第49話:戻れた理由
夜明けの時間になる頃、焚き火を消した。
煙は、相変わらず静かに右へ流れている。
だが、昨夜ほど不安はなかった。
「……今だな」
俺は天体図と測定器を見比べて言う。
二人は頷いた。
焚き火の煙。
苔の濃淡。
そして、時間。
全部が——
同じ“位相”に揃っている。
「撤退開始」
その一言で、全員が動いた。
⸻
驚くほど、スムーズだった。
森は回っている。
確かに動いている。
だが、回る方向と速度が分かっていれば、
“逆らわずに流される”こともできる。
「……敵、少ないな」
澪が言う。
「位相が合ってる」
佐伯が即答する。
「たぶん、今までで進んでる距離が
一番短くなっているからだ」
戦闘は数回。
猪型、虫型、鳥型。
弱い。
配置もまばら。
まるで——
通してもいい、と判断されたみたいだった。
縦穴が見えた時、
誰も声を上げなかった。
ただ、胸の奥が、少しだけ緩む。
登り切り、
三層の岩壁と天井が戻ってきた瞬間。
空気が、重くなった。
安心と同時に、
はっきり分かる。
——あそこは、別の場所だった。
⸻
探協での報告は、即座に場が用意された。
応接室。
担当者に加え、記録官が二名。
俺は、天体図のような地図を机に広げる。
通常の地図ではない。
距離も、通路も、最低限。
中心。
観測点。
時刻。
位相。
回転の速度が、だいたい分かる程度の記録。
「……これは?」
担当者が、率直に聞いた。
「撤退用の地図です」
俺は答える。
「進むためのものじゃない」
「“迷わない”ためのものです」
佐伯が補足する。
「未開拓五層は、回転しています」
「時計回り」
「中心ほど遅く、外縁ほど速い」
澪が続けた。
「環境と敵配置、難易度は一定ではありません」
「時間と位置が噛み合った時だけ、安定します」
担当者は、言葉を失った。
「……つまり」
一拍。
「危険なのは、敵ではない?」
「はい」
俺は頷いた。
「危険なのは——
“戻れなくなること”です」
敵は弱い。
環境も極端じゃない。
だからこそ、判断を誤る。
「タイミングを外すと」
佐伯が言う。
「縦穴に戻れません」
沈黙。
記録官が、ペンを止めたまま動かない。
「……これは」
担当者が、ゆっくり言った。
「非常に厄介で……非常に価値があります」
⸻
結論は、早かった。
「未開拓五層は、段階的に一般開放します」
担当者の声に、俺は目を上げる。
「ただし」
言葉が続く。
「あなた方の天体図を基準に」
「構造を周知した上で、です」
佐伯が、短く息を吐いた。
「……無茶はさせない、と」
「ええ」
担当者は頷く。
「少なくとも、“知らずに死ぬ”ことは減らせます」
それは、探協なりの最大評価だった。
⸻
クランに戻ると、
リーダーは全員を集めた。
天体図を見て、
しばらく黙る。
「……なるほどな」
低い声。
「敵が弱いのに危険」
「撤退が最大のリスク」
「一番、判断を誤りやすい」
俺は何も言わない。
リーダーは続けた。
「全員に通達する」
「未開拓は、“力量”じゃなく“理解”が必要だ」
「自信がない奴は、入るな」
視線が、俺たちに向く。
「お前たちは」
一拍。
「よく戻ってきた」
それだけだった。
⸻
夜。
クランハウスの廊下で、
澪がぽつりと言う。
「……開放、されましたね」
「ああ」
佐伯が答える。
「でも、安心はできない」
「うん」
澪が頷く。
「位相がずれたら、同じことはできません」
俺は、天体図を見下ろす。
これは、万能じゃない。
一時的な答えだ。
奈落は、学習する。
たぶん——
次は、もっと複雑になる。
それでも。
「……戻れた理由が、分かった」
その事実は、大きかった。
偶然じゃない。
運でもない。
判断で、帰ってきた。
それだけで、
次に進む資格は、確かにあった。
階段は、まだ降りていない。
だが——
奈落の構造には、もう触れてしまった。
次は、
“降りるかどうか”を選ぶ話になる。
そう分かっていながら、
俺は天体図を畳んだ。
今夜は、
戻れたことを、ちゃんと噛みしめる。
進むのは——
そのあとでいい。