第58話:それでも進む理由
(天城視点)
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私は、英雄になりたかったわけではない。
少なくとも、最初からそうだったわけではない。
奈落が現れた日、
世界が変わった日、
考えたのはただ一つだった。
――これは、進まなければならない。
理由は単純だ。
あの時、絶望に染まった凛花の顔が頭から離れなかった。
そして、
諦め、立ち止まった人間から、死んでいくだけと分かっていたから。
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探索者という職業が生まれ、
装備が整い、
素材が価値を持ち、
数字で危険を測れるようになった。
だが、それでも。
奈落は、何一つ優しくならなかった。
犠牲は減った。
しかし、ゼロにはならない。
それならば、
犠牲が出る前提でも進む者が必要だった。
誰かが、前に立たなければならない。
誰かが、責任を引き受けなければならない。
私は、それを引き受けようと心に決めた。
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「英雄ですね」
そう言われることがある。
そのたびに、胸の奥が少しだけ冷える。
英雄とは、
戻らなかった者の上に立つ称号だ。
日常で十人を殺せば殺人鬼。
戦場で百人を殺せば英雄。
では奈落では?
何を犠牲にし、
何を成せば、
英雄と呼ばれるのか。
答えは、まだ出ていない。
だから私は進む。
答えが出る場所まで。
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地上では、暮らしがどんどん良くなっている。
奈落素材で作られた装備。
新しい治療法。
難病の進行が、少しずつ抑えられている。
ニュースを見るたびに、
私は思う。
――進んでよかった。
誰かが救われている。
誰かが明日を迎えられる。
そして、凛花の体調が少し良くなる。
これが事実なら、
私が奈落の底に向かって降りていく意味は、確かにある。
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それでも、夜に一人になると考える。
もし、ここで立ち止まったら?
もし、引き返したら?
ここから先、失われる命は
これから先、救われる命より軽いのか。
これから先、豊かになる暮らしは
ここから先の絶望の上に実現させる価値があるのか。
答えは、出ない。
出ないからこそ、
私は立ち止まらない。
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ある時出会った、私と良く似た男は、線を引く。
戻れる可能性を残す。
誰かが生きて帰る道を作る。
それは、正しい。
だからこそ、
私とは向いている方向が違う。
私は、希望を掴める場所へ行く。
彼は、希望を持ち帰る場所を増やす。
どちらかが間違っているわけではない。
ただ、役割が違う。
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澪は、いつもその境界に立っている。
進む者と、
戻る者の間で、
線を引き続ける。
それは、私にはできないことだ。
私は、線を越える側だ。
越え続けなければならない側だ。
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犠牲が出る。
それは、分かっている。
誰かが死ぬたびに、
私の選択は間違っていたのではないかと考える。
だが同時に、
進まなかった場合に死ぬ数を想像する。
それを天秤にかけてしまう時点で、
私はもう、引き返せない。
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英雄になれなくてもいい。
讃えられなくてもいい。
理解されなくてもいい。
それでも。
奈落を進むことで、
誰かが希望を持って生きられるなら。
たとえその希望が虚構で、
誰かを絶望への道に押し出すものだったとしても。
私は、進む。
それが、
私に課された役割だからだ。
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英雄とは、
正しい者のことではない。
最後まで進み続けた者のことだ。
そう信じなければ、
私はもう一歩も動けない。
だから今日も、私は降りる。
戻れないかもしれない場所へ。
進む理由は、
もう、言葉にしなくていい。
私は、降りる。