まな板の上で、包丁が軽やかな音を刻む。
トントントン、と一定のリズム。冷えたネギが輪切りになり、瑞々しい断面から独特の鋭い香りが鼻をくすぐる。
次に卵を二つ、ボウルの縁で割る。パカッという小気味よい音。黄色い中身を箸で切り混ぜるように解きほぐし、出汁と少量の醤油、砂糖を加える。
熱した卵焼き器に薄く油を引くと、ジュワッという弾けるような音が上がり、甘辛い湯気が一気に視界を白く染めた。
「……いい音だ。……料理ってのは、戦場よりずっとリズムが重要らしいな」
いつの間にかダンテがキッチンのカウンターに肘をつき、俺の手元を眺めていた。
「……ああ。……余計なことを考えずに済む。……お前も何か手伝うか?」
「よしてくれ。……俺がやれば、その綺麗なキッチンがトマトソースの海に沈むことになるぜ」
ダンテはそう言って笑うと、冷蔵庫から真っ赤なアルミ缶を取り出した。プルタブを引く快音。シュワァ、と弾ける炭酸の音が、和食の香りで満たされたキッチンに不釣り合いなほど鮮烈に響く。
「……相変わらず朝からコーラか。……体には毒だぞ」
「毒、か。……ま、俺の家系は昔から飲み物にはうるさくてね。……親父はコーラもコーヒーも好きだったが、お袋は気品溢れる紅茶派だった。……おかげで実家の食卓は、いつも香りの戦場さ」
卵を巻き終えた俺は、ふと手を止めた。
ダンテが自分の家族について話すのは、これが初めてだった。
「……意外だな。……お前がコーヒーを嗜む姿が想像できない」
「ハッ、俺も昔はそう思ってたよ。……だが、あの口やかましい兄貴のせいだ」
ダンテはコーラを一口飲み、遠い目をして続けた。
「バージルっていうんだがね。……そいつがまた、コーヒーの淹れ方一つに魂を込めるような堅物でさ。……ある時、隣でコーラを飲む俺にキレやがった。『貴様のその下俗な甘味料の匂いは、豆の芳香を汚す』……だとよ」
ダンテは苦笑しながら、棚の隅に置いてあった古いコーヒーミルを指差した。
「それ以来、特訓と称してコーヒーのいろはを叩き込まれた。……温度、挽き具合、蒸らしの時間。……少しでも間違えれば、刀の柄で小突かれる。……おかげで不本意ながら、どんな一流のバリスタよりも完璧な一杯を淹れられるようになっちまった」
「……。お前の兄貴は、マキマさんよりも厳しそうだな」
「あんなのが二人いたら、俺は今頃、地獄の底でストロベリーサンデーを自作してるだろうよ」
ダンテはそう言って、カウンターに置いてあった俺のドリッパーを手に取った。
彼の大きな手が、まるで精密機械のように、そしてどこか慈しむようにコーヒー豆の袋に伸びる。
「……たまには、兄貴の教育の成果を披露してやるよ。……お兄さん、あんたのその渋い茶の代わりに、最高に不味くて、最高に美味い泥水を飲ませてやる」
ガリ、ガリ、と豆を挽く鈍い音が響き始める。
それは、俺が今まで聞いたどんなコーヒーミルの音よりも、重厚で、確かな存在感を放っていた。
⭐︎
ダンテがハンドルを回すたび、ミルの隙間から零れ落ちるコーヒーの粉は、驚くほど均一に整えられていた。その指先の動きには、彼が普段見せる粗野な振る舞いからは想像もつかない、研ぎ澄まされた繊細さが宿っている。
「……随分と手慣れているんだな。そのバージルという兄さんは、よほど厳格な人だったのか」
俺が卵焼きを皿に移しながら問うと、ダンテはふっと口角を上げた。だが、その瞳に宿ったのは、いつもの茶目っ気ではなく、冷たい刃の輝きにも似た追憶の色だった。
「……厳格? ハッ、そんな生易しいもんじゃない。……あいつは『力』こそがすべてだと信じて疑わない男だった。……コーヒーの淹れ方一つ、抜刀の一撃一つにいたるまでな。……完璧でなければ、存在価値がない。そう本気で思っているような奴さ」
ダンテは挽き終えた粉をドリッパーに移し、細い注ぎ口のポットを手に取った。
沸騰してから一呼吸置き、適温まで下がった湯を、円を描くように静かに落とす。粉がふっくらと膨らみ、濃厚な、しかしどこかツンと鼻を突くような気高い香りが立ち上がった。
「……。俺も、刀を使う。……その兄さんは、どんな戦い方をするんだ?」
俺の問いに、ダンテの手がわずかに止まった。
「……。あいつの獲物は、親父から受け継いだ一振りの日本刀……『閻魔刀(ヤマト)』だ。……お兄さん、あんたも刀を使うから分かるだろうが、あいつの居合は次元を切り裂く。……目にも留まらぬ速さで、鞘から放たれた瞬間に、すべてが終わっている。……美しくて、反吐が出るほど残酷な剣筋だ」
次元を切り裂く。その言葉に、俺は自分の腰にある釘の剣を意識した。
俺が使っているのは、命を削る契約の刃だ。美しさなど微塵もない、ただ復讐のために泥水を啜るような戦い。
「……。俺には、弟がいた」
無意識に、言葉が口を突いて出た。
コーヒーの香りが、記憶の奥底に眠る雪の日の匂いを呼び覚ます。
「……。身体の弱い弟だった。……あの日、俺が家に戻ってキャッチボールをしようと言わなければ、あいつはまだ生きていたかもしれない。……俺は、弟を守れなかった兄だ」
包丁を握る手に、力がこもる。
失った家族の温もり、雪の上に散った血の赤さ。俺の人生は、あの日から止まったままだ。
ダンテは湯を注ぎ終え、滴り落ちる琥珀色の液体をじっと見つめていた。
「……守れなかった兄、か。……皮肉だな。……俺は、兄貴を止めることしかできなかった弟だ」
ダンテの声は、低く、重い地響きのように俺の胸に届いた。
「……あいつは力を求め、俺はあいつの暴走を止めるためにリベリオンを抜いた。……何度も殺し合い、何度も地獄へ突き落とし合った。……血を分けた兄弟だってのに、言葉を交わす代わりに刃を突き立てることでしか、互いの存在を確認できなかったんだ」
ダンテはポットを置き、二つのマグカップを差し出した。
一つには、漆黒のコーヒー。もう一つには、冷蔵庫から出したばかりのコーラが注がれている。
「……あいつに教え込まれたコーヒーは、今でも喉が焼けるほど苦い。……だが、それを飲む時だけは、あいつが隣で不機嫌そうに本を読んでいるような気がしてな。……柄にもなく、コーラを飲むのが少しだけ後ろめたくなるのさ」
ダンテが手渡してきたコーヒーを受け取る。
指先から伝わる熱が、冷え切っていた俺の心をわずかに解かす。
「……お兄さん。……死んだ弟のために復讐を誓うのも、地獄に堕ちた兄を想うのも、結局のところ、俺たちは『家族』という呪いに縛られた似た者同士なんだろうよ」
俺は何も言わず、差し出されたコーヒーを啜った。
喉を通る液体は、ダンテの言う通り、驚くほど苦かった。
だが、その苦みの後には、鼻に抜けるような深い余韻と、言いようのない安らぎが残った。
ふと視線を上げると、ダンテがコーラの缶をカチンと俺のマグカップにぶつけてきた。
「今日くらいは、その渋い茶の代わりに、この苦味を楽しめ。……いい朝だろ?」
窓の外では、朝日が完全に昇り、街の騒音が色濃くなり始めていた。
俺たちの間に流れる沈黙は、もはや居心地の悪いものではなくなっていた。