第43話:一歩だけ、深く
塹壕跡を中心点として、俺たちは進路を定めた。
半円状に掘られた土塁。
崩れていない地面。
焚き火の跡。
ここは、明らかに「基準点」だった。
「……ここを折り返し地点にしよう」
佐伯が言う。
澪が地図に印をつける。
俺も、黙って頷いた。
ここまでは、間違いなく“戻れる側”の探索だ。
そう判断できる材料が、揃っていた。
だから——
一歩だけ、踏み込むことにした。
⸻
森は、静かだった。
発光する苔が足元を照らし、
大木に絡みつく菌糸が、淡い光を落としている。
最初に現れたのは、猪型の魔獣だった。
大きな体躯。
だが、動きは鈍い。
突進は単調で、
予測もしやすい。
佐伯が前に出て止め、
澪が脇から仕留める。
「……楽だな」
思わず、佐伯が漏らす。
次は、鹿型。
角は歪だが、跳躍は低い。
鳥型は羽ばたくが、
飛翔と呼べるほどの高度は出ない。
蛇型。
ウサギ型。
数種の虫型。
どれも、弱い。
数は多い。
だが、連携がない。
縄張りを守る様子もない。
「奈落の生き物って感じ、しないですね」
澪が、警戒を解かずに言う。
俺も、同意だった。
狩るために配置された敵じゃない。
そこに“居るだけ”。
勘が、何も言わない。
危険を告げない。
退けとも、進めとも。
——沈黙。
それが、一番厄介だった。
⸻
しばらく進んだ頃だ。
澪が、足を止めた。
「……あれ」
指差した先。
倒された木。
伐採跡。
切り口は古い。
「さっき……似たの、見ませんでした?」
佐伯が首を傾げる。
「森なら、似た景色はあるだろ」
俺も、その時はそう思った。
測定器に異常はない。
深度も変わらない。
時間感覚も、狂っていない。
——気のせい。
そう処理して、進んだ。
それが、間違いだったとは、
この時はまだ分からなかった。
⸻
二度目に見つけた時、
誰も言葉を発さなかった。
特徴的な倒木と
石の並び。
澪が、地図と照らし合わせる。
指が、止まった。
「……同じ、です」
静かな声。
「塹壕から北東に進んだ地点で見た痕跡と……一致します」
空気が、変わった。
「階層を一周、した……?」
佐伯が低く呟く。
あり得ない。
測定器は正常だ。
距離も、時間も、合っている。
なのに——
同じ場所に戻っている。
「……もしかして、動いてる」
澪が言う。
「木の配置が、少しずつ……」
その瞬間、
胸の奥が、ひやりと冷えた。
勘は働かない。
——おかしい。
だが、理由が分からない。
⸻
「流石に戻るぞ」
佐伯が、即断した。
異論はない。
誰も、前に進もうとは言わなかった。
だが——
「戻る方向、どっちだ?」
言葉が、重く落ちる。
地図は、ある。
記録も、ある。
だが、
それが「今の配置」と一致している保証がない。
敵の数が、少しずつ増えてきた。
相変わらず、弱い。
一体一体は脅威じゃない。
それでも——
時間が削られる。
「……ちくしょう」
佐伯が歯噛みする。
俺は、探索記録を見る。
苔の密度。
地形の起伏。
湿度。
勘は、役に立たない。
だから——
「……確率で行く」
俺は言った。
二人が、こちらを見る。
「高低差がある方向」
「伐採密度が低い側」
「敵の出現間隔が長い方」
「塹壕に近づく可能性が、一番高い」
勘じゃない。
経験と数字の話だ。
「間違ってもいい」
「止まるより、動く」
一瞬の沈黙。
それから、佐伯が言った。
「……了解だ」
澪も、頷く。
三人で、進む。
必死に、退路を“作る”。
⸻
発光苔の密度が、少しずつ変わる。
木々の間隔が、広がる。
——見覚えのある土塁。
「……ここまでは、戻れた」
誰かが、呟いた。
深度だけは動いてない。
敵の気配が、薄れる。
助かった。
だが——
誰も、笑わなかった。
⸻
塹壕の前で、俺は立ち尽くす。
今回は、たまたまだ。
判断が、当たっただけだ。
勘は、
何も教えてくれなかった。
「……自衛隊も」
澪が、ぽつりと言う。
「撤退しなかったんじゃなくて」
「できなくなりつつ、あったのかもしれませんね」
俺は、答えなかった。
信じたくなっているのは、
誰よりも、自分だからだ。
一歩だけ。
深く踏み込んだ。
その一歩で、
勘が頼れない場所があることを、
はっきり知ってしまった。
奈落は、静かだ。
敵は弱い。
危険は見えない。
それでも——
ここは、
「進むかどうか」を
確かに試してくる場所だった。
俺たちは、
今までで一番判断しづらい一線の上に、
立たされている。
進む先が帰路になるのか。
それとも――
戻った"つもり"で
さらに下へ引き込まれているだけなのか。
なにもわからない。
発光する森は、
静かに揺れていた。