第46話:線を引く夜
未開拓五層に、もう一度入る。
口に出した瞬間から、準備は「作業」じゃなくなった。
怖さを薄めるための儀式みたいに、手が勝手に動き出す。
――線を引く。
――戻るための線を、増やす。
それが、次の一歩の条件だった。
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Ⅰ.佐伯は「戻る」を増やす
佐伯は、地図の前で黙り込んでいた。
推定五層の地図。
縦穴の位置。
塹壕跡を中心にした円。
そして、そこから外側へ伸びる白い余白。
「……目印を増やす」
低い声。
誰に言うでもない独り言だ。
佐伯は、紙に書き込みを始めた。
・塹壕跡を中心に、三方向へ短距離の“杭”を打つ
・苔の濃淡を使ってルートを色分けする
・倒木と石組みを基準に、戻りの“目視チェック”を作る
・交代で記録係を固定し、主観のズレを減らす
――勘を信用しないための設計。
それは、佐伯なりの世界の作り方だった。
夕方、佐伯は一人でクランハウスを出た。
誰にも言わなかった。
――行き先は墓地。
「――久しぶり
っていっても聞こえてはいないだろうけどな」
佐伯は墓標に手を合わせながら呟く。
この墓に中身はない。
親友の体は奈落の底に消えたまま――
ここには帰ってきていない。
佐伯は瞼を開き、手を下ろした。
空を見上げ、親友の最後の姿を思い返しながら、伝える。
「お前には感謝してもしきれない」
「お前が守ってくれたから、俺は生きてる」
「なんであの時助けてくれたのか、俺にはまだわからない」
拳を握り、再び墓標を見下ろす。
「――でも、俺にも守りたい奴らができた」
「今日はそれを伝えに来た」
佐伯の中で、二人はすでに"特別"になっていた。
失ったものを取り返しに行った、友人達がそうなっていったように。
「あれ、佐伯……来てたのか」
「お前らか」
呼ばれて振り返ると、今も先を進む友人達の姿があった。
「あれから、いろいろあったな……」
「あぁ」
友人達は少し気まずそうな雰囲気で続けた
「最近の佐伯達の話……噂で聞いた」
「そうか」
「俺たちはもちろん信じてない」
「それと――
探協で、未開拓の先に進んでる事も今日聞いた」
佐伯は頷く。
「正直、“帰ってくる"と思われてるのが、羨ましいと思った」
「俺たちがあの時選ばなかった道を積み重ねた結果」
「今の佐伯は俺たちより先に進んでる」
「は?」
佐伯は友人達の言っている言葉の意味がわからなかった。
友人達は佐伯の反応に困ったような表情をして続けた。
「俺たちは、怪我や無理をしながら走り続けた」
「でも後悔は消えないし、立ち止まれなかった」
「結果、分かってる人からの"評価や信頼"はなかった」
「死にたがり……自殺志願者、そう言われた時もある」
友人は佐伯の顔を見つめる。
「佐伯は違う」
「立ち止まって、一歩一歩積み上げた結果」
「探協から未開拓領域を任された」
「それは、必ず帰ってこれると思われてるってことだ」
「つまり――みんなの道標になれるって"信頼"の証だ」
「そうか、そうだといいな」
友人達は少し笑顔を浮かべて話を続けた。
「佐伯のやり方、俺たちも最近真似してるんだ」
「消耗も減って、楽になった」
「だから――佐伯には感謝してる。ありがとう」
そう言って花束を墓標におき、手を合わせてから友人達は戻っていった。
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Ⅱ.澪は「足りない」を埋める
澪は朝から外に出て、必要な物を淡々と揃えてきた。
携帯食。
浄水タブレット。
簡易寝具。
乾いた布。
ロープの替え。
止血材。
縫合用の糸。
――野営を前提にした荷物。
クランハウスに戻ると、澪はそれを無言で仕分けし始めた。
誰の分かが分かるように。
誰が倒れても、誰でも使えるように。
その手つきは、冷静だった。
けれど。
買ってきた物の中に、ひとつだけ余分があった。
鎮痛剤。
ほんの少し多い。
澪はそれに気づいて、ほんのわずかに眉を動かした。
(……私、また)
自分でも分かっている。
“みんなのため”の買い出しのはずなのに。
どうしても、あの人の分を余分に想定してしまう。
疲労。
睡眠不足。
無理の反動。
――壊れないでほしい。
それが恋なのか、母性なのか。
澪はまだ言葉にしない。
言葉にした瞬間、
自分の判断が、歪む気がしたから。
だから、澪は袋を結び直し、余分を「共同」に入れた。
個人の感情を、共有に溶かすために。
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Ⅲ.俺は「逃げ道」を数える
俺は、装備の確認をしながら、数字を数えていた。
残りの返済。
次の締め日。
依頼の単価。
減った回数。
帳簿は、容赦がない。
気持ちをごまかさせてくれない。
少しでも――
稼がないといけない。
それだけが、喉の奥に引っかかったまま取れない。
財布の中に、名刺がある。
まだ、使っていない。
捨ててもいない。
神代。
逃げ道を一つだけ残していることが、
自分でも卑怯だと思った。
でも。
今の俺は、卑怯じゃないと立っていられない。
夕方、探協のロビーを通りかかった時――
人の流れが、少し割れた。
通路の向こうから、軽い足取りが来る。
天城レイ。
イカロスのリーダー。
装備は最小。
なのに、圧がある。
下から戻ってきた人間特有の“遠さ”。
目が合う。
「……まだ、ここにいましたか」
感想でも皮肉でもない。
事実の確認みたいな声だった。
「俺は……未開拓に、入る」
俺が言うと、天城は小さく頷いた。
「あなたらしい」
褒めてもいない。
貶してもいない。
ただ分類している。
「私は、先に行きます」
天城は言った。
「中層の最奥――新しい世界に繋がる道に向かう」
「英雄は、道標ですから」
迷いがない。
羨ましいほどに。
俺は、少し間を置いて答えた。
「俺は、帰り方を増やす」
天城は一拍だけ黙ってから、口角を少しだけ上げた。
「結局、同じですね」
「え?」
「あなたも進む」
「ただ、進み方が私たちと違うだけ」
それだけ言って、天城は通り過ぎていった。
誘いはない。
説得もない。
あの日みたいに揺さぶってこないのが、
逆に重かった。
――“行かない”じゃなく、“別の道を行く”。
それを、俺は自分で言った。
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Ⅳ.線引きの夜
再突入の前夜。
クランハウスの屋上に、三人が揃った。
夜風が冷たい。
それでも、息は白くならない。
奈落の入口は遠くに見える。
いつもと同じ顔で、口を開けている。
最初に口を開いたのは、佐伯だった。
「……結局のところ、俺はまだ賛成してない」
正直な言葉。
逃げない言葉。
澪が頷く。
「分かってます」
俺も頷いた。
「分かってる」
佐伯は、手すりから視線を外さないまま続ける。
「でも、みんなで行くって決めたから」
「俺は“戻る”を作る側に回る」
一拍。
「今回は条件がある」
俺は黙って待つ。
「撤退ラインを言語化する」
「お前の勘がなくても、“合意”で引く」
「違和感が二回出たら、そこで折り返す」
澪が、すぐに補足した。
「野営は一回まで」
「塹壕跡に戻れないと判断したら、即撤退」
「戻りを“偶然”にしない」
俺は頷いた。
「守る。」
佐伯が、こちらを見る。
「……それと」
声が少しだけ低くなる。
「俺は墓に行ってきた」
俺は頷いた。
澪も黙る。
「友達が、帰れなかった」
「俺は、奈落での終わり方を見た」
一拍。
「だから、止めたかった」
「止めることで、お前を守れると思った」
その言葉は、責めじゃない。
告白だった。
俺は、ゆっくり息を吐いた。
「……悪かった」
謝罪は短くていい。
長くすると、言い訳になる。
「言えないことがある」
「でも、お前を利用してるつもりはない」
佐伯は、少しだけ目を細めた。
「……分かってる」
そこで初めて、佐伯の声が少し柔らかくなった。
「言わないなら、それでもいい」
「ただし」
「その代わり、判断は共有しろ」
澪が、静かに言う。
「共有しましょう」
「三人で生きて戻るために」
俺は、二人を見た。
逃げ道は減っている。
焦りは消えない。
勘は黙ったままだ。
それでも――
「……ありがとう」
澪が小さく首を振る。
「感謝はいらないです」
「抱え込んで、壊れないでください」
佐伯も頷く。
「俺たちは仲間だからな」
一人じゃない。
その言葉が、救いだった。
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Ⅴ.それぞれの夜
部屋に戻って、装備を並べる。
ロープ。
杭。
布。
測定器。
記録用の札。
財布に触れる。
名刺の角が指に当たる。
神代。
まだ使わない。
でも捨てない。
俺は名刺から指を離し、代わりに装備の紐を結び直した。
――選ばされたから進むんじゃない。
――進むから選ぶ。
それを、やっと言える気がした。
発光する森の光は、まだ目の奥に残っている。
でも今夜は、
その光の中に「新たな線」を引ける。
——戻るための線を。
それだけで、十分だった。
明日は、もう一度あの森へ行く。
一歩だけ。
深く。
今度は、
ちゃんと戻るために。