第55話:悪意の輪郭
探協の応接室は、いつもより狭く感じた。
机の上に置かれた紙の束――天体図の写しと、帯の観測記録と、閃光の同期ログ。
たったそれだけで、空気が重くなる。
俺の隣にはクランリーダーが座っている。
背筋が伸びていて、言葉が少ない。
だが今は、それが頼もしい。
向かいには担当者。
記録官が二名。
ペン先だけが落ち着かず、紙の上を滑っている。
「……確認します」
担当者が、天体図をめくりながら言った。
「調整五層は“回転”している」
「階段の接続先は“位相”で変わる」
「そして――」
一拍。
「階段が、複数ルートに分岐する。」
視線が上がる。
「本日、あなた方は“帰還側(既存六層側)から五層へ戻る経路”の観測に成功し、さらにBとCの踏み分けを確認した」
「つまり、再現性がある。――そういう理解でよろしいですね」
俺が答える前に、リーダーが言った。
「再現性は“上がった”だけだ。まだ確定じゃない」
担当者が頷く。
「ええ。ですが、一般開放後の探索事故率を下げる材料にはなります」
言い方が淡々としているのに、妙に強い。
探協は、数字で物を見る。
担当者は机の端に置いた別の資料を引いた。
赤い付箋がいくつも貼られている。
「最近、未帰還が増えています」
「恐らくD――あなた方の言う“戻れない帯”に引っかかった可能性が高いです」
俺は喉の奥が冷えるのを感じた。
紙の上の赤は、いつ見ても軽くならない。
担当者が言う。
「ですので、天体図と“帯”の概念を――即時、全体公開します」
空気が一段沈んだ。
リーダーが、即座に遮る。
「待て」
担当者が目を瞬かせる。
「公開するなら、責任の線引きを先にしろ」
「これを公開して何かあった時、アウルズパスが“出した情報の責任”を問われる」
「それは避けたい」
担当者は、困ったように眉を寄せるでもない。
ただ、“想定済み”の顔で返した。
「責任は探協が持ちます」
「資料は探協の名義で出す」
リーダーは首を横に振る。
「名義の話じゃない」
「情報を読んだ奴が死んだ時、誰が“この情報を最初に見つけた”と言われるかの話だ」
部屋の静けさが、硬くなる。
それは、リーダーが守ろうとしている“クラン”の輪郭だった。
担当者は、ゆっくり息を吐いた。
「しかし」
「公開しないことは、“知らずにDへ行く確率”を上げます」
真正面から言い切る。
「あなた方が守りたいのは、クランだけですか」
「それとも――探索者全体ですか」
リーダーの目が僅かに細くなる。
「……言い方が汚いな」
「現実です」
担当者は、机の上の赤い付箋に指を置いた。
「今この瞬間も、下で誰かが噛み合わせが悪くて、誰かが死んでいるかもしれません」
「判断が遅れた結果、戻れないかもしれません」
「元々戻れない道に踏み込んだかもしれません」
「そういう"不幸"が減らせるんです」
薄い言葉の刃。
俺はそこで、口を開いた。
「公開するなら、条件がある」
担当者の視線が、こちらに来る。
「A〜Cの“適正レベル”を最低限、調べるべきだ」
「“読めば簡単に戻れる”って誤解が一番危険だ」
「どの帯が、どれくらい余力を削るのか」
「それが分からないと、結局“欲張った奴”が死ぬ」
担当者は、少しだけ考える顔をした。
「……適正レベルの検証」
「探協主導での試験パーティを組むべき、という提案ですね」
俺は首を横に振った。
「主導はどっちでもいい」
「ただ、検証には“戻れる根拠”が必要だ」
「今それを持ってるのは、おそらく俺たちだけだ」
言ってしまったあとで、胃の奥が痛んだ。
これ以上、手を広げたくない。
でも、線を引くだけじゃ何も守れない段階に来ている。
その時だった。
「すみませーん!」
応接室の扉が、遠慮なく開いた。
空気が一気に崩れる。
入ってきたのは、見覚えのある若い探索者たち。
四人パーティ。装備は軽い。銃を肩から下げている。
――あっという間に俺たちと同じ階層まで進行した“銃使いの新人”だ。
「その話、俺たちにも関係ありますよね?」
「どうせ公開されるなら、俺たちも確認に行ってきますよ」
担当者が立ち上がりかける。
「ここは――」
だが新人は止まらない。
「天体図とかよく分かんないけど」
「結局敵は弱いんでしょ?」
「素材うまいんでしょ?」
「だったら、早い者勝ちですよね」
その瞬間、リーダーの声が落ちた。
「やめろ」
新人の一人が笑う。
「大丈夫っすよ」
「俺ら銃あるし」
「近接よりやっぱ安全だし」
俺の胸の奥で、冷たいものが動いた。
銃がある。
だから大丈夫。
――そういう“軽さ”が、Dに吸い込まれる。
澪の顔が浮かぶ。
佐伯の線引きが浮かぶ。
ここで止められなかったら、赤い付箋が増える。
「とりあえずは確認だけっす」
「奥まではいかないつもりなんで、先行ってきまーす」
扉が閉まる。
残ったのは、ペンの音すら止まった応接室と、空白みたいな沈黙だった。
リーダーが、端的に聞いた
「……あいつら、どこの所属だ」
「企業の所属です。クランのレベルは三級。パーティランクはCです」
「止めないのか」
「実際のところ、ああいうのを止める権限は……探協にはありません」
担当者は唇を噛み締めながら答える。
――そして、リーダーの視線が俺に来た。
俺も、同じ答えに辿り着いている。
「止めに行きます」
俺が立ち上がる。
リーダーが頷いた。
「ああ」
「ただし、無茶は絶対にするな」
担当者が言う。
「探協としても、今回は救援要請を出します」
「同行者は――」
「俺たちが行く」
リーダーが遮る。
「今、回収に根拠を持って行けるのは、俺たちしかいない」
それが、現実だった。
⸻
探協のロビーは、いつもより騒がしかった。
“公開”という言葉だけが先に走り、
“理解”が追いついていない。
俺たちは三人で縦穴へ向かった。
澪が記録を抱え、佐伯が周囲を切り取り、俺が天体図を握る。
「まず“戻る”を最優先だ」
「新人の救援より、俺たちがDに落ちたらそこまでだ」
「分かってる」
言いながら、心は急いでいた。
俺は焦りを嫌う。
だが、焦らないでいられない時もある。
《Depth:Layer 5》
苔の光が迎える。
静けさが、歓迎みたいに見える。
――だから、余計に気持ち悪い。
階段までの移動は早い。
天体図の線に沿えば、迷わない。
「……階段見えました」
「足跡はあるが――誰もいないぞ」
「すでに階段を降りてる?」
階段の手前に、足跡が乱れている。
「……早すぎる」
佐伯の声が、通信の向こうで低い。
「今の位相は――」
俺は天体図を見る。
帯のおそらく境目。
最悪の“黒”が、すぐ隣にある。
「やばすぎる……」
誰に向けた言葉か分からない。
次の瞬間、階段の奥から銃声が聞こえた。
乾いた音。
反射で増幅して、森全体が鳴ったみたいに聞こえる。
――嫌な音だ。
「発砲の回数が増えてます」
危険。
俺は迷わず一人で階段を降りた。
一段、二段。
空気が変わる。
三段目で、景色が切り替わる。
湿り気のある空気。
水音。
――B側。
通路みたいな場所。
だが、呼吸が重く感じる。
ここは“抜け道”じゃない。
“選別の道”だ。
「おい!」
俺が叫ぶと、少し先で新人が二人、膝をついていた。
残り二人は銃を構えている。
だが撃っているのは敵じゃない。
――壁。
壁面に穴がいくつも空いている。
そこに向かって一心不乱に銃を撃っている。
「何してる!」
「来るんだよ!」
「壁から!」
新人が叫んだ瞬間、俺の背中が冷えた。
穴の一つが、ぬるりと膨らむ。
皮膚みたいな膜が、内側から押し出される。
“産まれる”って言葉が浮かんだ。
そして、落ちた。
重たい塊が、床に叩きつけられる音。
跳ねない。
弾むはずの肉が、沈む。
目が合う。
半分だけ“完成”している。
全身の骨格は整っている。
筋肉の配置が、無駄がない。
なのに、皮膚は継ぎ接ぎ。
関節の一つが逆向きで、
ねじれた大きな角が二つある。
下半身は粘性が薄れ、ジェルほどには固形化している。
――半生体。
以前遭遇した個体より生物としての完成に近づいた。
狙いがある動きをしている。
銃声が鳴る。
弾は当たる。
だがその体は止まらない。
肉が裂けても、動きは落ちない。
「引くぞ!」
俺が座り込んだ新人を背に庇いながら叫ぶ。
銃を持って撤退を始めた新人2人は階段に向かって走りながら言う。
「階段が――!」
俺は振り返り、叫んだ。
「まだ抜けられる! 揺れてるだけだ、急げ!」
(階段が閉じる前兆じゃない。切り替わりの縁――今ならまだ通れる。)
新人達には発破をかけるが、一方で冷たい汗が背中を伝う。
――噛み合わせのタイミングが外れる。
まずい。
俺の胸の奥で、嫌な結論が形になる。
俺は位相がズレるギリギリのタイミングで救援に来た。
そして、揺らぐ階段に向かって2人は飛び込んだ。
「お前も戻れ!」
佐伯の声が、階段の向こうで凍っている。
「急いで!」
澪の声が不自然に揺らいで聞こえる。
俺は残された新人の腕を掴んだ。
「早く動け!」
「足が動かないんだよ!」
「お前だけでも早く戻れ!!」
「お、置いてかないでくれ!!」
思考を巡らせるほど時間が、削られていく。
余力が削られる。
階段の位相がズレていく。
――悪い循環。
何よりも――目の前の大きすぎる"障害"
半生体が、床を蹴った。
速い。
五層にいた標本みたいな敵の速度じゃない。
俺はへたり込んだ新人の前に咄嗟に出て、刃を振る。
当たる。
だが、硬い。切れない。
骨の場所が正しい。
“正しすぎる”。
この奈落は、学んでいる。
階段から差し込む光が消えかけて来た。
取り残された新人の一人が叫ぶ。
「お前らの地図が出回ったから!」
俺の中で、何かが切れかけた。
だが、言い返す暇はない。
返す言葉より、今は目の前の半生体に意識を集中するしかない。
俺は叫んだ。
「良いから這ってでも進め!」
「戻れなくなるぞ!」
半生体の攻撃をギリギリで捌きながら
新人を突き飛ばすようにして階段側に押し込んでいく。
あと少し――
一段、二段。
三段目――。
「ぐぅっ!!!」
俺は半生体の蹴りで“段差のこちら側”へ叩き出された
何度か転がり視界が、白く揺れた。
森の光が戻る。
苔の匂いが戻る。
――戻れた。
俺は空を仰ぐように寝転んだ。
腕が灼熱の鉄を押しつけられたように熱く、痛む。
あまりにギリギリだった。
顔を横にして階段の入口を見る。
揺れが止まっている。
まるで何事もなかったみたいに、
“ただの段差”を装っている。
佐伯が俺の肩に手を置く。
「……よく戻って来た」
澪が震える手と声で俺の袖口を掴む。
「……心配……しました」
新人も倒れ込んで、なんとか息を整えている。
戻れた者もいる。
こいつらの仲間で戻れなかった者がいるかは――まだ分からない。
俺は、痛む腕を庇いながら階段を見下ろした。
さっきの半生体。
あれは偶然じゃない。
以前出会ったものより、
骨格が完成されていた。
強くなっていた。
だが――
それよりも、もっと怖かったのは
狙い澄ましたかのようなタイミングで現れたこと。
俺は息を吐いて、言葉を選ばずに言った。
「……奈落には」
一拍。
「悪意がある」
佐伯も、澪も、否定しなかった。
森は静かだ。
敵も弱い。
素材もうまい。
だからこそ、誘える。
そして、噛み合う瞬間だけ――
“殺せる形”を落としてくる。
俺たちは、縦穴へ向かって撤退を始めた。
次の話は、もう決まっている。
――悪意とどう向き合うか。
そして、誰がその悪意の矢面に立つのか。
それを選ぶのは、俺たちだ。