尸条書。またの名を中国語版ネクロノミコン。とある狂人が宇宙根源的怪異についてアラビア語で記した書を原典とする魔導書、その写本である。
これは俺が否定したかった『我等』が同胞の痕跡を如実に示す証であり、この世界もまた同胞の手が及ぶ場所である事の証明。それは即ち、この世界が単純には俺の安寧の地となりえない事を意味する。
「……成程、凄い魔導書のようだ」
「でしょう? 一通りの仙術から、其処らの書には載っていない異国の叡智までが記されているのよ」
表面上は冷静を保ったまま、興味深そうな声を出して青娥に答える。
しかし得意気に尸条書の凄さを語る彼女には悪いが、とても話に相槌を打てる状況ではない。『我等』の神話がこの世界に存在すると言う事に、背筋を冷たい汗が流れる。
以前に『我等が主』の影響力はこの世界にも存在しているのであろうと予測していたとは言え、宇宙根源的怪異に関わる禁忌の叡智が書として明確に記されていると言う事は、同胞が確実にこの世界に存在する事を示すのだ。
……人間として生きる事を選んだ俺にとっては、同胞など存在していて欲しくは無かった。ただ、こうして真実を知ってしまった以上は逃避する訳にもいかない。どれほど禁忌の叡智が世界に広まっているのかを調べ、可能な限り管理または排除する。
それがこの世界において最も禁忌の叡智に触れている『人間』である俺の役目だろう。
「そんな凄まじい書を教本にするとは、君の言う道教に興味も湧いてきたな」
「あらあら、やっぱり私に弟子入りします? これでも数百年以上を生きた仙人として、仙道を学ぼうとする者に修行を付けるのは吝かではありませんわ」
「……弟子入りするとまでは言わんが、その書を貸して欲しい。その内容には興味が有るし、そこから更に深入りしたくなったら君を頼ろうと思う」
とりあえず今すべき事は、尸条書の記述と青娥がどの程度禁忌の叡智に触れているかの確認だ。
少なくとも尸条書は交渉して回収、それが叶わなければ記述の改変は行っておきたい。無理矢理奪う事も選択肢には入れておくが、それは最終手段だろう。できれば穏便に解決したい。
「別に構いませんわ、この書に触れたら田澤さんもきっと道教の素晴らしさ、仙術の極致に心奪われる事でしょうね。ふふふ、楽しい旅になりそう」
青娥に最低限の妥協を覚えてもらったら速やかに離れようと思っていたが、こうして思わぬ形で縁が出来てしまうとは。
本当ならば、そもそも『我等』の神話に関わるような形の縁など結びたくは無かったのだが……つくづく、旅とはどのように転がるか分からない物だ。
「……さて、話は変わるけど。田澤さんは、次は何処へ行くつもりだったのかしら? 貴方に任せるわよ」
「妥当に近くの村を目指す。とは言っても山の麓の森を抜ける必要が有るとの事だし、今日は森付近に到着したら野宿だな」
話を変えた青娥が次の目的地を聞いてくる。その奔放に過ぎる性格の割りに意外と言うべきか、旅の道程自体は俺に素直に従ってくれるらしい。……まあ、俺の旅に同行すると言う名目なのでそうでなければ困るのだが。
そして俺一人ならば不眠不休で進み続けるのだが、同行者が居る以上それは止めて夜毎に休憩を取るべきだろう。青娥も仙人と言う事は錬丹術による肉体の強化等は行っている筈だし、見た目程か弱くもないとは思うが常識としての配慮だ。
他愛の無い会話をしつつ、ひたすらに足を進めていく。
「野宿ねえ。まさかさっきの村でしていたように野晒しで眠る気なの?」
「あれは君が呼び寄せた男達に併せただけで、普段はあんな過酷な睡眠は取らない。簡易な寝具を持ち運んでいるから、それを使う」
「持ち運べる寝具? それは中々面白そうですけど……私が仙術で空間を繋げば簡単に雅やかな寝床が出来ますのよ」
俺がテントについて軽く言及すると、青娥は何故かしなを作りながら提案してきた。
確かに『夢』に踏み込んだ時に見た空間は桃源郷とも言える雰囲気に満ちていたので、そこに寝床が出来ると言うのならさぞかし高貴な屋敷でも用意してあるのだろう。
そうなると、俺としても心動かされる物が無いとは言い切れない。テント泊も旅の風情が有って好きだが、一度くらいはそう言った場所で横になってみたいと言う気持ちは有る。
しかし……何と言うか。この青娥の態度からして、素直に足を運んでも厄介な事になりそうだ。
「俺は遠慮しておく。一応君の分の寝具も有るが、嫌なら其処で休んでくれても構わんぞ」
「どうせなら貴方も休んでいけば良いのに。……閨でしっとりと交友を深めてみない?」
何やら突拍子もなく淫猥な響きのする提案をしてくる青娥だが、俺へ向ける目は熱情に浮かされる女性と言うよりは罠にかかりそうな獲物を見る蜘蛛を彷彿とさせる。
精神操作や死体使役等の邪法を抵抗なく行う相手に、そんな視線と共に誘われても警戒するのが当然の話だ。と言うより青娥に対するそれらの警戒を抜きにしても、常識的に有り得ない。
「……交友を深めると言うのなら、他にも色々有るだろう」
「あら、お堅い人。男女の仲を潤すには最適な手法だと思いますけど」
「その意見を完全には否定しないが、少なくともほぼ初対面の間柄で行うべき事ではないと思うがね」
にじり寄ってくる青娥から離れながら、呆れの感情を交え諭すように言う。
その類の行為に対する意見として全て間違っているとまで断じる気は無いが、この状況には不適切だろう。そもそも青娥の狙いは欲にかられて無防備になった俺をどうにかする事としか考えられない。
何を言おうと、それは本心ではなく策略からの甘言。そんな事に浮かれて網に引っかかる程、俺は初心ではない。……引っかかるような好色な男にでも見えたのだろうか、それはそれで嫌だな。
そんな俺の内心に見当を付けたのか、それとも実は彼女自身もその気は無かったのか。青娥は早々に切り口を変え、違う話題で俺を翻弄してきた。
「では、それについてはまたの機会と言う事にして……尸条書を貸す対価として、何を頂こうかしら?」
「……確かにその書は貴重だと思うが、貸してもらう事にすら条件が付く程の物なのか?」
「ふふっ、白々しい事。田澤さんって、この尸条書を特別に重要視してるでしょ? 見せた瞬間、雰囲気が変わったわよ」
尸条書を目にした時の混乱や葛藤は表情に出さなかったつもりだったのだが、どうやら青娥は目ざとくも見抜いていたらしい。
俺との交渉で尸条書が切札になる事を、よりにもよって青娥のような相手に知られてしまったと言うのは不味い。只でさえ厄介な青娥に主導権を握られてしまう。
「……」
「やっぱり図星ね。でも警戒する必要なんてないの、この書を読む代償は命だー、なんて事は言わないわよ」
そう言って笑いながら青娥は懐から件の尸条書を取り出し、見せつけるように俺の目の前でひらひらと振る。
このまま青娥に主導権を握られ続ける訳にはいかないので、俺も全力で思考を巡らせ複数の対応を考慮。ひとまず様子見で青娥から言葉を引き出していく。
「……キョンシーを従える君にその手の冗談を言われると、肝が冷えるね」
「まだまだ田澤さんとは会話を楽しみたいし、そんな事はしないわよ。貴方をキョンシーにするのも、結構魅力的な選択肢では有るのですけどね」
……それって、飽きたらキョンシーにしたいと遠回しに言っているような物ではないだろうか。
「俺はあくまで頼む側だし、多少は吹っかけ気味でも受け入れるが……明らかに割りに合わない要求ならば考えが有るぞ。もし見せたくないのなら、最初からそう言ってくれ」
「あらあら、怖いわね。別に意地悪をする気は無いのだけど……大切な物を簡単に貸してあげる気にもなれない、それは分かってくれるでしょう?」
どうも手強いな。本来ならこう言う舌戦や交渉こそ俺の得意とする所なのだが、青娥も中々に隙を見せない。
このままの流れで内容の薄い言葉遊びになると、切札を握られている以上俺が不利だ。この場で望む結果を勝ち取れそうには無いし、一旦仕切り直すべきか。
「……まあ、立ち話もなんだ。休憩も兼ねて、ひとつ腰を据えて話し合おうじゃないか」
「ふふっ、別に構いませんわよ。取引で互いに満足のいく条件を求めるのは当然の事ですものね」
少しでも主導権を握る為の狙いとして、俺は場所を自分が用意すると提案。青娥は特に反論しなかったので、俺が仮設営したテントの中で交渉の続きが行われる事となった。
休憩しつつ互いの落とし所を探るべく言葉を交わしていると俄かに心理戦の様相を呈していき、狭い室内に男女二人という状況ながらも非常に色気から遠い駆け引きを繰り広げていく。
そんな白熱した議論の最中、いつの間にか風と雨の勢いが強くなっている事に気付く。
「……あらあら、此処に留まっていては危険かもしれませんよ?」
「だからと言ってまだ君の屋敷に向かう気は無いぞ。風雨を防ぐ結界でも張れば何とかなる」
多少の風に吹かれた所でこのテントはびくともしないが、流石に嵐の中では快適な環境を保てない。
先程から風が止む気配は無く、このまま本格的な嵐になられると困る。今の内に新たな結界を張って対策を取っておくべきだろう。
そう結論付け、テントの中から強風の吹き荒れる外へ出る。……同時に凄まじい光景が視界に飛び込んできた。
「……普通に災害レベルの大竜巻じゃないか」
近くの山の斜面から暗雲立ち込める空に届かんばかりの巨大な竜巻が発生し、周囲の地面ごと木々を巻き上げている。この暴風雨はあの竜巻に影響されているらしい。
幾ら何でも数時間程度テントに籠っている間に近くでこんな事が起こっていたとは思わず、当初の目的を忘れて暫く呆然と竜巻の猛威を眺めていたが……
「っ、なんて事! 今回は『お迎え』が早いわね!」
俺と同じように外に出て来た青娥が、焦ったように声を上げる。一瞬言葉の意味が分からなかったが、竜巻から妖力に近い気配を感じ取り大体の事情を察する。
青娥の仙人としての宿命、格を上げようと目論む妖怪の襲撃も考えたが、ここまで大規模な力を使う存在と言う事と『お迎え』発言から恐らくは……
「本来の寿命を超えて生きる仙人を裁く死神か」
「少し外れてるけど、概ね正解。あれはおよそ百年単位の間隔で襲撃してくる地獄の使者よ。全く、長生きする事の何が悪いのかしらね」
俺の知識が間違っていなければ、仙人は一定期間ごとに襲い来る死神を撃退する事で不死を勝ち取るらしい。
寿命を超えて生きる事が悪いのであれば、俺も妹紅も映姫辺りに何かを言われそうな物なのだが……何故仙人のみがそんな仕組みになっているのか、そこまでは分からない。
ともかく、現状でそんな事を悠長に考察する余裕はない。今問題にすべきは、青娥が危険を引き寄せていると言う事である。
「……まさか初日からこんな厄介事を持ち込んでくるとはな」
「私だって予想外よ、前回から考えると後もう少しは猶予が有った筈なの。まあ、こうなると選択の余地は無いのよね」
既に意識はこれから始まる戦闘に向けているのか、竜巻を睨むように見ながらキョンシーを呼び出す青娥。
その様子を確認して、不本意だが俺も協力する事にする。ここで激しい戦闘の結果、青娥の持つ尸条書が失われては困るのだ。
『扉』を開いて愛用の刀を取り出し、全身に魔力を流して身体能力を強化。そのままコートに魔力を纏わせて防御力を高める。
「あら嬉しいわ、私を庇ってくださるの?」
「流石に見捨てて逃げるのは後味が悪い。それに、尸条書を持ったままどこぞに吹き飛ばされても困る」
「ふふっ、それでは初めての共同作業と参りましょうか」
いちいち冗談には付き合っていられないので、軽く受け流しつつ竜巻の様子を見る。
竜巻は周囲に甚大な被害を出しながら俺達に接近しているが、地獄の使者とやらの性質が分からなければ対処のしようが無い。
使者に対して直接的な攻撃が通るのか、それとも概念的に撃退する必要が有るのか。相手の出方や倒し方に見当が付かないと、どうにも苦労する。
「青娥、相手の名前や能力について心当たりは有るか?」
「あれについてはまだ何も分からないけど……今まで襲ってきた使者達は、基本的に地獄の実力者よ。あれも見ての通り、相当な立場の者でしょうね」
とりあえず青娥に聞いてみるが、流石にまだ判断には情報が足りな過ぎるようだ。
俺としてもこれで正体が分かるとは考えていなかったので、青娥の経験則を知れただけで良しとする。
「そうか。これまでの使者達は、具体的にどのような事をすれば撃退出来た?」
「相手によるわね。精神攻撃を跳ね除けたらいつの間にか居なくなっていた事も有ったし、力尽くで地獄に送り返してやった事も有ったわ」
「ふむ。物理的な攻撃が通る余地は有るんだな」
それならば問題は無い。強力な敵であろうと、戦闘が行えるのであれば俺のやる事は変わらない。
「……我が内界に宿る記述を励起。『叡智の王国』の記述より、ソロモン72柱が内の序列34番、天候伯『フルフル』を参照。我が魔力と血肉を糧に、汝の力を借り受ける」
主に悪天候を操作する悪魔『フルフル』の力を俺の魔法として発動させ、敵の発生させている大竜巻と風雨に干渉する。
敵の能力や正体は分からないが、悪天候を伴う程の風であれば『フルフル』の力で無理矢理に制御下に置いて乗っ取る事が出来る。勿論完全に奪うまでは行かないが、その猛威を散らす事は十分に可能だ。
「凄いじゃない、どんどん竜巻が縮んでいくわよ。こんな凄い物を見せられたら、私もうっとりしちゃうわあ」
「これは本来君のやるべき事だろう、口よりも手を動かせ」
「あら、手の方がお好み……悪かったわよ、もうふざけないから」
本気で睨んでやると、降参と言った風にお手上げしながら竜巻の方に向き直る青娥。
ふざけないと言いつつも、やはりどこか遊んでいるような態度だが……一応、真面目に追撃をしてくれるらしい。
「さあ皆、あの怖い竜巻を追い払ってちょうだい!」
青娥は腰につけた桃の花を杖のように振るいつつ、呪術を以て周囲の霊に呼びかける。
呼びかけられた下級の霊が呪術の力で中途半端な実体化を果たし、青娥の命を実行するべく不気味な呻き声を上げながら竜巻に向かっていく。
死霊達は竜巻に対して特攻を仕掛け、何度弾かれようとも愚直に竜巻を削っていく。
地力の差が有りすぎる以上、ほぼ全ての死霊が徐々にその力を失い掻き消えていくが、数十回にも及ぶ衝突の果てに竜巻も目に見えて威力を減じる。
その隙を突き、俺も再び『フルフル』の力で竜巻の制御権に干渉。今度こそ完全な掌握に成功し、その暴風を無害な突風として散らし暗雲を吹き飛ばした。
「前哨戦は終わりね」
「今のは相手の本気では無かったと言う事か」
「ええ、ここまでのやり取りなんて所詮は小手調べ。地獄の使者の本領は、不思議で不気味な精神攻撃よ」
災害レベルの大竜巻と対峙しておいて小手調べと言い切るとは、やはり底知れない実力と余裕を感じさせる女性だ。
しかし、その青娥が警戒する程の精神攻撃となれば俺も気を抜いてはいられないだろう。俺は直接的な精神干渉こそほぼ無効に出来るが、幻術を併用する類の間接的な干渉には耐性が完全では無い。
あくまで狙いは青娥だろうとは言え、明確に妨害をしてきた俺を攻撃に巻き込む事は確実な筈。どのように仕掛けてくるのかも不明瞭なので、決して油断は出来ない。
「来るわね、気をしっかり持つのよ?」
「ご忠告、痛み入る」
俺達を囲むような霧が立ち込めると同時に生暖かい風が吹き始めた。
使者の物と思われる妖力の込められた風は、不快にざわめきながら霧を運んでくる。吹いてくるそれに髪の毛を逆撫でされるような感覚を受け、思わず目を瞑る。
「……?」
頬に砂のような何かが当たった気がして、訝しみつつ目を開ける。すると、周囲の光景は先程までと一変していた。
見渡す限りに灰まみれの瓦礫が散らばり、生の気配を感じられない無機的な風景。所々に形を整えられた瓦礫が墓標のように突き立ち、廃墟とも墓地ともつかない奇妙な雰囲気を作っている。
少し離れた位置には崩れ落ちた城のような建造物が存在している事と言い、この光景は『扉』から繋がる異空間に酷似している。……いや、本来は逆なのだ。あの異空間が、この世界を模している。
「瓦礫と墓標の立ち並ぶ、滅びた世界。……『田澤昴』の罪の象徴、か」
対象の記憶からトラウマを呼び覚まして想起させる。これがあの使者の精神攻撃の仕組みと思われる。
可能性としては俺の記録を読み取り幻術としてこの光景を発生させている事も考えられるが、『俺』はともかく『田澤昴』の記録を読み取る事など不可能だ。
今俺の目に映っているこの光景は、俺自身が生み出した物と言って良いのだろう。
つまり俺の認識が弄られただけで先程と同じ場所に居る筈だが、それを意識する事は出来ない。状況的に青娥も同じ状態だろう。
分断された形になり、互いに協力出来なくなったのは痛いが……この光景を青娥に見られずに済んだと言うのは幸いか。『田澤昴』の過去は誰も知らない、知らなくて良い。
「……何時までもこの幻影に囚われ続ける訳にはいかんな」
『扉』から繋がる異空間で殆ど同じ物を見ているとは言え、この場所には心の平静をじわじわと犯す焦燥感を掻き立てられる。
しかし拒絶するように呟いた俺を嘲笑うように揺らめく影が現れ、次第に人の姿を取っていく。その姿を認識した途端、更なる不快感に駆られた。
その姿は、俺と瓜二つの容姿の青年。彼は何事かを呟きながら光の無い瞳で俺の居る方向へと歩いてくる。
とは言っても彼には俺が見えていないらしく、幽鬼のような雰囲気でふらふらと俺の横を通り過ぎていく。思わず俺が硬直すると同時に、彼が狂ったように呟いていた言葉が耳に入る。
「救わなければ。今度こそ救わなければ。赤ん坊も、少年も、少女も、青年も、紳士も、淑女も、老人も、人間であるなら一切合切を救わなければ。何としてでも、人類を救わなければ」
彼はひたすらに救う、救う、と呟き、その様子は到底尋常な精神状態の人間には見えない。
俺から数歩離れた位置で立ち止まった彼は唐突に興奮したような声を張り上げ、狂気の理論を吐き出していく。
「皆を灰にしたのは、怪異の力だ。この世界を滅ぼしたのは怪異だ。非日常など、幻想など、存在してはならない害悪だ。我が救いを阻む悪だ。全ての怪異に裁きを。全ての怪異に裁きを。怪異に裁きを。裁きを。裁き。裁き裁き裁き裁き裁き裁き裁き裁き裁き裁き裁き!」
やがて彼の瞳には光が宿り始める。しかし、それは希望に満ちた輝かしい物ではなく。どこまでも深い狂気に満ちた、禍々しい物だった。
「この世界に生きる命が俺のみである以上、俺の意思は人類の、いや、地球全ての生命種の総意!
この世界の意思が怪異を滅し尽くす事を選び、全ての命の復活を決定した! 俺は怪異を滅ぼす権利が有り、命を救う義務が有る! 俺は、世界に選ばれた救世主だ!」
……いい加減、この幻影の世界から抜け出さなくては。過去の再現たるこの幻影をこれ以上眺めつづけていると、『俺』も彼の妄念に引きずられそうだ。
既に全ては終わっており、俺の行動でこの幻影の世界の何かが変わる訳でもない。彼の傲慢な嘆きも、過去に有った事実と言う以上の価値は無い。俺は過去ではなく、今を見なければならないのだ。それが、彼のためでもある。
内界に宿る記述を励起し、その断編から悪魔の力を自らの魔法として行使。扱う力は真実を見通す悪魔、『マルバス』。
まやかしを断ち切り五感を研ぎ澄ます曇りなき瞳を以て、自らの心が見せていた『田澤昴』のトラウマ、その再現を掻き消す。
「■■、■■■! 俺は、絶対に君達を……」
「……む?」
地獄の使者の力を真正面から打ち破り、その幻影が急速に揺らいでいく中。何故か、彼が最後に叫んでいた言葉を聞き取る事が出来なかった。
とは言え、この場の幻影は全て俺の記録に因る物。彼が話す内容は聞くまでもなく、全て俺が覚えている。だからこそ特に執着する事もなく、意識に残す事もなく、消えていく彼を見送った。
「……戻ってきた、いや、目が覚めたと言うべきか」
幻影が霧のように消えた後、俺は先程まで居た平原に立っていた。まあ、客観的に見ればそもそも最初から此処に居たのだろう。
使者の気配は感じられなくなっているが、一応周囲を見回す。すると、青娥もたった今『戻ってきた』様子で俺に声をかけてきた。
「そっちも無事みたいね。ああ、悪趣味な奴だったわ」
「君に悪趣味と言われるとは、地獄の使者も形無しだな。否定はしないが」
珍しく表情を歪めながら吐き捨てる青娥。どうやら彼女も腹に据えかねる幻影を見せられたらしい。
もしもそれが俺が見た物と同じ性質の幻影だったならば、記憶の奥底から引き出されたトラウマに耐え、その上で幻影を打ち破ったと言う事になる。やはり相当な実力の持ち主だ。
「……いつの間にか、使者の気配が消えているな」
「私の方には使者が直接出向いて来たから、昔の思い出と一緒に吹き飛ばしてやったわ。一石二鳥で気分も爽快ね」
「言うほど簡単な事でも無いだろうに……よくやるよ」
「それは貴方だって同じじゃない」
確かにあの幻影で心を乱されず、自力で打ち破ったと言う点を見れば似たような物か。
とは言っても、俺が見たあの再現は厳密に『俺』のトラウマかと聞かれれば生憎悩まざるを得ない。正直、青娥よりも余裕は有ったと思う。そもそも使者の本命は青娥であって、俺はおまけで巻き込んだだけだろう。
尤も、『田澤昴』に対してあれ以上に最適な精神攻撃は無いとも思うのだが。
「ともかく、一件落着と言う事で良いのか」
「そうね。さっきも言ったけど、お迎えの周期はおよそ百年。一度撃退すれば、当分先よ」
それを聞いて安心した。あのくらいの襲撃ならばまだ連戦できるのだが、本来遭遇する筈のない戦闘に巻き込まれると言うのは精神的に疲れる。
「……それにしても田澤さん。貴方、何で尸条書が欲しいの?」
「む?」
「最初は単純にこの書の力が欲しいのだろうと思ってたけど、貴方の力を見ていると執着する理由はそれでは無さそう。教えてくれない?」
俺が安堵の息を吐いたタイミングを見計らうかのように、青娥が急に話題を変えて問いかけて来た。……直前まで話していた内容では有るし、ある意味自然な流れでは有るのだろうか。青娥としては俺の不意を突く事こそが目的なのだろうけども。
しかし厄介な所に興味を持たれてしまったな、正直に理由を話す訳にもいかないが下手な誤魔化しが通用する相手でもない。答える義務は無いと言えばそれまでなのだが、ある程度は質問に答えないと取引自体がご破算になりそうで困る。
「その書には因縁が有る。正確には書その物と言うより記述の方だが、それらが広まる前に回収したいのだ」
「回収って、自分が元々の所有者みたいな言い方ねぇ」
大幅に詳細を省いて、動機のみを簡潔に話す。殆ど説明になっていないような答えだが、青娥はそこよりも俺の言い方に意識が向いたようだ。
「……この世界で俺以上にその書に関する知識を持った存在は居ないだろう、という自負は有る」
「あら、随分と自信が有るのですね。そこまで言うなら、少なくともこの書に記された知識や呪法は全て修めていると受け取って良いのかしら?」
「原典と、そこから派生した幾つかの写本についてはな。
その書は俺の知っている原典からはかなり末端に位置する写本のようだし、写される過程で新たに加えられた記述についてまでは保障出来ない」
「……それが誇張で無いなら、是非ともご教授願いたいわ」
「徒に他者へ広めないと確約するのであれば、尸条書との交換で教える」
青娥が興味を持ってきたので、すぐさま交換条件を提案する。
禁忌の叡智を教授するなど本来であれば想像の埒外だが、逆に言えば俺の側で与える情報をコントロール出来るという事にもなる。
気まぐれに知識を広めかねない青娥に尸条書を持たせる事だけは何としても阻止する必要が有るし、多少のデメリットは承知で攻めるべきだろう。
「そうねえ、それで手を打とうかしら」
「では、交渉成立だな」
……さっきは『大切な物だからそう簡単には貸せない』と言っていたのに、随分と躊躇なく手放したな。
調子の良い性格と言えば良いのか、思い切りの良い性格と言えば良いのか。どちらにせよ、俺としては最重要目的をいち早く達成する事が出来たので幸いだ。
「ふふっ、結果的にはあべこべになったわね」
「何が……ああ、確かにな。一応は、君が俺に弟子入りする事になったと取れなくもないのか」
「これから改めてお願いしますね、師父殿?」
「……何か、落ち着かんな」
「酷いわ、教えを乞う相手に敬意を払う事の何がいけないのかしら」
「その、俺の内心を理解していながら敢えて外した話を振ってくる態度が疲れるのだよ……」
……しかしこれから青娥の為に骨を折る事になると考えると、あまり素直に喜べん。
隙あらば出し抜こうとする気概を隠そうともしていないし、話をしていると色々と疲れる。そんな相手がこれから暫くの間、弟子になるとは。俺の気が休まる暇は無くなるのではないだろうか。
ああ、離れてから数年程度で妹紅との旅が懐かしくなってきた。俺にも目的がある以上、今更戻る訳にもいかないしなあ……