死を悟って恐怖から目を閉じて諦めていた僕が感じたのは切り裂かれる感触ではなく、何かに倒された衝撃と、直後に僕の手に触れた何か生暖かい液体だった。
閉じていた目をうっすらと開けると、ぼんやりと人の形のような輪郭が目の前にあった。
まさか、いや、そんなはずがないと現実を直視するのが恐ろしくてそれ以上目を開けるのを無意識に拒んでいた。だけど、その人影が力が抜けたかのように地に倒れ伏して、僕は思わず目を開けてしまった。
そこには決して信じたくない、夢だと思いたいような光景が広がっていた。
胴体に向こう側がくっきり見えるほどの巨大な穴が空いており、素人目に見ても助かる余地はないと判断できるような重傷を負った仲間の姿があった。コヒューコヒューと微かな息が今にも消えてしまいそうに段々と弱くなっていて、流れ出た血が僕の足元まで流れてきた。
「エリー!!!」
痛む体に鞭を打ち、ここまで連れ添ってきた大切な仲間の元へとエリーの名前を叫びながら彼女の方へと駆け寄った。
「ライト………」
力なく僕の名前を呼ぶエリーの横に僕は座り込み、力の入っていない腕を握った。魔法使いでありながらも接近されて対応できないんじゃ終わりという考えから前衛と比べても遜色ない筋肉を持った硬い腕。普段は活力に満ちていたその腕は弱々しくぐったりと地面にしな垂れていた。
「何で……何で僕を庇ったんだ」
僕を助けようとしければエリーはこんなことにならなかったはずだ。ひょっとしたら僕を殺したらそれで満足して、奴は君には手を出さなかったかもしれない。エリーが僕を助ける理由なんてなかったんだ。
「そんなの……決まってるでしょ……あなたが……好きだからよ」
ガツン、と頭を鈍器で思いきり殴られたかのような衝撃を受けた。エリーが、僕を好き? 疲労と衝撃で頭がうまく回らない。ぐるぐるとエリーが今言った言葉が繰り返し僕の中で響いていた。
「やっぱり、気づいてなかったのね……」
エリーはいつも僕がうっかりを笑かした時のような苦笑をした。思い返せば、エリーが僕を好いてくれているような素振りはないでもなかった。きっと僕は今の関係が心地よくて気づかないようにしていたのだろう。
でも、こんなことになるんだったらエリーの気持ちを受け止めておくべきだった。
「ごめん……ごめん……!」
「ううん、大丈夫。あなたと、みんなと過ごした日々は……これまでの人生で、一番幸せな時間だった。」
「待って! 待ってよエリー……!」
君を死なせてしまったら、怪我で一時離脱しているレイラとベルクに顔向けできない。みんなで魔王を倒して世界を救おうって約束したじゃないか。世界を救った報酬でみんなで馬鹿騒ぎしようって夢を語ったじゃないか。
なのに、なのに、こんなところでエリーがいなくなるなんてダメだよ。エリーも揃ってないとだめだよ。
「魔王との戦いには……私は、行けそうに、ないね。」
「ダメだエリー! 君もいなくちゃ僕らはダメだ! 君なしで勝てるわけがない!」
僕たちは四人で一つだ。一人でも欠けたら絶対に上手くいかない。今回だってレイラとベルクが一時離脱しているから偵察をするだけのつもりだったんだから。四人が揃っていないうちに危険は犯さないのが僕たちの約束だった。
「きっと、みんななら大丈夫……魔王を、倒せるよ……。」
「そうだ! だからエリーも一緒に!」
この現実を否定したくてそんなあり得ないことを口にする。エリーを失うなんてとてもじゃないが耐えきれない。
「……ごめんね、もうお別れ。自分のことは……自分が、一番よく分かってる。だから……最後に、みんなに一言ずつ言うから……二人にも伝えて……。」
エリー本人からそう言われて、僕はようやくエリーが死ぬという現実に目を向けた。今すぐにでもみっともなく泣き喚きたかったけど、それはエリーのことを考えると我慢するしかなかった。だって最後に見るのはそんな悲しい顔じゃなくて笑顔だと思ったから。
気を抜けばすぐに泣いてしまいそうな顔でも無理矢理笑みを浮かべ、エリーの言葉を待つ。きっと上手く笑えていないんだろうなと肩を震わせて、雨も降っていないというのにできた水溜りを見つめている。
「まずは……レイラに……。体調には、気をつけて……ずっと幸せに……。次に……ベルク……。さっさと、素直にならないと、持ってかれるよ……って。」
「ああ……! 分かった……必ず伝えるよ……!」
「それと……最後に、ライト。」
そしてついに僕の番。正直なところ何を言われるのかと怖くてたまらない。仲間からの最後の言葉なんて、聞きたくもない。だけど、僕はしっかりと受け止めなくちゃいけない。エリーのためにも前に進まなくちゃいけない。
「ライトと会ったのは……私が一番最初で、二人きり……で、過ごした時間も、あったよね……。それから、しばらくして……二人が仲間になったけど、あなたと二人きりに……なれる時間は、違う気持ちが湧いて、幸せだった。」
それはつまりそういうことなんだろう。この後エリーが言うことにも想像がつく。
「ねえ……ライト……。必ず、魔王を倒してね……私の勇者様……。」
「ああ……分かった。」
きっと成し遂げてみせるよ。君から託されたのだから。
「最後に……一言だけ。」
きっとこれが最後だ。エリーと話すことができるのは。
「ライト、私は、あなたのことを——」
愛しています。
きっと、エリーはそう言おうとしたのだろう。エリーが僕のことを好きだということと、話の流れからそうだと推察できる。だけど、エリーがその言葉を紡ぐことはなかった。
だってもうエリーは口を開くことができなくなっていたから。
真っ赤に熟れた完熟のトマトを潰すかのように、腐った蜜柑を潰すかのように、エリーの頭は踏み潰されていた。
待って、待ってくれ。行かないでくれと叫びたかった。だけど僕の口は石になったかのように動かない。その言葉を発することができなかった。心が軋む。
顔を上げて、エリーを踏み潰した奴を見上げる。
エリーの腹に穴を開け、頭を踏み潰した奴の顔は嗜虐心が満たされたとでもいうかのような醜悪な容貌だった。頭蓋が割れて溢れ出た脳漿をグリグリと足で弄び、僕に向けていやらしい下卑な笑みを向けてくる。
ああ、こいつは人を絶望させるのが好きなんだ。僕がエリーを失って絶望に呑まれるところが見たかったんだろう。だからこのタイミングで現れた。最初の攻撃も僕が死ぬまでにはしばらく時間がかかる傷を負わせるものだっただろう。それはきっと力尽きて死んでいく中で仲間が死んでいくのを何もできずに見ているだけという状況を作りたかったからだろう。
このタイミングで現れたのはエリーの告白という一番大事な場面を台無しにするためだろう。ああ確かに僕を絶望させるには最も効果的なタイミングだ。
どこかぼんやりと靄がかかったような頭の中でそんなことを考える。エリーが死んだというのにやけに冷静じゃないかと思うかもしれないが、これはただ茫然自失となることをこれまでの経験が許さないだけだ。
勇者として僕はいつだって生き残ることを求められていた。人類の希望である勇者死んだらそれこそ世界の終わりだから。それゆえに僕の頭はこんな状況でも回り続ける。だけど考えるのはコイツを殺す術でも、生き残る術でもない。ただエリーが死んだという状況を理解するためだけに動いていた。
「カカカカカカ!」
エリーを殺した仇が僕を嘲笑う。仲間を助けることもできず、多くの人から託された願いを叶えることもできずに死ぬ僕を笑わずにはいられないのだろう。
確かに僕はもう心が折れてしまっている。エリーに僕の想いを伝えることもできずに終わった時に既に絶望してしまっている。きっと僕はもう戦えない。
だけど、僕の体は僕の意思に反して動き出していた。
エリーに勇者と呼ばれ、託されたからだろうか。それとも、勇者としての使命感からだろうか。あるいは、エリーを殺したコイツを殺してやりたいという殺意からだろうか。
きっと、そのどれもだろう。
僕の大切な仲間を殺したコイツが憎い。
勇者としてこいつは倒さなくてはいけない。
エリーの勇者は恥じぬ行いをせねばならない。
そんな考えが僕の剣を握る手に力を入れた。膝がガクガクと情けなく笑っているのは自覚しながら立ち上がり、敵を正面から睨む。
なるほど、確かに恐ろしい容貌だ。光を反射することなく全て吸収する深黒の体色は得体の知れなさを感じさせる。天を突くかのように上へと捻じ曲がりながら伸びた二本の角。一般人であれば近づいただけで命を落とす程の濃い瘴気を身に纏い、僕の身長を優に越す巨大な体躯。煌々と妖しく光る真っ赤な瞳は血を連想させる。
だけど、何を恐れることがあるのだろう。エリーを失ったことに比べればこんな恐怖、屁でもない。
勇者に与えられた聖剣を腰横に構え、過剰なまでに光の魔法を込める。普通の剣であれば僕の魔法に耐えることはできずに壊れるが、聖剣であれば耐えることができる。
剣を振る。
瘴気を祓い、呪いを掻き消し、闇を暴く。
恐怖はとうに消えていた。今あるのは目の前の敵を倒さなくてはならぬという決意のみ。
無造作に振るわれる爪を剣で側面を叩き方向を変える。両腕を真上にかち上げガラ空きにした胴体へと吸い込まれるようにして剣閃が煌めいた。深黒が薄れて灰色に変わった。
そして即座にその場から離脱。一撃でも貰えば死ぬことは必定であるため、長く敵の間合いに留まることはしない。ヒットアンドアウェイの戦法で立ち回る。
極大の魔力が敵の口内に収束していく。脳裏に浮かぶのは竜の姿。その最大の攻撃手段であるブレス攻撃だ。
強化した足で大地を軽く蹴り、敵に接近する。あのブレスを放たせるのは不味い。放たれる前に防いでみせる。
特殊な歩法で彼我の間にあった距離を一瞬でゼロとし、敵の懐へと潜り込む。さしもの敵もこれは予想外だったのか面食らっている。そんな敵の様子を知ったことではないと気にすることなく顎に向かって拳を振り上げた。
収束されていた魔力の塊が外部から衝撃を受けたことで制御から離れ暴れだす。敵の口腔内で暴れ狂った魔力は即座に爆発した。固く閉じられた口から魔力が溢れ出すことはなく僕には影響を与えない。つまりはそれだけ傷つけるのも困難だということだけど、倒せない敵なんて存在しない。
よく分からないうちに封印から解放されていた、伝承にも残っていない得体の知れない怪物だけど無敵ではない。攻撃を続けていればそのうち倒れるはずだ。
そんな僕の考えは、淡く現実味のない希望だったとすぐに思い知らされた。
敵の姿が少しぶれたように見えた。そして僕の体が斜めに斬られたのは同時だった。
傷は深い。体を両断されるとまではいかなくても、肩から腰にかけて袈裟に骨の深さまでいかれている。僕の体は神に祝福されているからどんな傷でもすぐに治るはずなのだが、濃い瘴気に傷口が包まれて再生を阻害されている。本当にいやらしい攻撃だ。
多分だけどやろうと思えば今の一撃で僕の体を両断して終わらせることは簡単だったはずだ。つまるところ、この敵は僕を脅威だとは認識していないのだろう。ただ自分の嗜虐心を満たすための玩具みたいなものだと思っているのだろう。
だけど、その考えが命取りになるんだ。勇者には追い詰められれば追い詰められるほど強くなるという能力がある。死が近づくほどに速く、堅く、力強く、強靭に。勇者が死ぬなんてことはあってはいけないからこその能力だ。重傷を負っている今の強化率は言うまでもないだろう。
力が漲り今まで感じたこともないような全能感に満たされる。こんなことならエリーが受ける必要なんてなかったんじゃないかと頭によぎるが、今だけはそれを無視する。エリーの死を嘆き悲しむのも、後悔するのも全部コイツを殺してからだ。
敵の姿が再びブレる。だけど強化された僕の目は容易くその動きを捉えていた。敵は鋭利な爪を先ほどつけた次とは逆向きに振るってきていた。このまま食らってしまえば僕の体には×字の傷ができていただろう。結局はそれも僕をおちょくるためのものなんだろう。
でも、そうはならない。聖剣を振り上げて敵の爪に接触する。あわよくば斬り落とせないものかと思っていたがそう甘くはないらしい。それでも敵の腕を上へと跳ね上げることには成功した。
驚愕の表情を浮かべているだろう敵に向けて追撃の剣を振るう。光の魔法を過剰なまでに込めた聖剣でも体皮を斬り裂けないのであれば、攻撃が通りそうな箇所を狙うだけだ。
炯々としている瞳に向かって剣を思い切り突き出した。瞼を閉じるよりも尚速く眼球へと僕の剣が突き刺さる。グチャリ何かを潰したような感触がした。やっぱり体皮とは違って目はそこまで硬くないらしい。
敵の体がぶるぶると震え始めた。なんだ、何が起こるんだ。
「カアァァァァァ!!!」
絶叫。膨大な音量が僕の鼓膜を叩き、空気を震わせる鼓膜が破れ、殆ど音が聞こえなくなる。だけどそれも一瞬のこと。破れた直後には再生が始まり、一秒も経たずに完治する。
———効いている。
さしもの化け物とはいえ眼球に思い切り剣を突き刺されては堪らないらしい。ああよかった。これでコイツを殺す算段がつく。無敵ではないのなら勝てる。
突き刺した剣を捻るようにして引き抜く。少しでもダメージを与えられればいいなという考えからの動作だが、思っていたよりも効果はあったらしい。引き抜いた目から見るものを不快にさせる至極の色。止めどなく流れ出る液体は大地に滴り落ち、大地を容易く溶かした。
体からは全てを蝕む瘴気を発し、体液は全てを溶かす。まさしく化け物だ。
「みんな、僕に力を貸してくれ。」
今までの旅の記憶を思い起こす。
僕が勇者と判明しても変わらず接してくれた村の人たち。世界を救ってこいと笑って送り出してくれた母さんと父さん。ともに旅をしてきたレイラとベルク。各地で出会った心優しい人たち。
そして、エリー。僕を愛してくれた人、いつもそばにいてくれた人。
エリーに勇者と呼ばれた。みんなに願いを、希望を託された。だから僕はコイツを倒さなくてはいけない。
僕の思いに聖剣が呼応する。みんなから受け取った想いが僕に力を与えてくれる。聖剣がこれまでにないほど光り輝き、その姿を変える。やっと聖剣は僕を真に主だと認めてくれたらしい。認めてくれるのが遅すぎるよ。でも、そうだね。これでエリーにも自信を持って僕が勇者だと言える。
一閃
化け物敵の右腕に細い線が走り、ずるりと落ちた。一拍おいて切り口から至極色の血液が勢いよく噴出する。敵は叫ばない。動きを止めて斬り落とされた右腕を信じられないものを見るかのように見つめている。
だけど無理もない。先程まで容易く弾くことができていた剣が突然自分の腕を斬り落としたのだ。
僕はその隙を見逃すほど甘くはないし、そんな余裕もない。左腕を切断し、続いて右足、左足と順々に四肢を落とす。行動不能に追い込んだが、この敵は当然のように再生能力も有している。瞬く間に四肢が再生し、僕を襲う。
しかし再生という余分な動作が挟まれたことでその動き出しは遅い。僕は背後に回り敵の首に剣を振るう。基本的な生物であれば首を落とせば死ぬはずだ。その考えから首を狙ったが、剣は半ばまで食い込んで止まってしまった。
反撃が来る前に剣を引き抜き敵の体を蹴り飛ばして背後に跳ぶ。目の前を黒色が通り過ぎた。今後ろに引かなければ当たっていただろう。油断はできない。
腕や足であれば容易く斬り落とすことができたが、首を一撃で落とすことはできなかった。それだけ首は強固に守られている。だが、それは裏を返せば首を落とされるのは不都合だということ。弱点というのは守りを厚くしてあるものだ。つまりあの首は間違いなく弱点なんだろう。
それがブラフである可能性は捨てきれないけど、ひとまずの方針は決まった。如何なる手段を用いてもあの素首を斬り落とす。
確実に一撃で首を落とすために剣に在らん限りの魔力を込め、聖剣が軋んで震える程の負荷をかける。
敵の方を見ると体から勢いよく噴出していた瘴気が徐々に止まり体の中に留まり始めた。黒色が深くなる。光が飲み込まれてしまうような漆黒。敵も本気だということだろう。
一瞬の静寂。
僕と敵の姿が掻き消える。直後、激しい衝突音が高く響いた。
僕の眩しいほどに白く輝く聖剣と反対にその光を全て飲み込むような敵の爪がせめぎ合う。先程まではこれで斬れていたはずだけど、それはできないらしい。
残った手が僕へと振るわれる。それを僕は聖剣を使って弾き飛ばす。しかし荒々しい獣のような連撃は止まらない。一発一発が重く当たれば致命傷となる攻撃を聖剣を使ってなんとかいなす。
パキリ、とこの場に似つかわしくない音がした。敵の爪を見ると、細かいヒビが入っていた。
———これなら砕ける。
確信をもって振るった剣。敵の爪と衝突して火花が散る。
「はああああああ!!!」
ピシリ、と音が段々と大きくなる。
パキリと音を立てて折れたのは敵の爪ではなく僕の手に握る剣の方だった。
「——————え?」
神から授けられた不壊の剣。その剣が折れたというあり得ない事実を前にして僕の思考と動きはフリーズする。
何故? その疑問が僕の頭の中を覆い尽くす。気づけば僕は青空を見上げていた。
青色の中に黒色が侵食するように現れる。
ニヤリと目の前の黒色が嘲笑うかのように顔を歪めたように感じた。大口を開けて笑った。黒が指先に灯る。生物の本能からくる恐ろしさからその黒に視線が向かう。何か、途轍もなく嫌な予感がした。止めなくてはならない。その一心で体を動かそうとするが、金縛りにでもあったかのように動かない。
黒の灯火が忽然と姿を消した。どこへ行ったのだと首を動かして周りを見回す。だけどあの黒色はどこにも見当たらない。
大地が揺れる。地の底から響くような揺れ。こんな時に地震でも起こったのだろうかと考えたが、視界に映る黒の様子からそれは間違いだと分かった。いったい何をしたのだろうか。
この揺れの発生地点を探る。感覚を研ぎ澄ませばどの方向から揺れが伝わっているのかは簡単にわかる。そして、分かってしまうがために僕は絶望した。
「レイラ! ベルク!」
揺れは怪我で療養している二人がいる街の方から来ていた。そして僕の耳に声なき声が届く。瘴気に侵され苦しむ人々の声。生き絶える際に発した絶望の声。そのどれもが僕の耳にはっきりと聞こえてきた。その中でも一際大きな声が二つ。
レイラの苦しむ声が響く。
ベルクの叫びが木霊する。
僕は思わず耳を塞いだ。これ以上二人が苦しむ様子を知りたくなかったから。二人は強いから瘴気にも耐性がある。だけどなまじ耐性があるがために筆舌に尽くしがたい苦しみを味わっている。耐性がなければその苦しみは一瞬で済んだ。瘴気に侵され死ぬという残酷な終わり方だとしてもこんな声を上げることはなかった。
僕のせいだ。
偵察なんて提案してこの封印から解き放たれた化け物に目をつけられたからエリーは死んだ。
僕のせいだ。
僕がこの化け物にエリーを殺された怒りから襲いかかって負けたからレイラとベルクは今瘴気に侵され苦しんでいる。
僕のせいだ。
僕が弱かったからなんの罪もない大勢の人が殺された。
僕のせいだ。
あれもこれも、全部僕のせいだ。僕が強ければ誰も死なせることはなかった。だから、僕は勇者なんかになるべきじゃなかったんだ。僕みたいな弱い人間じゃなくてもっと相応しい人が勇者になるべきだった。今からでも誰か他の人に勇者を託したい。でもそれも、僕が聖剣を折ってしまったから叶わない。聖剣が折れてしまったら次の勇者に繋ぐことすらできない。僕は、何もできなかったんだ。
脳が揺れて鼓膜が破れるかと思うくらい響いていた声が段々と小さくなっていった。それが何を意味するかは僕が一番分かっていた。レイラとベルクの死。それが僕の心に重くのしかかる。
ねえ、エリー。僕は勇者じゃなかったよ。誰かを救える人になれなかったよ。君が勇者と呼んだ僕は本物じゃなかったよ。
怪物が地に伏している僕を見下している。何もできなかった無力な僕を笑っている。ああ、これで僕は死ぬんだなあ。もう僕には迫り来る死に抵抗する気もなくなっていた。もう諦めていた。だってもうどうすることもできないじゃないか。戦う意味がないじゃないか。
怪物の掌に先に放った瘴気の球が生成される。
きっと僕はみんなよりも苦しむだろう。勇者の瘴気への耐性は他の人とは比べ物にもならない。でも、それでいいんだ。勇者になれなかった偽物は苦しんで死ねばいい。
瘴気が放たれる。それが僕に迫ってくるのを眺めていた。時間がゆっくりと流れているように感じる。そして僕の脳内に走馬灯が流れ出す。一説によると走馬灯は死から逃れる方法を記憶の中から探しているらしいけど、すでに死を受け入れている僕には関係のない話だ。
頭の中で流れるこれまでの思い出を噛み締めながら自分へと迫る死を呆然と受け入れている。
殆ど時が止まったようなこの世界で、僕は忌々しい敵の姿を見る。光を反射することなく全てを吸収する悍ましい黒。ただ一つコイツに言いたいことがあるとするならば———
「地獄に落ちろ。」
シャン、と鈴の音が響いた。鈍い銀色の光が天から一筋降り落ちた。天からの使いが僕をあの世に連れて行くのだろうかと思った。
黒色がズレた。
全てを呑み込む黒色に一筋の細い白線が奔り、真ん中から光が溢れ出した。僕の顔に白い線が描かれてそこだけ切り取られてしまったような気がした。
黒が左右に割れて地面に倒れた。あれほどの威圧感と存在感を放っていたはずの黒は物言わぬ死体となっていた。
黒が立っていた場所の後ろ、つまり僕から見て正面に誰かが立っていた。ぼんやりとした僕の視界ではその人の顔を見ることは叶わないため、男か女か、その他全てのことが判別できない。
「辛うじて間に合ったってとこか。立てるか?」
僕に手が差し伸べられる。間違いなく僕の命を救ってくれた恩人に対して僕が抱いたものは感謝ではなく恨みだった。
あの怪物を一太刀で討滅してみせたこの人がもっと早くきていれば誰も死なずに済んだんじゃないか? 街の人たちが殺されることはなく、レイラとベルクが苦しむことはなかった。……それに何より、エリーが死ぬことだってなかった。
この人がもっと早く駆けつけていたら、ここにいたのが僕ではなくこの人だったら、そんな理不尽な怒りをこの人に抱いた。
何で! 何で!!!
分かっている。この人には何の非もないと。だけどそれでも、僕は自分の弱さと無力さから目を逸らしたいがためにこの人を恨む気持ちだけを大きくしていた。
怒りに任せて立ち上がり、胸ぐらを掴んでやろうと一歩を踏み出して、僕の視界は暗転した。一瞬で濁流のようにしてこれまでの思い出が頭の中に流れ込み、最後にエリーの顔が浮かんだところで僕の意識は完全に途切れた。
彼との出会いはそんな最悪なものから始まったのだった。
続かない