩調を落とす。

 

「これ、明らかに異常だろ」

 

「分かってる」

 

 短く返した。

 

 分かっている。

 だからこそ、視線を前に向けている。

 

「だったら——」

 

 佐伯は、一度言葉を切った。

 

「ここが撤退ラインだ」

 

 はっきりした声だった。

 

 迷いのない判断。

 今まで、何度も共有してきた基準。

 

「露骨な環境変化」

「未知の生態系」

「既存データとの乖離」

 

 全部、引き返す理由に当てはまる。

 

「……もう少しだけ」

 

 俺が言った瞬間、

 佐伯の足が止まった。

 

「“もう少し”?」

 

 声は荒れていない。

 だが、硬い。

 

「ここで、お前がそれを言うのか」

 

 俺は、振り返らなかった。

 

「入口は把握してる」

「帰路も、まだ安全だ」

 

 佐伯が即座に返す。

 

「今は、な」

 

 沈黙が落ちる。

 

 発光苔の光が、三人の影を長く伸ばす。

 

「……お前」

 

 佐伯が、低い声で言った。

 

「最近、判断が一段ズレてないか」

 

 胸の奥が、少しだけ軋んだ。

 

「戻れるかどうかじゃない」

「“持ち帰れるか”を見はじめてる」

 

 否定できなかった。

 

 否定しなかった。

 

「佐伯」

 

 澪が、間に入る。

 

「分かってる」

佐伯は澪を見ずに言う。

「分かってるから言ってる」

 

 それから、俺を見る。

 

「今までのお前なら、

 この時点で引いてた」

 

「……」

 

「成果が欲しい理由があるなら、

 言え」

 

 真っ直ぐな視線。

 

 逃げ道は、いくらでもあった。

 

 危険度。

 依頼内容。

 調査不足。

 

 どれも、本音じゃない。

 

「……今は言わない」

 

 それだけ答えた。

 

 佐伯の眉が、わずかに動く。

 

「言えない、じゃない」

「言わない、か」

 

 失望でも、怒りでもない。

 ただの確認。

 

「それが理由なら——」

 

 一拍。

 

「俺は、賛成できない」

 

 はっきりとした拒否だった。

 

「このクランは、

 理由の分からない“前進”はしない」

「俺はその"前進の結果"をすでに見てきた」

 

 一拍

 

「だから、俺はここに所属してるんだぞ」

 

 正論だ。

 揺るぎない。

 

 だからこそ、

 俺は一歩、前に出た。

 

「……分かってる」

 

 それでも足は止めない。

 

「だから、無理はしない」

「一線は越えない」

 

「その“一線”が、

 今ズレてるって話だ!」

 

 初めて、声が強くなった。

 

 澪が、息を飲む。

 

「佐伯」

 

 俺は、振り返って言った。

 

「ここで引いたら、

 次はない」

 

 それだけだった。

 

 佐伯は、言葉を失った。

 

 理由を聞かされていない。

 だが、“追い詰められている”ことだけは、伝わった。

 

「……ちくしょう」

 

 佐伯は、視線を逸らす。

 

「澪」

 

 短く呼ぶ。

 

「どう思う」

 

 澪は、少しだけ考え、

 それから静かに言った。

 

「……私は、この判断を信じます」

「今までも、彼の判断には救われてきましたから」

 

 佐伯が、驚いたように見る。

 

「でも」

 

 澪は続ける。

 

「戻れるって確信が、崩れたら流石に止めます」

 

 俺を見る。

 

「それだけは、

 理解してください」

 

 俺は、頷いた。

 

「……分かった」

 

 佐伯は、深く息を吐いた。

 

「今回は、行く」

「でも、次に同じことがあったら——」

 

 言葉を切る。

 

「その時は、俺が止める」

 

 それが、

 このパーティの限界点だった。

 

 発光苔の光の中で、

 三人は、再び歩き出す。

 

 戻れる判断を守りながら。

 だが、確実に——

 一歩だけ、深く。

 

――

 

 進み始めてから、最初の戦闘は唐突だった。

 

茂みが揺れ、

飛び出してきたのは——猪型の魔獣。

 

体格は大きい。

だが、動きが鈍い。

 

突進は直線的で、速度は遅く、

避けるのも、止めるのも容易だった。

 

「……弱い?」

 

佐伯が、思わずそう漏らす。

 

澪が首を振る。

 

「弱い、というより……なにか違います」

 

次に現れたのは、鳥型。

 

羽はあるが、飛翔は短い。

高度も出ない。

飛翔というよりは、ただのジャンプだ。

 

鹿型。

ウサギ型。

蛇型。

 

数種の虫型。

 

どれも——

見た目は、地上の生物に近い。

 

だが、どこかがおかしい。

 

角の付き方。

関節の向き。

目の配置。

 

そして何より——

 

「“奈落の生き物”っぽくないな」

 

俺の言葉に、誰も否定しなかった。

 

一体一体は、簡単に倒せる。

危険を感じる瞬間が、ほとんどない。

 

「……数が多い」

 

澪が言う。

 

「でも、連携がない」

「縄張り意識も薄い」

 

佐伯が頷く。

 

「群れって感じじゃない」

「同じ場所に、同時に“置かれてる”だけだ」

 

その表現が、しっくりきた。

 

戦闘は、断続的だった。

休む間もなく、次が来るわけじゃない。

 

敵も索敵しているようには思えない。

 

「……違和感しかねぇな」

 

佐伯が、低く言う。

 

俺も、同じ感覚だった。

 

奈落の敵は、今まで

“狩る側”として配置されてきた。

 

だが、ここにいるのは——

 

「試験用、みたいだ」

 

口にした瞬間、

その言葉が自分の中で引っかかった。

 

 

さらに奥へ進むと、

開けた場所に出た。

 

そこで、全員が足を止める。

 

「……」

 

言葉が、出なかった。

 

地面が、掘られている。

 

半円状。

規則正しい深さ。

 

その前には、低い土塁。

崩れていない。

崩された形跡もない。

 

「……塹壕だ」

 

佐伯が、即座に言った。

 

「たぶん、自衛隊式だ」

 

土塁の内側。

平坦に整えられた地面。

 

焚き火跡。

焦げは薄いが、明確だ。

 

周囲の樹木は、

一定の高さで伐採されている。

 

見通しを確保するため。

そして——

 

「迎撃準備……ですかね」

 

澪が、静かに言う。

 

戦闘痕は、なかった。

 

何かと戦った形跡が、

一切ない。

 

「……でも」

 

佐伯が、土塁に触れながら言う。

 

「ここで、戦ってない」

 

「降りてきて」

「備えて」

「何も無かったから、

——そのまま、さらに下へ行った」

 

俺は、周囲を見渡す。

 

結晶化した装備は、ない。

置き去りにされた物資も、ない。

 

撤退の痕跡も、ない。

 

つまり——

 

「判断して、進んだ」

 

誰かが、そう選んだ。

 

かつての奈落で

銃が使えなかったとか、

物資が足りないとか、

そういう話ですらない。

 

「……ここまでは、無事だったんだ」

 

澪が、ぽつりと言う。

 

だからこそ。

 

「じゃあ、何で——」

 

佐伯が、言葉を止める。

 

答えが、どこにもない。

 

 

俺は、地面にしゃがみ込み、

塹壕の内側を指でなぞった。

 

整っている。

急造じゃない。

 

時間をかけて作られている。

 

「……急いでなかった」

 

自分でも、驚くほど静かな声だった。

 

「少なくとも、ここでは」

 

佐伯が、こちらを見る。

 

その視線に、

さっきの衝突の余韻が残っている。

 

「……だからこそ、厄介だな」

 

佐伯が、そう言った。

 

「“安全な地点"があると」

「人は、続きを信じたくなる」

 

俺は、答えなかった。

 

信じたくなっているのは、

誰よりも、自分だからだ。

 

周囲では、

また別の魔獣の気配が動いている。

 

弱い。

だが、多い。

 

危険じゃない。

だが、異常だ。

 

「……ここは」

 

澪が、慎重に言う。

 

「奈落が“狩る場所”じゃなくて」

「“育ててる場所”みたいです」

 

その言葉が、

背中を冷たく撫でた。

 

俺たちは、

成果を持っている。

 

情報。

地形。

痕跡。

 

だが同時に——

引き際が、分からなくなっている。

 

戻れる。

まだ、戻れる。

 

それは、事実だ。

 

だが、

戻った先に“次”があるかどうかは、

もう分からない。

 

発光する苔の森は、

静かだった。

 

敵はいる。

だが、殺意は薄い。

 

まるで——

 

「……降りるかどうかを、試されてる」

 

誰が言ったのかは、分からない。

 

だが、

その言葉を否定できる者は、

誰もいなかった。

 

三人は、

言葉少なに視線を交わす。

 

戻るか。

進むか。

 

——判断は、まだ先だ。

 

だが確実に、

今までで一番、判断しづらい場所に、

足を踏み入れていた。

 

 

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