第56話:善意の裏側
縦穴を抜け、慎重に戻って来た地上の空気は、薄かった。
肺に入るはずの空気が、どこか頼りない。
奈落から戻るたびに感じるこの感覚を、俺はまだ“慣れ”と呼べない。
誰も、すぐには口を開かなかった。
新人たちは毛布に包まれて床に座らされている。
銃は脇に置かれ、手は小刻みに震えていた。
強がる余裕すら、もう残っていない。
「……戻れたの、俺らだけです」
一人が、やっと絞り出す。
「他の二人は?」
澪が、静かに聞いた。
首が、横に振られる。
「壁が揺れて……」
「一人は、それを見に行った瞬間潰された」
「もう一人は……撤退してる最中に見えなくなった」
誰も責めなかった。
誰も慰めもしなかった。
ここでは、それが一番残酷で、一番誠実だった。
⸻
探協の医療区画は、忙しなく動いている。
救急対応。
報告書。
未帰還の仮登録。
赤い付箋が、また一つ増えた。
担当者が、こちらに来る。
「……救援、ありがとうございました」
「結果は……厳しいですね」
俺は頷いた。
“想定外”とは言えない。
「半生体が出ました」
俺は、淡々と告げる。
「以前より、完成度が高い」
「狙って来た」
担当者の指が、一瞬止まる。
「……狙って、とは?」
俺は答えなかった。
正確な言葉が、まだ見つからない。
代わりに、佐伯が言う。
「救援が来たタイミング」
「階段の切り替わり」
「新しい敵の出現」
「全部、噛み合いすぎてる」
担当者は、ペンを置いた。
「偶然では?」
「偶然にしては、完璧すぎるタイミングだった」
佐伯の声は、低い。
感情を削った、事実だけの声だ。
担当者は、深く息を吸った。
「……上には、そう報告します」
“信じる”とも、“否定する”とも言わない。
探協は、いつもそうだ。
⸻
クランハウスに戻ったのは、夜だった。
灯りはついている。
人もいる。
だが、空気は静かだ。
皆、知っている。
今日の件は「事故」では終わらない。
リーダーが、全員を前にして言った。
「情報は、まだ公には出さない」
「探協にも、同意を取った」
ざわめきが、少しだけ走る。
「今日の救援で分かったことがある」
「“帯”は、知ってるだけじゃ足りない」
リーダーの視線が、俺に来る。
「踏み方を知ってても」
「状況が一つ変われば、意味を失う」
俺は、ゆっくり頷いた。
「善意が、事態を好転させるとは限らない」
「今回の新人は、短慮だが腕は悪くなかった」
「勇気もあった」
「判断も、早い方だった」
一拍。
「でも――」
「奈落を“分かったつもり”だった」
誰かが、唾を飲み込む音がした。
⸻
会議が終わり、人が散る。
澪が、俺の横に来た。
「……あなたは」
「今日のこと、どう思いますか」
即答はできなかった。
「正しい行動は、できたと思う」
「助けに行った」
「戻れた」
「最悪は、避けた」
「でも?」
澪の声は、静かだ。
「でも――」
俺は言葉を探す。
「それでも、奈落のほうが“上手だった”」
澪が、目を伏せる。
「……助けに行ったから、出てきた?」
「それとも……」
「出てくるのを、待たれていた?」
答えは、出ない。
出ないままなのが、一番怖い。
⸻
その夜、俺は一人で天体図を広げた。
帯。
位相。
戻れた線。
戻れなかった空白。
理屈は、合っている。
再現性も、ある。
――それでも。
「“分かってる人間”を、狙ってきた」
呟いた言葉が、部屋に落ちる。
奈落は、無差別じゃない。
でも、公平でもない。
“学習”している。
助けに来る。
判断が早い。
戻れる線を持っている。
――だからこそ。
「……簡単な希望は、疑えってことか」
地図を畳む。
命をかける意味。
選んでいるつもりで、選ばされている現実。
それでも。
誰かを切り捨てて進む道だけは、選ばない。
それが、どれだけ遠回りでも。
窓の外は、静かだった。
奈落は、今日も下で蠢いている。
次は、もっと賢く。
もっと狡猾に。
――善意の裏側を、踏み躙りに来るだろう。
それでも俺たちは、降りる。
“正しさ”が、正解じゃない世界で。
それを、確かめるために。