公安対魔特異4課、その最深部。マキマの執務室は、あらゆる外界のノイズを拒絶した沈黙の檻だ。
室内の空気は常に一定の温度を保ち、デスクに置かれた書類の端一枚に至るまで、彼女の意志という見えない糸によって「正しい位置」に固定されている。支配の悪魔。その名が示す通り、この部屋において彼女の許可なく動くものは、空気中に漂う塵の一つさえ存在しない。
マキマは椅子に深く身体を預け、組んだ指の上に顎を乗せていた。その視線は、窓の外に広がる冬の東京を捉えているようでいて、実際にはもっと遠く、因果の糸が複雑に絡み合う「未来」という名の設計図を眺めている。
彼女の瞳――幾重もの同心円が刻まれたその特殊な双眸には、今朝、早川家で行われた奇妙な幕間劇が克明に写し出されていた。
「……。ダンテ。やはり、イレギュラーだね」
独り言のように漏れた声は、感情の起伏を一切排した、事実のみを記録する無機質な響き。
マキマにとって、この世界のほぼすべての存在は「自分より程度の低いもの」として、支配の回路に組み込まれる。しかし、ダンテという個体だけは、その回路を流れる電流が一度も届かない。彼は、恐怖という名の足がかりを持たず、羨望という名の隙も見せない。ただ、一振りの抜かれた剣のように、その存在そのものが完成している。
今朝、彼が早川アキに語ったという「兄」の断片。
そして、その記憶から抽出された、あまりにも気高く、重厚なコーヒーの芳香。
それらはマキマにとって、計算式の中に突如として現れた、解(かい)を持たない数式のようなものだった。
「……。家族という概念を、彼は『呪い』だと言いながら、同時に『自分を形作るもの』として受容している。……。興味深いな。人間に似た情緒を持ち合わせながら、その核にあるのは、この世界のどの悪魔とも違うエネルギーだ。……。彼は『力』を求めているのではなく、ただ『あるべき姿』で在り続けようとしている」
マキマはデスクの端にある、一口もつけていないコーヒーカップを見やった。
彼女にとって、食事や飲料を摂取することは、ただの肉体維持の記号に過ぎない。しかし、ダンテがそこに「思い出」や「教育の成果」といった、人間特有の不合理な情緒を持ち込むことで、早川アキという彼女の忠実な『犬』が、微かに、だが確実に揺らぎ始めた。
アキがダンテに剣術を乞うたという事実。
それは、マキマが与える「公安としての力」や「契約悪魔の力」ではなく、ダンテという異界の怪物が持つ、血の通った『技』を求めたということだ。
「……。絆という鎖を使って彼を繋ぎ止める。……。それは彼を制御し、観察するための最善の策だと思っていたけれど。……。逆に、私の管理下にある駒たちが彼に浸食される可能性も、今後の変数として考慮しておくべきかな」
マキマは細い指先で、デスクに置かれたダンテの調査報告書をゆっくりと閉じた。
その報告書の中身は、特異課の精鋭たちが命懸けで集めた情報であるにもかかわらず、本質的には白紙に等しい。彼の弱点も、彼を屈服させるための対価も、何一つ記されていない。支配の悪魔の完璧な地図の中に穿たれた、小さく、しかし底知れない『穴』。それがダンテだった。
「……。いいよ、ダンテ。……。あなたがアキ君やデンジ君に何を教えようと、最終的にすべての糸を収束させるのは私だ。……。あなたがその赤き剣で、私の描く完全な円をどう歪めるのか。……。あるいは、歪めることさえできずに、私の世界の一部として塗り潰されるのか。……。それを最も近くで、楽しませてもらうことにしよう」
マキマは立ち上がり、ハンガーに掛かっていた黒いコートを手に取った。
彼女の微笑みは、聖母のような慈愛を湛えているようでもあり、同時に、屠殺場へ向かう家畜を見守るような絶対的な断絶を含んでいた。彼女にとって、理解し合えない孤独などは存在しない。ただ「理解し、支配する対象」か、「排除するゴミ」か、その二色で世界は構成されている。
彼女のヒールの音が、静まり返った廊下に、一定のリズムで響き始める。
その規則正しい音色は、運命という名の歯車が回転する音のようでもあり、新しい獲物を手に入れた観察者の、静かな足取りのようでもあった。