第48話:回る森、戻れない線
塹壕跡に辿り着いた時、正直に言えば――
ほっとした、というより、安堵してはいけない気がした。
戻れた。
確かに戻れた。
だがそれは、
「正しく戻れた」のか、
「たまたま合っていただけ」なのか、
誰にも断言できなかった。
「……今日は、ここで野営だ」
佐伯が静かに言う。
反対は出ない。
三人とも、気づかないふりをしている疲労があった。
塹壕跡は、相変わらず半円状に地面が削られ、
土塁も、焚き火跡も、そのまま残っている。
だが――
前回より、わずかに“遠い”。
距離の問題じゃない。
感覚の話だ。
基準点が、こちらから逃げるような感覚。
それを口にする者はいなかった。
⸻
今回は、焚き火をする。
夜を越えるための最低限。
目立たないように、炎は抑える。
澪が火を起こし、
佐伯が周囲を確認し、
俺は地図と記録を広げる。
火が安定した、その時だった。
「……煙が」
澪が、ぽつりと言った。
俺は顔を上げる。
焚き火の煙は、細く立ち上り――
右へ流れていた。
風は、ない。
木々も揺れていない。
苔の光も、均一だ。
「……対流?」
俺が言うと、
佐伯は首を横に振った。
「上昇気流なら、もっと素直に散る」
「これは……流されてる」
煙は、一定の速さで、右へ。
緩やかだが、迷いがない。
「……一方向だな」
違和感。
だが、この時点では――
まだ“数えるほど”じゃない。
⸻
「確認しよう」
佐伯が言った。
「三方向だ」
「視認できる距離まででいい」
澪を見る。
「中心は、澪だ」
「煙の基準を取ってほしい」
澪はすぐに頷いた。
「分かりました」
俺は一瞬、口を開きかけて、
やめた。
澪を中心に残す。
佐伯は塹壕近辺。
俺が、外縁へ。
合理的だ。
だから――
俺が一番遠くへ行く。
「俺が東側……いや」
煙の流れを思い出す。
「……右側を担当する」
佐伯が俺を見る。
「無理はするな」
「分かってる」
言葉とは裏腹に、
足は自然と早くなっていた。
⸻
森の中は、静かだった。
敵は出る。
相変わらず、弱い。
猪型を避け、
虫型を蹴散らし、
蛇型を斬る。
戦闘は作業に近い。
集中を削られない。
だからこそ――
余計な感覚が入り込む。
焚き火の煙。
さっきより、
少しだけ角度が変わっている。
(……気のせいか?)
俺は、一瞬だけ、
戻る方向を見失った。
塹壕は、あっちだったか。
それとも――
足を止める。
地図を見る。
杭を見る。
……合っている。
記録上は、合っている。
だが、
感覚が、ズレている。
胸の奥が、ひやりとした。
(……違う)
その瞬間。
煙が、わずかに揺れた。
流れが、遅れて変わった。
俺が見ている煙と、
さっき見た煙の向きが――
時間差で一致しない。
「……回ってる?」
呟いた声は、森に吸われた。
⸻
合流。
塹壕跡で、三人が揃う。
「報告」
佐伯が言う。
俺は、短く説明した。
「煙が、一定方向に流れる」
「ただし……」
「距離によって、流れが“遅れて”変わる」
澪が、息を呑んだ。
「……私もです」
「中心では、変化が遅い」
「でも、確実に右へ……回ってます」
佐伯が、地図を広げる。
「右……時計回り、か」
俺は頷く。
「中心が一番遅い」
「外側ほど、速い」
「……渦だな」
佐伯が、静かに言った。
違和感、二つ目。
だが今回は――
理由がある。
だから、数えられる。
「法則、確定だな」
佐伯の声に、重みがあった。
⸻
俺は、地図を取り出す。
だが、いつもの描き方はしない。
距離。
方角。
通路。
全部、意味が薄い。
代わりに――
円を描く。
中心。
観測点。
時刻。
煙の向き。
変化の速度。
「……天体図みたいだな」
澪が言った。
「星の位置じゃなくて」
「位相を記録する」
俺は、ペンを走らせる。
「進む地図じゃない」
「迷わないための地図だ」
佐伯が、ゆっくり頷いた。
「……なるほどな」
焚き火の煙は、
今も、静かに回っている。
森も。
空気も。
たぶん――
俺たちも。
だが、今回は違う。
回っていることを、知った。
それだけで、
戻る確率は、確かに上がった。
⸻
夜の時間は長い。
敵は弱い。
危険は見えない。
それでも――
この階層は、確実に動いている。
俺たちは、まだ階段を降りていない。
それなのに、
奈落の仕組みに、一歩踏み込んでしまった。
焚き火を見つめながら、思う。
この地図が、
いつまで通用するかは分からない。
だが、今は。
今だけは――
戻るための線を、描けている。
その事実が、
眠れない夜を、かろうじて支えていた。